第三十七話 彼女の長い記憶
エリオットはクレアが目覚めたことに安堵した。
彼女の顔は、つい数時間前に激情を見せた時とも、感情を露わにしないようにしていた時とも、どこか違うように見えた。
そこで彼は、別居前に彼女から離婚条件を突きつけられた時のことを思い出した。その時のクレアの表情と、今の彼女の表情はよく似ているような気がした。
これは彼女なりに何かを決めた時の表情なのかもしれないと彼は思った。
クレアの傷跡は消え去った。エリオットは、彼女は前世の記憶も全て取り戻したのかもしれないと思いながら、水をグラスに注いで彼女に渡した。
そして、彼女の前世がクラウディア女王であったにしろ、そうではなかったにしろ、それは彼女にそんな表情をさせるような内容だったのだろうと思う。
しかし、それはいずれ彼女が話したければ話してくれればよかった。
今のエリオットにとって重要なのは、契約魔法らしきものが完全に消えたことで彼女の体に良くないことが起こっていないかどうかを確かめることだった。
別邸から駆けつけてきたルギアに、クレアに異常がないか見てもらおうと、彼は立ち上がろうとした。だが、クレアに腕を掴まれて彼はベッドに腰かけた。
彼女から彼に触れてくれたことに驚いて彼女を見返すと、クレアは先ほどと同じ表情で彼に言った。
「お話をしなければならないことがございます」
エリオットが前世の記憶を思い出したのか聞くと、彼女は不思議なことを言った。
「はい。全て目の前に答えがございました。エリオット様にお聞きした事や、ルギア様にお教えいただいた事。それらをきちんと考え合わせれば、答えは自ずと得られたはずだったのです」
クレアは、一瞬泣きそうな顔をして、彼の手に縋り付くように額をつけた。
それは彼が彼女に初めて会った日に彼女にした、昔、前世の彼がしていたような、古い、相手に敬意を表す仕草のようだった。そして、それは相手に赦しを乞う時に使われる仕草でもあった。
彼女の表情からして、それは後者ではないかとエリオットは思った。
しかし、とにかく今はクレアの健康状態の確認を急ぎたかった。エリオットは落ち着かせるように彼女の肩を抱いてその髪に口づけると、ルギアを呼んでいいか彼女に聞いた。
すると彼女は、「王弟殿下やシュリアー様にもお聞きいただくべきかもしれません」と沈んだ声で言った。いずれにしろ、これまでの経緯から、お二人には話すことになるのだろうからと。
それは確かにそうだとエリオットも思った。
扉の外に控えていたメイド長に人に見られないようにルギアを連れてくるようにと言うと、じきにルギアは魔方陣と共にその部屋に現れた。
転移魔法だ、とエリオットは思った。エリオットはかつて前世で魔術師たちがそれを使っていたのを知っていた。クレアも驚いていなかった。
ルギアは、エリオットがクレアに起きたことをざっと話し、何か問題は起こっていないか聞くと、彼はクレアを見ながら言った。
「魔法はとっくに消え去ってるはずなんだ。契約魔法を解除したんだから。それでもなぜか残り続けていたものと同化したんなら、契約魔法の条件が成就したんだろう。絶対に間違いないとは言えないけどね」
ルギアはいつになく真面目な顔で聞いた。
「クレア。前世の記憶は?」
「全て思い出しました。メアが、あのルギア様が魔術の産物だと言った猫が光となって私を包んだ時に」
「あれは、記憶が分離していたものだったのか。クレアがその前に思い出していた記憶は、あの猫がクレアに見せていたのかな。まあ、こんな訳のわからない魔術なら、何が起きてももう驚かないよ」
ルギアは自分の額を撫でながら、悔しそうに言う。
エリオットは、クレアがルギアにも王弟夫妻と共に、彼女が思い出した記憶の内容を聞いて欲しいと言っていることを伝えた。
ルギアはそれに賛成した。
ルギアは、この日行方不明になったクレアが姉の元に行く可能性を考えて、さらには王弟の権限で人を動かせるように、勝手にクレアの行方不明を二人に伝えていたのだと詫びた。
彼は、「じゃあここに連れてくるよ。いや、寝室じゃない方がいいかな?」と宙に何かを描きながら聞く。
クレアが自分の私室の方を指差して「この隣の部屋に」と言うと、彼は頷いてからすぐに姿を消した。
そして、じきに王弟夫妻を連れて戻って来た。
クレアの私室に王弟とその妃を通すのは礼儀に反するとエリオットは思ったが、家人に王族が来ていることを知られるわけにはいかないので仕方がなかった。それに、もともとこの二人は礼儀に頓着しない。
「クレア。連絡を受けていたのだけれど、本当に無事でよかったわ」
「ご心配をおかけしました」
