第四十話 過去との別れ
クレアは離婚後、正式な手続きを経てランネル男爵家の当主となり、ローザの生家だった、以前手に入れた旧男爵邸に移り住んでいた。
暮らしながら少しずつ内装を変えているため、かつての面影は消えつつある。
クレアは、この家の壁にかけられていたローザやその家族、一族たちの肖像画は劣化しないように気を配りながら保管していた。
彼女の前世の記憶の中で、ローザが案じていた彼女の家族は、無事にあの動乱期を乗り切ったことをクレアは知っている。この家の改装にあたっていくつかの資料が見つかり、その中には家系図も残っていたからだ。
この家系はその後途絶えてしまったけれど、クレアはこの人たちをずっと忘れないでいようと思った。
彼女の事業も順調だった。そのため、代理人のロンダンの部下も増えた。
ロンダンの息子のケントは急にとある男爵家の婿養子にと望まれて結婚し、仕事も辞めた。
それもあって、ロンダンは部下たちを育成中だ。新しく雇ったその従業員たちはオーナーの存在を知っているが、念のため表には出さないように念書を書かせている。
その様なわけで、暮らす場所は変わったけれど、クレアがしている事は離婚する前とほとんど変わっていなかった。
それは、わざわざカレドアル伯爵家を辞めてまでクレアについて来てくれたナーラや数名の使用人のおかげでもあった。
ナーラはクレアがカレドアル伯爵家を正式に出る時に、彼女について行くと言ってくれた。給金も少し下がってしまうのに、それでもいいと言ってくれた。
彼女を信頼して、クレアは国家機密に関わらない範囲で、ナーラには自分の傷跡が消えた顛末を話していた。
身の回りの世話をしてくれる彼女にはクレアの傷跡が消えた事実は隠し通せないし、一連の出来事で随分と心配をさせてしまったからだ。
そして何よりも、クレアはいつも自分と共にいてくれたナーラに自分の秘密を聞いてもらいたかった。
ナーラには、あの傷跡が魔法の産物であったこと、そしてそれは前世の彼女が愚かな行いをしてしまったために現れたものだと説明した。それだけが真実だったからだ。
エリオットの前世や、クラウディア女王については触れなかった。それは本質的にはあの傷跡には関係がないとクレアは思っていた。
悲しいことだけれど、身分間の差は、この国では現在でも厳然と存在する。クレアだって、何か守りたいものを人質に取られ、貴人の身代わりとなって死ねと言われたら従うしかない。
ただ、自分の身を犠牲にするだけではなく、慰めを求めてシェラードを巻き込み、未来への希望を捨てきれずにあがいたのは全てローザの問題だったのだとクレアは思う。
ローザは被害者でもあったけれど、加害者でもあった。ローザの弱さや身勝手さは彼女自身のものだった。
だから、ナーラには、ルギアやエリオットの協力のおかげでその魔法が解除され、傷跡は消えたのだとクレアは説明した。猫の姿でクレアと共にいてくれた、前世の記憶であるメアはクレアに同化してしまったことも話した。
彼女は驚いていたけれど、クレアを否定することはなかった。「苦しんでおられたのに、何も出来なくて」と彼女が涙を流した時には、クレアもほんの少しだけ涙をこぼした。
そのナーラはこの間、別邸で下男をしていて、こちらで雇いなおした時に使用人となったベニルという男性と結ばれて結婚をしている。
エリオットはしばらくの間、クレアが生活に不自由しない人数の使用人を雇って、彼女が移り住んだ屋敷で働かせてくれた。ベニルはその中の一人だった。
今では彼はほぼ執事のような、使用人をまとめる役割りを担ってくれている。
クレアは、自分でもそれらの人々を雇っていけるように仕事に邁進した。そして半年後には、エリオットに「もう援助はいらない」と手紙を書いた。それがエリオットと交わした最後のやり取りになった。
