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宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜  作者: 条文小説
〈権利関係 配点14点/50点〉 債権の消滅

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105/210

[相殺と同時履行]現場編 車を渡さず借金まで消すな

挿絵(By みてみん)

 借金と代金が、ちょうど同じ百万円。


 普通の人なら、こう思うでしょう。


「だったらチャラでいいじゃん」


 私も前世なら、そう思いました。


 そして宅建の問題集を開いて、


「チャラじゃねえのかよ!」


 と、机に突っ伏しました。


 法律というものは、ときどき算数より性格が悪い。


 百万円引く百万円はゼロ。


 ところが民法では、


 誰が、


 どの百万円を、


 どっち向きに消そうとするのか。


 それによって、ゼロになったり、ならなかったりするのです。


 面倒くさい。


 でも、その面倒くささが、人を救うこともあります。


 その日の午後。


 大槻不動産の事務所に飛び込んできた男性は、開口一番こう言いました。


「車を渡してくれないんです!」


 私は湯飲みを持ったまま固まりました。


 不動産屋です。


 念のため言います。


 うちは中古車屋ではありません。


「……真壁さん」


「俺を見るな」


「車ですよ」


「聞こえてる」


「ここ、不動産屋ですよね」


「俺も今それを確認したところだ」


 怖い顔の真壁さんと二人で首を傾げていると、奥の机から大槻所長が低い声を出しました。


「まず話を聞け」


 はい。


 所長の一言で、不動産屋はだいたい何でも相談所になります。


 男性は三十代半ばくらい。


 名前を佐伯さんといった。


 小さな印刷会社を経営していて、半年前、知人の野村という男に百万円を貸したらしい。


「昔からの付き合いなんです。資金繰りが厳しいっていうから……」


「借用書は?」


 真壁さんが尋ねる。


「あります。返済期限も、もう来ています」


 佐伯さんは封筒から一枚の紙を出しました。


 金銭消費貸借。


 百万円。


 返済期日、先月末。


 ふむ。


 それだけなら、単なる貸金回収の相談です。


 ところが話には続きがありました。


「その野村さんから、今度は車を買ったんです」


「車を?」


「はい。会社で配達用の車が必要になって。野村さんが乗っていたワゴン車を百万円で譲ってくれるって」


 百万円。


 私は眉を上げました。


「貸したお金も百万円ですよね?」


「はい」


「車の代金も?」


「百万円です」


「……きれいに揃いましたね」


「俺もそう思ったよ」


 佐伯さんは苦笑しました。


「だから、最初は簡単だと思ったんです。俺が貸してる百万円と、車の代金百万円を相殺すればいい。そうすれば金の受け渡しはなしで、車だけ受け取れば済むって」


 そこまで聞いて、私は頷きました。


 うん。


 その発想自体は分かる。


 というより、今回の事件。


 たぶん、そこからひっくり返る。


「で、野村さんは何て?」


「それが……」


 佐伯さんの顔が曇りました。


「今朝になって、『もう相殺したから終わりだ』って」


「……はい?」


 私は思わず聞き返しました。


「野村さんが?」


「はい」


「何を何と?」


「車の代金百万円と、俺に返す百万円をです」


 真壁さんが腕を組む。


「まあ、金額だけ見れば同じだな」


「そうなんです。それで野村は、『これで貸し借りなし。車の話もなしだ』って」


「車の話もなし?」


 私の眉間に、たぶん一本皺が増えました。


「売買契約は?」


「もうしています」


「車は?」


「まだ受け取ってません」


「代金は?」


「払ってません。というか、貸金と相殺するつもりだったので」