エリオットが、クレアに起こったことを説明すると、王弟は眉間を指で押さえ、シュリアー妃は何かを考えるように下を向いた。
エリオットはクレアから話を聞くのが怖かった。彼女の表情を見る限り、彼女と自分の間の良い未来は想像出来なかったからだ。しかし、ここで逃げ出すわけにはいかない。
クレアとエリオットが隣り合って座り、その向かいに王弟夫妻が座った。ルギアは少し離れた場所にある腰高の窓に立ったまま寄り掛かった。
「皆様、聞いていただけますか? ある一人の人間の生涯を」
クレアは波一つ立たない海のような静かな表情で話し始めた。
◆
ローザは侍女として働いていた。
彼女が初めて仕えたクラウディア王女は、やがて父親であった国王の死の後に、女王として即位した。
ローザの主人は、気難しい面がないわけではないけれど、侍女たちを可愛がってくれる良い主人だった。
ローザは腕を磨いてきた音楽の才を認められて、よく主人のために音楽を奏でた。
ローザは魔術師たちからも可愛がられていた。彼らが唱える呪文を、一つの音階も外すことなく口にする彼女の、その耳の良さを気に入られたらしかった。
魔術師たちは簡単な魔術についていろいろと教えてくれた。
例えば、主人に何かあった時に彼ら魔術師を呼び出すものや、美しい景色を出現させる幻術のような簡単なものだ。
ローザは主人に乞われるたびに演奏をしていたけれど、その時に背景を変えると彼女はとても楽しそうにしていた。
主人はその高貴な身分に縛られて、普段は自由に外にも出られないのだから、ローザは主人が少しでも喜んでくれるように、演奏をする時は毎回趣向を凝らした。
ローザはそのために、呪文の音階の仕組みや、その術を発動するための紋様の描き方を教わった。
彼女は本職の魔術師のようには、例えば指の一振りで術を発動させることは出来なかった。そこまでのものは、いくら女王のお気に入りとはいえ、一介の侍女に過ぎない彼女には求められなかった。
そしてローザは、自由な恋愛を禁じられた主人に命じられ、逢引きの手伝いもした。
女王には、この国でも最も高位の魔術師の一人であるライダスという恋人がいた。
魔術師ライダスが来ると、彼がローザと女王にそれぞれの姿が逆に見えるように変身の術をかける。
それは幻術によってそう見せかけているだけのもので、本当に姿が変わるわけではないのだと言う。
だからローザが女王と入れ替わる人間として選ばれたらしかった。体格や年齢が近くないと、その術では思うように、この場合は女王に似せることが出来ないのだと魔術師は言った。
女王の姿となったローザがその場にとどまり、他の侍女の応対などをする。
ローザは声質も女王に似ていたし、長く共に過ごしてきた彼女の話ぶりを真似るのも上手かった。
そんな彼女を残し、ローザの姿になった女王と魔術師は退出する。
ローザは知らされていなかったけれど、その後はどこかで二人の時間を過ごしているはずだった。
ローザはそれを自分の当然の務めだと思っていた。主人の言葉は絶対であり、その幸福のために働くのも、彼女にとっては自然なことだった。
ローザは、ごくたまに手持ち無沙汰になって外に出ることがあった。
ローザにも気晴らしが必要だったし、女王が一人でいる姿を誰かに見られるのは悪いことではない。その姿を見せることこそ、秘密を守るのに役立つだろうとローザは思っていた。
逢引きをしているはずの本当の女王は姿を変えているので、部屋にいない彼女を探されても問題はない。
そして、そこでローザは、シェラードという名の騎士と出会った。
ローザは彼の名前を覚えていた。一度彼が女王から褒賞を受ける場に居合わせたからだ。
彼は優しかった。そして、とても清廉で美しかった。ローザは一瞬で彼に恋をした。
でももちろん、ローザは自分の名を名乗ることは出来なかった。彼女は女王でいなければならなかった。
だから、その恋心は胸の奥深くに封印した。
それからも彼女の生活は、表面上は変わらなかった。
女王の置かれた状況はどんどん苦しくなっているらしいという噂を耳にすることが増えていたけれど、王宮の奥深くで大勢の魔術師たちに守られている限り、女王は安全だった。その周囲に侍るローザたちも。
ローザはただ純粋にクラウディア女王の身を案じ、その幸せを願っていた。
政治に口を出す権利は彼女にはなかったけれど、何とか自分の主人がこの地位に留まれるか、もしくはどこかに逃げ延びられることを願っていた。
自分が彼女の代わりに死ぬようにと命令されるまでは。
断ることは出来なかった。女王の命令は絶対だ。
そして、魔術師ライダスはローザに、彼女の家族の無事を保障すると言った。
市街地も巻き込まれるかもしれない内乱がいつ起きてもおかしくない状況だった。