クレアは別居期間や離婚手続きに要した時間を入れても一年ほどで終わった結婚生活や、その間に起こった不思議で、悲しみも伴った経験をときおり思い出していた。
離婚の少し前まで彼女の左腕と胸の中心部には醜い傷跡があった。
夫であったエリオットと婚約し、彼と共に暮らし始めるまで、クレアはその傷跡のせいで、母親や妹、そして一部の使用人を除いた屋敷中の者たちから不吉な者と言われていた。
辛いことをもたらした存在だったけれど、湯あみや着替えの時に傷跡が見当たらないことに不安のような不思議な感覚を覚えるくらいには、あの傷跡は確かにクレアの一部だった。
そう思えるようになったのは、家族と本格的に決別できたことも大きかったのではないかとクレアは思う。
まだカレドアル伯爵家を出てそう時間が経たない頃、この屋敷に妹がやってきた。
どこから聞いたのか、なぜか妹はクレアの居場所を知っていた。彼女の広い交友関係は本当に厄介だとクレアは思った。
クレアはもうこれで妹のエマに会うのも最後にしようと決めた。そしてそれを彼女に告げるために屋敷に招き入れた。
慌てているので何事かと思ったら、クレアにすぐに実家の領地に来て欲しいと妹のエマは言った。
そんな様子を見せられて、クレアの心は揺れたけれど、こっそりとベニルやナーラに止められた。ベニルは「危険」だと言った。
彼が元軍人だということは聞いていたから、クレアはその彼の見識を信用して、冷静にその言葉に従うことが出来た。
クレアは妹から聞き出せるだけのことを聞き出そうと思った。自分の身を守るために。
「ベルガー子爵家の領地には参れませんけれど、お話くらいはお聞きするわ」
エマは心底困ったような声で話し出した。
「お父様とお母様がお金のことで揉めて、お母様がお父様を花瓶で殴りつけたと使いが来て。お母様を罰すると、離縁をするとお父様はおっしゃっているようなの。
でもそれは全てお金が無いことが原因だから、その問題を何とかしなければと思って。お姉様は、前にお金の援助をしてくださったのでしょう? またそうしてくれれば、きっとお母様は元通りに暮らせるわ」
クレアは確かに、エリオットとの離婚の際に彼から「慰謝料」と言う名目で多額の金銭を受け取った。もらえないと言ったけれど、エリオットは「必要になることもあるかもしれない」と言ってクレアにそれを受け取らせた。
申し訳なく思いながらも、そのお金で父の出した損失の補填をし、弟の学習や社交界に出るために必要であろう資金の一部を実家に送った。
しかし、それはあくまでも実家との手切れ金のつもりだったし、手紙にもはっきりとそう書いた。
妹のエマにはそこまでは伝わっていなかったのだろう。
その後何があったのかは容易に想像がつく。また父がそのお金を怪しげな事業にでも使ってしまったのだろう。
でももう、クレアにはこれ以上出来ることはない。お金を送ってもまた同じ事が繰り返されるだけだろう。
そして、母が父を害そうとしたのなら、その罪は母のものだ。誰かが肩代わりできるものではないはずだ。
「私はもうベルガー子爵家の人間ではないの。私に出来ることはもう何もないわ」
「なぜそんなことを言うの? お姉様は離婚なさったのですもの。いくら、手切れ金と一緒に爵位を与えられたからと言って、お父様とお母様の子どもだということは変わらないでしょう?」
クレアはやはりこの妹が理解出来なかった。
クレアがどんな仕打ちを受けていたか、エマはつぶさに見ていたのに、クレアの婚約式の前には酷い言葉を投げかけて来たのに、それらの全てを忘れてしまったのだろうか。
そうかもしれないとクレアは思った。人は簡単に自分の罪悪感に蓋を出来る。
クレアはそれを、前世の自分であるローザから教えられた。誰でも、自分が一番になるのは仕方がない。そのために誰かを犠牲にすることで心の安寧を得られるのであればそうしてしまうのだろう。
