第三十六話 ただ私自身を愛して欲しかった
馬車が止まっても、ぼんやりとしたままだったクレアは、エリオットに横に抱えられそうになって、それを拒んだ。
けれど「運ぶだけだ」と彼に説得され、されるがままにした。どうせこの足では歩いてどこかに行くことは出来そうにない。
クレアは彼に抱きかかえられて、カレドアル伯爵家の本邸の裏口からその中に入った。
エリオットがラティスには伝えないように言う声と、「若奥様、傷の手当てをいたしましょう」と言う聞き慣れた女性の声が聞こえる。メイド長の声だとクレアは思った。
クレアが連れて来られたのは、エリオットの私室だった。そこでメイド長が足の手当てをしてくれる。
クレアは礼を言いたかったけれど、一言でも言葉を自分の中から出してしまうのが怖かった。そのはずみで、他の感情も溢れ出してしまいそうだった。
メイド長が部屋を出ていくと、ソファに腰かけているクレアの目の前にエリオットが膝をついた。手を取られそうになって慌ててそれを自分の後ろに隠すと、彼は傷ついたような顔をした。
傷ついているのはクレアの方だと彼女は思った。
彼と無意味な結婚したことで、知らなくてよかった感情を彼女は知ってしまった。そのせいでクレアはこんなにも辛い思いをしている。
「クレア。足の他に痛むところは? 食事は食べられそうか? いつでも出せるように用意はさせているから、何か……」
エリオットはなぜか言葉を切った。そしてクレアの顔に触れようとする。その手から逃れるために彼女が顔を横に振った途端、水滴が彼女のスカートに散った。
クレアは自分の顔に触れた。彼女は涙を流していた。
「何があったかは話さなくていい。私のことも拒否してもいい。でも、どこか痛いところがあるなら言ってくれ。早く治療させたほうがいい」
クレアは胸の奥の方が痛かった。でもそれを言ったら、そこに無理やり押し込んだものを全て、きっとエリオットにぶつけてしまう。
誰かを罵るのは嫌だった。それをされるとどんなに辛いか彼女はよく知っている。
一人にして欲しいのに、エリオットは床についたままの膝に手をのせて、じっと動かずにクレアの前にいる。
彼はクレアから視線を逸らし、窓の外を見ているようだった。懐かしさを覚える横顔にクレアは一瞬見惚れた。
クレアは婚約したばかりの頃、なぜ自分が彼に望まれたかも分からずに、自分には不釣り合いな美しい彼をこっそりと見つめていたのを思い出した。
あの頃は良かった。不安だったけれど、自分には彼に選ばれるだけの何かがあるのではないかと、ほんの少しだけ希望を持っていた。
でも、そんなものは何もなかったことをもう彼女は知っている。彼の側にいる理由がない。クレアは何も持っていない。彼の心を掴むようなものは。
少しの沈黙が続いた後、クレアはここが彼の部屋であることを思い出した。クレアが彼の側にいられなかったとしても、彼がここを出ていく必要はない。
クレアはメイド長に言って自分の部屋で眠ることが出来るようにだけしてもらおうと思った。
立ち上がってみると、手当てをしてもらったかいがあって、少しくらいなら歩いても足は痛まないような気がした。裸足だったけれど、そんな事はもうどうでも良かった。
クレアが扉に向かって歩き出そうとすると、エリオットも立ち上がった。
クレアが彼を見ないようにしながら去ろうとするのを彼の腕が邪魔をする。
「どこに行く?」
どこに? 彼のいない所だ。
「クレア。今はここにいてくれ」
「私がここにいても、何の意味もないじゃない!」
彼は驚いたように目を見開いてクレアを見ていた。
クレアも自分から発せられた声に驚いて、両手で口元を隠した。
とっさに口を開いてしまった。今にもたくさんのものが溢れ出してしまいそうで、その手を動かすことが出来ない。
それなのに、エリオットはクレアの口から両手を奪って、左右それぞれの手でそれを掴んでしまった。
そして、彼の唇がクレアのそれに触れた。
なんで彼はそんなことをするのだろうか。なんで彼の温かさを思い出させるようなことをするのだろうか。
それはあまりにも酷い。そしてそれを彼は理解していない。
涙と共に言葉が勝手に溢れ出すのを、クレアは止められなかった。
「勝手なことをしないで! 私を自分の好きにしておいて、結局放り出したくせに! 違うと言いたいのでしょうけれど、放り出したのと同じよ! 私を失望したような目で見たのだもの。あなたが勝手に勘違いをしただけなのに、なぜ私がこんな思いをしなければならないの!?」
クレアは彼に向かって叫んでいた。感情が思うように制御できない。あんなに得意なはずだったのに。
クレアはそれからしばらく叫び続けた。
自由に生きていこうとしていた未来を彼が閉ざしたことも、温かい場所を与えておいて、その心地よさを教えておきながら、彼女がその場所にはいられなくしたことも、罵っても罵り足りなかった。