もしそれが起これば、娘が女王のごく近くにいる家の者は、そうと知られれば無事ではいられないだろうと言われた。
それは裏を返せば、彼女がもし裏切れば、家族の無事は保障されないと言われたも同然だった。
ローザは家族を守るため、自分の死を受け入れようとした。
でもそれは辛すぎて、彼女は彼女の恋の対象であったシェラードに慰めを求めた。
ローザは自分の、女王の侍女としての権限を使って、また彼と一対一で出会えるように取り計らった。
見回りの箇所を増やすように指示が出ているとローザが言えば、近衛騎士たちは彼女が女王の言葉を伝えているのだと勘違いして、人員をそちらに割いてくれた。
そうしてローザは女王が魔術師と逢引きしている間に、再び彼に出会った。
ローザのことを女王だと思い込んでいるシェラードは、彼女を愛してくれた。
自分自身が愛されているわけではないことを辛く思う気持ちも確かにあったけれど、でもそれよりもローザは悲しみを紛らわせたかった。
彼との逢瀬の時間だけが、彼女を不安から解き放ってくれた。
そんな中、ローザは女王と魔術師が万が一の時のために生まれ変わりの契約魔法を用意していることを知った。
彼女は、なんて不公平なのだろうと思った。ローザを犠牲にして自分たちは幸福になろうと余念がない女王に怒りや憎しみが湧き上がった。
女王たちだけは逃げる準備も、万が一殺されたとしても、いつか愛する人と再会する準備も整えている。
自分には何もない。死んだらすべてが忘れ去られる。彼女の肉体は女王のものと同じになるように、魔術で入念に作り変えられることになっている。
最後を自分の姿で迎えることすら許されない。
だから、あの優しい騎士を巻き込んで、騙して、自分だけのものにしようとした。
隙を見て、契約魔法の用紙を盗み見て、それを書き写した。
ごく基本的な魔術しか知らなかった彼女はそれを完璧だと信じるしかなかった。もしかしたら何か不備があるかもしれないとは思った。
でもそんな些細なことはどうでもよかった。
未来を信じながらでなければ、一人でみじめに死んでいくことには到底耐えられなかったから。
シェラードはそれに署名をしてくれた。彼と別れた後に、ローザもその契約書に自分の名を書き込み、常に胸元に隠し持っていた。
殺された時にその術が発動するのだということは、女王と魔術師の会話から知っていた。
そして、本人が願ったことが成就すると、その術は解かれるらしかったけれど、詳しいことはローザには分からなかった。
でも、その未来に続く可能性だけが、彼女の心の支えだった。
ローザは自分勝手だと気づいていながら、シェラードを騙した。いつか、生まれ変わった後ででもいいから、彼に本当の自分を愛して欲しかった。
そして、その時が来た。
ローザはこれまでのただの幻術とは違う、大掛かりな変身術をかけられた。もし彼女が死んだとしても、その術は解けることはなく、その死体は女王のものとして扱われる。
それを聞いたローザは思わず自分の体を抱きしめた。どんな目に遭わされるか分からないのだ。せめて一思いに死ねることを願うしかなかった。
ローザだけを残して、たった一度振り向いただけで、女王は魔術師たちと共に逃げ出した。
ローザは自分で思っていたよりもはるかに上手く女王を演じきった。
この反乱には近衛の中にも敵方について戦っていた者がいたけれど、彼らは一人たりとも彼女が偽物の女王だなんて思ってもいないようだった。
もちろん、最後まで彼女を守ろうとしていた女王の味方のままでいた近衛騎士たちも。
そして彼女は女王として殺されたのだった。
◆
クレアが話し終わると静寂が訪れた。
「契約魔法に関する全ての元凶は私、いえ、孤独と憎しみと怒りに飲み込まれてしまったローザだったのです」
エリオットは、明かされた事実を受け取るのに必死だった。
ルギアが「複雑な紋様を素人が写すのは無理だ。ほんの少しの線の角度の違いがいくつか重なれば、それは別物になってしまう。偶然とはいえ、記憶が分離する程度で良かったとしか言えないな」と考察を口にしていたけれど、エリオットの頭には入っては来なかった。
でも、一つだけ確かなことがあった。エリオットは見つけるべき相手を間違えてはいなかったということだ。
シュリアー妃と王弟は、「話を聞かせてくれてありがとう」とクレアに礼を言うと、王弟がエリオットに話しかけた。
「エリオット、お前たちには話をする時間が必要だろう」
頷くことしか出来なかったエリオットとクレアを残して、ルギアの転移魔法で三人は姿を消した。
居ても立っても居られなかったエリオットはクレアの手を取った。
しかし彼女はこちらを向いてはくれなかった。
つづく……