でもクレアは少なくとも、生家のためにはもう何もする気がなかった。お金に困っているようではあるから、あの家の中でクレアを想って世話をしてくれた、歳のいった使用人たちが解雇されて困っていないかだけ、人をやって確認させようと思った。
クレアがするのはそれだけだ。
「エマ、いえ、ニーメルディア子爵夫人、あなたももうあの家の人間ではないけれど、それでも助けたいと思うのなら、ご自分のご主人にお願いをしたらいかが?」
それと、今身に着けているドレスや宝飾品を売れば、多少の助けにはなるだろうとクレアは彼女に言った。
至極真っ当な助言だとクレアは思ったけれど、なぜかエマの顔は怒りに歪んだ。
「そんなことをしたら、私まで離婚されてしまうわ。今でも夫にお母様のことを知られないか冷や冷やしているのに。
お姉様が不吉な呪いを受けたせいで、お母様は散々苦しんだのだから、お姉様はお母様を助けなければいけないのよ!」
クレアが笑い出したので、エマは勝ち誇ったような表情を消した。
「何がおかしいの」
クレアは羽織っていたショールを下ろして、エマに左の腕を見せた。もう傷跡などないその場所を。
「あれは呪いではなくて魔術で出来た傷跡だったと分かったの。魔術に詳しい方がそうおっしゃって、私にかかっていた魔法を取り除いてくださったのよ。呪いに関係するようなものではなかったそうよ」
「うそ……そんなこと、簡単に信じられないわ」
「あら。ではなぜ、あなたは母様の言う事はそのまま信じてしまったのかしら。呪いなんてものはないと、お父様も否定していらしたでしょう?」
エマは何を考えているのか分からない顔で、クレアの傷跡があった場所を見つめていた。
「なんにせよ、私にとってはお母様やあなたこそが呪いの根源だったのよ。
私を不吉だと言い続けて、私を傷つけ続けたのはあなた。だから、そんな呪いとは縁を切るわ。お母様とも、あなたとも。残念だけれど、領主としての責任を放棄しているとしか思えないお父様とも」
エマは何か言おうとしているようだったけれど、クレアを睨みつけたまま黙り込んでいる。
クレアは、エマの方が哀れなのかも知れないと思った。エマは母親からの愛情を受けた分、母親から依存され、そして依存しているのかもしれない。
この国の法律では、他家に嫁いだ娘には実家を助ける義務はないというのに。
クレアは口を閉じたまま動かないエマをどうしたものかと思った。そういえば、彼女はこの日はメイドを連れて来ていない。夫に実家のことを隠していると言うのは本当らしかった。
でももうクレアは彼女に付き合う気はなかった。
クレアは控えていたナーラやベニルら使用人たちを呼んで、エマをこの家から追い出した。
それ以来、クレアは実家のことは調べてもいない。
思い出すと、いまだに虚しさや悲しみが去来するけれど、もう過去のことだと自分自身に言い聞かせている。
何度忘れてしまおうと思っても、母から浴びた言葉のとげは抜けてはくれない。そして、あの傷が現れるまでは彼女に微笑みかけてくれたあの顔を、全く忘れてしまうことは出来なかった。単純な憎しみだけで片付けてしまえればどんなにいいだろう。
そんな時は、ルギアが誘ってくれたように、全てのしがらみを断ち切ってどこかへ行ってしまえたらと思った。
大勢の人間の生活を犠牲にしてもいいと思えるほどの衝動ではなかったけれど、クレアは窓の外の、小さな空を見上げた。
そうして、クレアはかつての自分を少しずつ認め、自分に起きたことを受け入れられるように努力していたのだった。
◆
街中によく出かけるようになったクレアは、裏通りの楽器店をたびたび訪れている。
店主とも楽器以外のことも話すようになったある時、クレアは百年前にこの国で起きた動乱の際の市中の様子を聞いた。
クラウディア女王に味方した者たちが殺されて、その遺体がまとめて葬られた場所があるのだと店主は言った。