 なるほど。


 完全に見えた。


 私は手元のメモに、簡単な図を書きました。


 佐伯さん――野村さんに百万円を貸している。


 つまり佐伯さんには、


 百万円返せ、


 という貸金債権がある。


 一方で、車の売買では、


 野村さんには、


 百万円払え、


 という代金債権がある。


 そして佐伯さんには、


 車を渡せ、


 という引渡請求権がある。


 問題はここです。


 車の売買では、


 車を渡すことと、


 代金を払うことは、


 原則として同時です。


「車を渡してないのに……」


 私は呟きました。


「代金だけ取ったことにしようとしてる?」


 佐伯さんが勢いよく頷いた。


「そうなんですよ!」


 いや。


 それは駄目です。


 そんな便利な魔法があったら、全国の売主が唱えます。


 商品渡さない。


 でも代金はもらったことにする。


 さらに自分の借金まで消す。


 錬金術でしょうか。


「野村さん、今どこに?」


 真壁さんが聞いた。


「駅前の倉庫です。車もそこにあります」


 真壁さんが私を見る。


 私も真壁さんを見る。


「行くか」


「行きましょう」


「お前、こういう時だけ返事が速いな」


「百万円が二つ並ぶと、宅建受験生の血が騒ぐんです」


「意味分からん」


 私もです。


 * * *


 駅裏の倉庫には、白いワゴン車が停まっていました。


 昭和の商用車。


 四角い。


 とにかく四角い。


 現代の車が空力とかデザインとか言い出す前の、


「荷物を積みます」


 という意思が外観から伝わってくる潔い箱です。


 その横で、五十前後の男が煙草を吸っていました。


 野村さんでした。


「なんだ、佐伯。今度は不動産屋連れてきたのか」


「野村さん」


 佐伯さんが一歩出る。


「車、渡してください」


「だから言ったろ」


 野村さんは面倒そうに煙を吐いた。


「もう相殺した。お前に返す百万円と、車の代金百万円。差し引きゼロだ」


「じゃあ車を」


「渡さねえよ」


 はい。


 出ました。


 法律相談で一番怖い日本語。


「じゃあ」。


 前半と後半が、全然つながってない。


「なぜです?」


 私は尋ねました。


 野村さんが、ようやく私を見る。


「誰だ、お嬢ちゃん」


「大槻不動産の藤崎です」


「不動産屋が車に何の用だ」


「私もそれは一時間前から疑問なんですが」


 真壁さんが横で吹き出しそうになる。


 私は続けました。


「でも、相殺の話なら少し分かります」


「なら簡単だろ」


 野村さんが鼻で笑う。


「百万円と百万円。相殺してゼロだ」


「金額だけならそうですね」


「だろ?」


「でも野村さん」


 私は白いワゴン車を指差しました。


「その百万円の代金債権って、何の代金です?」


「車だよ」


「車、まだ渡してませんよね?」


「それがどうした」


「大ありです」


 私はなるべくゆっくり言いました。


「佐伯さんには、『車を渡してくれるまで代金は払いません』と言える立場があるんです」


 野村さんの眉が動いた。


「売買なんだから当然だろ」


「はい」


「だったら相殺すりゃ同じじゃねえか」


「同じじゃありません」


 私は即答しました。


 ここが今回の肝です。


 相殺というのは、一見すると、


 百万円と百万円をぶつけて消すだけに見える。


 でも、債権には、ときどき“防具”がついています。


 今回、野村さんの代金債権には、


 佐伯さんの、


 車を渡すまで払わない、


 という防具がついている。


 同時履行の抗弁権。


 名前は長い。


 やっていることは、


「そっちがやるまで、こっちもやらん」


 です。


 非常に人間的です。


「野村さんが今やろうとしていることは」


 私は言いました。


「その防具を、野村さんの側から勝手に外すことなんです」


「は?」