目の前がにじんで、彼の顔は良く見えない。でもそこに立っている彼に向かってしか叫べなかった。
エリオットしかクレアの目の前にいないから。
「あなたもお母様と同じよ! 私を都合の良い時だけ利用して、どうでもよくなったら捨てるのだわ!」
クレアはそこまで言うと、他に言葉が見つからなくなった。
そして、少しだけ冷静になった頭で、今の言葉だけは、彼には関係がなかったかもしれないと思った。
クレアは母親に言うべきだった言葉を我慢し続けて、目の前にいる関係のない相手にぶつけてしまった。
クレアが黙ると、ようやくエリオットは彼女の両手を放した。彼女はその手で自分の涙を拭った。
そして、どうしていいか分からなくなって、怒っているに違いないエリオットの顔を見上げた。そこには、いつものように冷静な彼の顔があると思ったからだ。
でも違った。
彼の眼は潤んでいた。涙こそ流れていなかったけれど、その顔は悲しみに歪んでいた。
「あ……」
クレアはしてはいけないことをしてしまった。人に感情をぶつけてはいけないのに、それは相手を殴りつけるのと同じなのに。
彼女は頭が冷えると同時に急に足の痛みに襲われて、ソファに座り込んだ。
「ごめんなさい……。こんなことを言うつもりでは……」
クレアは何てことをしてしまったのかと自分を責めながら、頬に涙が伝うのを感じ、慌ててそれを拭った。そしてきちんと謝るためにエリオットの顔を見上げた。
彼は目元を少し染めながら、でもとても優しく微笑んでいた。
なぜ彼が微笑んでいるのか、クレアには分からなかった。
「クレア、あなたの心の内を知ることが出来て、私は嬉しいと思っている。謝らなくてはいけないのに、あなたを抱きしめたくて仕方ない」
「……え……?」
言われている意味が分からなかった。クレアが吐き出した感情はとても汚いものだ。表に出してはいけないのだと、自分自身の中に抑え込んでいたものだった。
でもエリオットはそれを聞けて嬉しいと言う。そして、そんなクレアを抱きしめたいと言う。
「触れてもいいだろうか?」
クレアは意味が分からないまま頷いていた。
エリオットの腕が伸びてきて、隣に座った彼に引き寄せられて抱きしめられる。
彼の腕は温かくて、彼の腕の中で眠っていた日々を思い出させた。彼はクレアの首元に顔をうずめていた。そして彼はそのままの状態でクレアに囁くように聞いた。
「私が、あなたのことしか考えられなくて、前世のことなど思い出さなくなって、あなたの本心を知れて嬉しくて、居ても立ってもいられないのはなぜなのか。あなたに教えて欲しい」
そんなことを聞かれても、クレアには何も分からなかった。
エリオットはクレアを、前世で愛した人の代わりにしていただけだったはずだった。だからそれが間違いだったと知って、クレアには興味をなくしたのだと思っていた。
「何をおっしゃっているのか……。エリオット様、あなたはおかしなことをおっしゃっています。それではまるで私を……」
クレアはそこまで言って、言葉を飲み込んだ。
そんなわけはない。クレアは誰からもそれをもらえないのだ。欲しくて欲しくて仕方がなかったけれど、誰もくれなかった。
「多分今の私はおかしくはない。以前の私の方がおかしかった。前世なんてものに囚われて、現実を見ようとしていなかった。今を生きていなかった。あの時、私の前にいたのはあなただったのに」
彼は顔を上げた。その頬には一筋の涙が伝っていた。クレアはそれを、今まで見た何よりも綺麗だと思った。だから彼のその涙に触れて、彼が落とす口づけを受け入れた。
それはとても熱くて、体の底から満たされるようだった。たったこれだけの、愛情を伝えてくれるものが欲しかったのだとクレアは気づいた。
クレアは愛されたかった。自分自身を愛して欲しかった。それだけだった。
彼女が目を閉じながら、彼とついばむような口づけを交わしている時だった。
クレアは突然の光に包まれた。驚いて目を開けると、エリオットも同じように彼女を見つめていた。
彼女のドレスの中から光の粒が溢れ出して天井に吸い込まれるかのように、昇って行って、そして消えた。
「なん……」
「これは、魔術が使われている時によく見る光だ……」
呆然とするクレアとは違い、冷静な表情を取り戻したエリオットに、性急にドレスを脱がされる。クレアはどうして良いのか分からずにその様子を人ごとのように見つめていた。そして、二人は同時に息をのんだ。
「傷跡が……」
彼は彼女の腕も確認し、「何もない」と言った。
クレアも自分で胸元も、腕も、見て触って確かめた。そこには何もなかった。
「なんで……」
「分からない。しかし、これが消えたことは契約魔法と関係がないはずがないが……」
その時、クレアの目の前をおかしなものが横切った。いや、それは本来であればおかしなものではない。ここに居るはずがないから違和感を覚えたのだ。
「メア……? なぜ別邸ではなく、ここに……?」
「あれは、あなたが飼っている猫か?」