クレアは、ローザの記憶を辿って、確かにそうでなければおかしいと思った。
あの時はローザをクラウディア女王と思い込んで守っていた近衛騎士が大勢いた。エリオットに聞いた話では、彼らは一人残らず殺されたという。
貴族たちの中にも当然女王を支持する者たちがいた。彼らの中にも反抗して殺された者もいたはずだ。
女王と思われていたローザと共に、見せしめのために城の中で吊るされた人は、さすがにその全員ではないだろう。
クレアが何も知らない体で聞くと、店主も祖父や父から聞いた話だが、と断りを入れながら話をしてくれた。
そういった、キーラン国王の即位に反対した貴族たちの中には、その遺体をその辺りに放置された者もいたらしい。彼らの遺体は、街の人たちに金目のものは全て剥ぎ取られたが、それを哀れんだ人たちもいた。そして、その人たちによって、街の外れに彼らの墓のようなものが作られたのだという。
貴族の子女には国が正史と認める歴史しか教えられないかもしれないが、庶民の間では違うのだと店主は言った。口伝えに親から子へ、過去の出来事が教えられている。
とは言え、その記憶は人々の間で薄まってしまい、もう店主の孫の世代ではほとんど知る者もいないということだった。
クレアはその翌日、花を買い求め、早速教えてもらった、その墓所と言って良いだろう場所に行った。
大きな石が、墓石のように一つ置かれているだけのその場所はあまり治安の良くない場所にあって、護衛を買って出たベニルに促され、花を供えるとクレアはすぐに馬車に乗り込んだ。
そして、以前エリオットから聞いた、ローザの遺体が埋められているはずの場所にもそうしようと思い、時折手紙のやり取りをしているシュリアーに手紙を書いた。
シュリアーは、クレアがエリオットと離婚すれば本来だったら関係が切れてしまう身分の方だった。だから、二人はただの友達になることにした。
身分など関係なく、互いを名前で、しかも呼び捨てで呼ぶ。手紙の中のことだけでもクレアは酷く恐縮したものだったけれど、それにも今では慣れた。
そんなシュリアーとは、いつも互いの日常の様子を書いた手紙を送り合うことしかしていなかったけれど、クレアは頼みごとをすることにした。ローザが眠っているはずの場所に連れて行って欲しいと。
少し許可を取るのに時間がかかったけれど、シュリアーはクレアの望みをかなえてくれた。
彼女はわざわざ自らもフードを目深に被って一応正体を隠すと、同じ格好をしたクレアを、墓でもなんでもない、王宮の忘れ去られたような一画に連れて行ってくれた。場所は前もって伝えてあった。
そこに辿り着いた時、クレアは、彼女の前世の姿であるローザと、エリオットの前世である騎士シェラードとの逢瀬の時を思い出した。
そこは二人がいつも待ち合わせてをしていた場所だったからだ。
そして、その時ローザがどんなに孤独と死の恐怖を感じていたのかも思い出す。どんなに怖かっただろう。どんなに心細かっただろう。
それを紛らわせるために、他人の人生を歪めてしまった彼女は確かに弱かったのかも知れないけれど、クレアにはその気持ちもローザのものとして理解できる。
でもそれはあくまでもローザのものであり、クレアは彼女とは違う人間だと自分に言い聞かせた。
クレアは、その時はクラウディア女王と思われていた遺体をシェラードが埋葬してくれたことに感謝しながら、そこに花を手向けた。
その事によって、クレアはローザをきちんと葬れた気がした。
今ここで生きているのは、クレアであって、百年前を生きていたローザではない。
クレアはここまで連れて来てくれたシュリアーに礼を言うと、その日はそのまま彼女と別れた。
そして、自分の人生を取り戻したような清々しい気持ちで、クレアは馬車に向かう道の途中で立ち止まり、大きく息を吸い込んだのだった。
つづく……