「車を渡していないのに、代金だけ払わせたことにする」


「だから貸金と――」


「そうです。その貸金を消して」


 私は一歩踏み込みました。


「しかも車まで渡さない」


 佐伯さんが黙ってこちらを見ている。


「それが許されたら、佐伯さんはどうなります?」


「……」


「百万円の貸金債権は消える」


 一本指を立てる。


「でも車は来ない」


 二本目。


「車が来ないから代金を払わなくてよかったはずなのに、その代金まで払った扱いになる」


 三本目。


「つまり」


 私は手を下ろしました。


「佐伯さんだけが、丸裸です」


 倉庫が静かになりました。


 野村さんの煙草の先から、灰が落ちました。


「そんな虫のいい相殺はできません」


「……お嬢ちゃん」


「はい」


「じゃあ逆ならどうなんだ」


「逆?」


「佐伯が言う分にはいいのかよ」


 来た。


 そこです。


 今回いちばん面白いところ。


 私は少しだけ笑いました。


「できます」


「は?」


 野村さんだけでなく、佐伯さんまで声を上げた。


「え?」


 真壁さんが私を見る。


「栞」


「はい」


「今の、一番ややこしい答えだぞ」


「法律って、たまに性格悪いですよね」


「法律のせいにするな」


 私は佐伯さんに向き直りました。


「佐伯さんの方からなら、貸金百万円を使って、車代百万円と相殺できます」


「……同じ百万円を消すのに?」


「はい」


「野村がやるのは駄目で、俺がやるのはいい?」


「そうです」


「なんでだよ!」


 ごもっとも。


 前世の私も問題集に同じことを言いました。


「違うのは」


 私は車を指差しました。


「誰が不利になるかです」


「誰が……?」


「佐伯さんが相殺すると」


 私は説明しました。


「佐伯さんは、自分から先に代金を払ったのと同じ状態になります」


「先に?」


「本来なら、車と代金は同時です。でも佐伯さん自身が、『俺の貸金で代金を払ったことにしていい』と言うなら」


 私は肩をすくめました。


「車をまだ受け取っていないのに、自分から先払いしたようなものです」


「つまり……」


 真壁さんが口を挟む。


「損する可能性があるのは佐伯さん自身か」


「そうです」


「野村は困らない」


「むしろ代金を受け取った状態になります」


 佐伯さんが少しずつ理解した顔になる。


「じゃあ俺が相殺したら……野村はもう『代金が未払いだから車を渡さない』とは言えない?」


「そういうことです」


 私は頷きました。


「代金は消えていますから」


 野村さんの顔から、先ほどまでの余裕が消えていました。


「待てよ」


「待ちません」


「いや、お前ら勝手なこと――」


「勝手なのはどちらです?」


 低い声が響きました。


 振り返ると。


 大槻所長が立っていました。


 いつ来た。


 この人、気配を消す職業を間違えていませんか。


「所長」


「話は聞いた」


 大槻さんは野村さんを見る。


 大声ではない。


 怒鳴りもしない。


 でも、静かな人が本気で圧を出すと、倉庫の温度が二度くらい下がる。


「野村さん」


「……なんだよ」


「佐伯さんに借りた百万円。返済期限は過ぎているな」


「それは……」


「そして、車の売買契約も成立している」


「……ああ」


「なら話は単純だ」


 所長は白いワゴン車を見た。


「佐伯さんが貸金債権で代金債権を相殺するなら、代金は消える」


「……」


「あなたは車を渡す」


「だが――」


「逆は駄目だ」


 ぴしゃり。


「あなたが代金債権を使って貸金を一方的に消せば、佐伯さんの同時履行の抗弁権を奪うことになる」


 野村さんが唇を噛んだ。


 所長は続けます。


「車を渡していない者が、自分の借金だけ消すために相殺を使う。そんな使い方は認められん」


 静かでした。


 ものすごく静かでした。


 でも私の心の中では、


 所長ォォォ!