メアは近づいて来るにつれ、ほんのりと光を放ちはじめた。そして、ゆっくりとクレアに近づくと彼女の膝の上に乗った。
クレアは、ルギアがメアを見て魔術の産物だと言ったことを思い出した。そしてエリオットにそれを伝えようとした瞬間、クレアは光に飲み込まれて、頭の中全てが光に満たされた。
◆
クレアは目を覚ました。目を開けると、見慣れたカレドアル伯爵家の本邸にある彼女の部屋の天井が見えた。
彼女は冴え渡った頭で、ゆっくりと首を巡らせた。ベッドの傍らにはエリオットがいた。彼は書類に目を落としていたけれど、すぐに彼女に気づいてそれを置いた。
「クレア! 気分は?」
彼はそう言いながら彼女の顔にかかっていた髪をそっとどかすと、水差しからグラスに水を入れてくれる。
クレアは自分の体の状態を確かめるように、ゆっくり起き上がり、寝巻きに着替えさせられている自分の体を見下ろした。
確かめるように左腕や胸の中央に触ったけれど、傷跡の盛り上がっていた部分は平らになっていて、触った感触からすると、やはり傷跡は消えたようだった。
エリオットからコップを受け取ると、水を飲みながら窓の方を見る。
外は暗闇に包まれていた。どれくらい意識を失っていたのだろうか。
「ルギア様においでいただいている。異常がないか見ていただこう」
そう言って離れて行こうとしたエリオットをクレアは引き留めた。体を乗り出したクレアが彼の腕を掴むと、彼は驚いたように振り返って、それからベッドに腰かけた。
クレアは、ローザの生涯全てを思い出していた。気を失っていた間に、一瞬にも、何年にも感じられるその記憶を自分のもののように体験した。
彼女の前世であったローザのした事を彼に伝えなければならない。それはエリオットの人生さえも変えてしまったものだったから。
「お話をしなければならないことがございます」
「……思い出したのか」
彼は目を細めてクレアを見た。
クレアは胸が痛むのを感じながら、彼女の手を握る彼に頷き返した。
「はい。全て目の前に答えがございました。エリオット様にお聞きした前世での出来事や、ルギア様にお教えいただいた事。それらをきちんと考え合わせれば、答えは自ずと得られたはずだったのです」
エリオットは眉を顰めながら彼女の手を握っていた。
クレアは、懺悔の気持ちを込めてその温かい手を自分の額に押しつけたのだった。
つづく……
以下はご興味のない方は飛ばしていただいて大丈夫です。ただの力不足の作者のぼやきです。
この物語のプロットを練り始め、ミステリー要素を組み込もうと思った時、私は昔よく読んでいたエラリー・クイーンの小説を思い出しました。
推理・探偵小説をお好きな方なら名前くらいは聞いたことがあるかも知れませんが、エラリー・クイーンは、アメリカの二人組の小説家であり、作中に登場する探偵の名前でもあります。
デビュー作がアメリカで出版されたのが1929年(wiki調べ)ですので、古典と言っても良いんですかね。
現代のものと同じように親の本棚に並んでいたので、私は「昔書かれたんだな」くらいに思って読んでおりましたが。
そのエラリー・クイーンの初期の作品には、「読者への挑戦状」が良き所で登場しまして、そこには、「ここまでで犯人に繋がるヒントは全部出したよ〜。変なトリックとか隠してないから、ちゃんと推理すれば犯人わかるはずだよ〜」的なことが書かれているのです。(私は一度も犯人を当てられた事がありませんでした!)
で、話はこの物語に戻るのですが、どうせミステリー風味にするのならば、なんかそんな展開にしたいな、と思ったのです。もちろん、挑戦状なんてものは出すつもりはなく。
この物語は推理小説ではないので、犯人当てではないわけですが、主人公クレアの前世であるローザが百年前に一体どんな存在だったのか、なんで彼女に魔法がかかったのか、といったことが、この第三十六話に至るまでの過程で出した、この物語の世界の魔術に関する常識やら、前世の記憶やらから推理していただけるようにしたかったわけです。分かるようで分からないくらいの感じで。
そして、書き上げてみて私は思いました。
「ヒント出しすぎじゃない?もう丸わかりなんじゃない?」と。
書く意味もないような事ですが、自分への戒めのためにここに書き残します。
(貴重なお時間を使って読んでいただいた方に、少しでも楽しんでいただけるポイントを増やしたかったのですが!失敗したかもしれない気がとってもしています!)
(しかも、ご都合主義でいろいろ誤魔化してしまっております……。本当に力不足!!)
もし、「あ、そんなこと考えて読んでなかったわ〜」という方がいらっしゃいましたら、ご一考いただきますと、次話でのネタばらしと比べてお読みいただけるかと思います。意外性があるかはアレなんですけれども。
ここまでお読み下さったお優しい皆様、長文の駄文、失礼致しました。
引き続き、この物語をお読みいただけますと幸いです。