 と拍手喝采です。


 こういう時だけ、いちいち格好いい。


 普段は私の字が汚いとか言うくせに。


「佐伯さん」


 私は振り返りました。


「どうします?」


 佐伯さんは、しばらく野村さんを見ていました。


 昔からの知人。


 だからこそ百万円も貸したのでしょう。


 そして、たぶん。


 だからこそ、こんな形になるのが一番つらかった。


「……相殺します」


 佐伯さんは言いました。


「俺が野村に貸している百万円と、俺が払う車代百万円を」


 野村さんが顔をしかめる。


「佐伯」


「野村さん」


 佐伯さんは静かでした。


「金を貸したことは、別に後悔してません」


「……」


「困ってるって言ったから貸した。それは俺が決めたことだ」


 一度、言葉を切る。


「でも」


 白い車を見る。


「それで車まで取られて、貸した金まで消されるのは違う」


 その声には怒鳴り声より重いものがありました。


「俺も会社がある。従業員がいる。配達を待ってる客もいる」


 野村さんは何も言えなくなった。


「……鍵」


 佐伯さんが手を出しました。


 長い沈黙のあと。


 野村さんはポケットから車の鍵を出しました。


 金属の鍵が、佐伯さんの掌に落ちる。


 小さな音でした。


 ちゃり。


 たったそれだけ。


 でも、その音で百万円分の理不尽が、ようやくほどけた気がしました。


 * * *


 帰り道。


 私は真壁さんの車の助手席で、腕を組んでいました。


「……納得いかない顔してるな」


「いえ」


「してる」


「ちょっとだけです」


「何がだ」


「同じ二つの百万円を消すだけなのに、誰から相殺するかで結論が変わるって」


「今日、自分で説明してたじゃねえか」


「説明できることと、感情的に納得できることは別なんです」


 真壁さんが笑った。


「お前、法律向いてないんじゃねえか」


「前世でも何度も思いました」


「前世?」


「独り言です」


 危ない危ない。


 真壁さんは前を見たまま言いました。


「でもまあ、分かりやすかったぞ」


「何がです?」


「誰が損するか、って話」


 私は少し考えました。


「そうですね」


「佐伯さんが自分から相殺するなら、自分で先払いしたようなもんだ」


「はい」


「だから野村は困らない」


「はい」


「でも野村から相殺したら」


「佐伯さんは、車を受け取るまで払わなくていいという立場を奪われます」


「車が来ない。貸した金も消える」


「最悪です」


「なるほどな」


 真壁さんは信号待ちでこちらを見ました。


「法律って、案外ちゃんとしてるじゃねえか」


「失礼ですよ」


「お前、さっきまで性格悪いって言ってただろ」


「私が言うのと真壁さんが言うのは違います」


「なんでだよ」


「身内の悪口みたいなものです」


「いつから民法がお前の身内になった」


 知りません。


 でも、前世から散々苦しめられていますから。


 腐れ縁くらいではあるでしょう。


 事務所へ戻ったころには、外が少し暗くなっていました。


 机の上には、佐伯さんが帰り際に置いていった紙袋がありました。


「何ですか、これ」


「菓子折り」


 所長が新聞を読みながら言う。


「そんなの受け取ったんですか?」


「断った」


「ありますけど」


「二回断った」


「三回目で負けたんですね」


 所長は新聞を下げませんでした。


 図星らしい。


 私は紙袋を開けました。


 中には羊羹。


 ずっしり。


 昭和の感謝は、だいたい重い。


「栞」


 所長が呼びました。


「はい」


「今日の件、覚えておけ」


「相殺ですか?」


「ああ」


 新聞が少し下がる。


「数字だけ見れば、同じ百万円だ」


「はい」


「だが、法律は数字だけ見ていない」


 私は黙って聞いた。


「その債権に、何がくっついているかを見る」


「……同時履行の抗弁権」


「そうだ」


「車を渡すまで、代金を払わなくていい」


「それを一方的に奪うような相殺は認めない」


 所長はまた新聞を上げました。


「覚え方はそれで十分だ」


 私は机に座り、ノートを開きました。


 そして大きく書く。


 百万円 対 百万円。


 でも、


 Aからなら相殺できる。


 Bからは相殺できない。


「……絶対、試験で引っかけてくるやつだ」


 思わず呟く。


「何が?」


 真壁さんが羊羹を勝手に切りながら聞いた。


「同じ債権なのに、向きで答えが変わるところです」


「じゃあ覚えりゃいい」


「簡単に言いますね」


「今日、実物見ただろ」


 真壁さんは羊羹を一切れ、私の皿に置きました。


「車を渡さず借金まで消そうとした奴」


「……はい」


「忘れねえだろ」


 私は羊羹を見ました。


 確かに。


 テキストなら、


『同時履行の抗弁権が付着した債権を自働債権として相殺することはできない』


 なんて一行で終わる。


 眠い。


 読んだ瞬間、脳が閉店します。


 でも今日からは違う。


 白いワゴン車。


 百万円。


 車を渡さず、借金だけ消そうとした野村さん。


 そして、


「鍵」


 と手を差し出した佐伯さん。


 たぶん、もう忘れない。


 私は羊羹を一口食べました。


 甘い。


「真壁さん」


「ん?」


「相殺って、便利ですね」


「急にどうした」


「お金を実際に動かさなくても、債権を消せる」


「ああ」


「でも便利だからこそ」


 私はノートを閉じました。


「相手の権利まで、一緒に消しちゃ駄目なんですね」


 真壁さんが一瞬黙り。


「……お前、たまに十八歳じゃないこと言うよな」


「苦労してるんです」


「何に」


「主に民法に」


「知らねえよ」


 窓の外を、夕方の車が走っていく。


 昭和六十三年。


 まだ世の中には、携帯電話もカーナビもほとんどない。


 でも、人間が、


「これとこれ、チャラにしようぜ」


 と考えることだけは、きっと昔から変わらない。


 だから法律は、その「チャラ」の向こう側を見る。


 誰かが、一方的に丸裸にならないように。


 私はもう一切れ、羊羹を取った。


「栞」


「はい?」


「それ、俺の分」


「相殺します」


「何とだよ」


「昨日のお茶くみ代です」


「そんな債権ねえよ!」


 残念。


 百万円の相殺はできても。


 羊羹一切れの相殺は、成立しませんでした。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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