第三十五話 エリオットとの再会
エリオットはとっくに帰ってもいい時間にもかかわらず王宮にいた。
彼の職場である王弟の執務室には、もう部屋の主である王弟その人と、エリオットしかいなかった。
エリオットは必要があって席を離れる以外はずっと仕事をしていたが、王弟は昼間一度いなくなり、子供たちと遊んでから戻って来たのでここにまだいるだけで、特に勤勉だというわけではない。
エリオットはようやくこの日最後の書類をまとめ終わって、屋敷に帰らなければいけないと思った。
エリオットには帰る理由も、彼を待つ人もいなかった。彼を待っていてくれた人がいたのはほんのわずかな期間であり、それよりも長い時間がすでに経過している。
彼は軽く頭を振って、考えても仕方のないことを頭の中から追い出すと、自分の机の上を片付け始めた。
その時、王弟がおもむろに立ち上がったのが目の端に映る。エリオットは王弟にまじめに仕事をするように声を掛けようとして彼の方を見た。そして、窓の外に見えたものに仰天した。
王弟が窓を開けると、光る鳥がエリオットの前に降り立って、はじけるように光の粒になったかと思うと、彼の机の上に文字を形作った。そしてエリオットはその文字に目を見張った。
『クレアが行方不明』と浮かび上がったそれは、すぐに消え始めた。
「ルギアの術だな。何があったのか。早く屋敷に戻れ、エリオット」
彼は王弟の声など聞いていなかった。
上着を取るのも忘れ、馬車止めに走る。急いで王宮を出ると、門のところで足止めされている別邸の下男を見つけた。
エリオットが、クレアがあの屋敷で暮らし始めた時に送り込んだ使用人のうちの一人だ。彼はベニルという名の元軍人で、目立たないように別邸を警備させている。
エリオットでも、すでに人数が足りている執事としては人を送り込めなかったため、以前クレアの妹が突然別邸を訪れた時には何もしてやれなかったのが悔やまれた。来客は、下男の彼には知る由もなかったのだ。知っていれば、上手く足止めしてくれただろうに。
エリオットは馬車を止めさせると、ベニルからの報告を受けた。彼らでは王宮内に取り次いでもらうのに時間がかかるので、ルギアにエリオットへの連絡を頼んだということだった。
「クレアの母親が来た? 妹の一件以来、全ての使用人に伝えさせたはずだ。クレアの家族を名乗る者は全て追い返せと」
「それが、若奥様ご自身が招き入れられまして」
「で? それがどうしてクレアがいなくなったことに繋がる?」
「しばらくサロンでお話しされていたのですが、突然若奥様が飛び出してこられたそうです。人払いがされていたので、話の内容までは分かりませんでした。ルギア様もちょうどお留守で。すぐに執事やメイドが追いかけましたが、人混みの中で見失ったそうです」
エリオットはとりあえず彼に、別邸の人員でクレアを探すように指示すると、馬車を急がせて屋敷に戻った。
クレアと何度か出掛けていたラティスに彼女が行きそうな場所を聞こうと思ったのと、本邸の方が別邸よりも人員を割いて彼女を探せるからだ。
彼はクレアに何かある前に彼女を無事に見つけ出さなければならない。自然とそう思った。
馬車に揺られながら、もう日も暮れてしまっている街の中のどんな場所に彼女は行くのだろうかと考えを巡らせるが、エリオットには見当もつかなかった。
当たり前だと彼は自嘲した。彼はたった一度しか彼女と街を歩いたことがない。
屋敷に帰りつくと、門のところで小さな人影が、エリオットを待っていたのだろう執事と何か話している。
エリオットは馬車が完全に止まる前にそこから飛び降りて、二人の元に向かった。
「若旦那様! この者が使いだと言ってやってきたのですが」
執事は継ぎを当てられた帽子をかぶった少年を指差した。彼は「あんた、この家の人? ラムサ爺さんの店で楽器買ったことがある人?」と少年は言った。
エリオットが楽器を買ったことがあるのはたった一度だけだった。クレアが欲しがった楽器を買った時だけだ。
エリオットが頷くと、少年は言った。
「だよね。見た目が聞いた通りだし。あんたの奥さんが店にいるって……」
エリオットは礼をするように執事に叫ぶと、馬車の御者席に飛び乗って大通りへ向かうように御者に命じたのだった。
◆
クレアは美しい楽器たちに囲まれて、この楽器店に初めて来たときにも座った椅子に腰かけていた。
彼女の足には、壊れかけた靴にこすれて出来た傷がいくつもあり、血だらけになっていた。いつの間にそんなことになったのだろうと思いながら、店の奥に消えて行った店主が戻ってこないことを不思議に思った。
彼には礼を言わなければならなかった。他に行く場所もなくて、明かりが見えたこの店に入り込んでしまった。店主は驚いていたけれど、すぐに「あの時の嬢ちゃんか」と言うと、椅子を勧めてくれた。
クレアはこれからどうしようかと思った。この店ももう閉める時間だろう。彼女が頼れる人は多くない。知り合いはいても、困った時に助けを求められる者がいないのだ。彼女には友人が一人もいない。
まだ母親がいるかもしれない別邸には帰りたくなかった。本邸に行けば彼女を迎え入れてくれるかもしれないけれど、でも迷惑に思われる気がした。嫡男と結婚しておきながら、子を生む前に逃げ出したクレアを、本邸の人たちも本当は厭うているかもしれない。
それに何よりも、本邸にはエリオットがいる。彼とは顔を合わせたくない。彼にも憎しみをぶつけたくなってしまいそうだったから。
クレアは途方に暮れていたけれど、しばらくすると店の前に馬車が止まった。その馬車につけられた紋章を見て、その馬車から降りてきた背の高い男性を見て、クレアは椅子から立ち上がろうとした。
その男性が、たった今会いたくないと思っていたエリオットだと分かったからだった。でも足が思いの外痛んで、彼女は椅子に座り込んだ。
「クレア……」
「嫌……。来ないで」
クレアはまた逃げ出そうとした。店の表の入り口は馬車でふさがれてしまっているけれど、店の奥にはおそらく出入り口があるはずだ。
クレアは痛みをこらえて立ち上がり数歩歩いたけれど、足が言うことを聞かなくなった。彼女が倒れ込みそうになるのを、分かっていたと言うように差し出された力強い腕が抱き留める。
そしてそのままクレアはエリオットに抱きしめられた。彼はクレアの肩に顔をうずめている。
どうしていいか分からずにそのまま立ちすくんでいたクレアは、この時を見計らっていたように奥から姿を現した店の主人に「家に帰りな、お嬢ちゃん」と言われた。
クレアの家とはどこだろうか。彼女がぼんやりとしたままそう思った次の瞬間、彼女は宙に浮いていた。エリオットに横抱きに抱え上げられていたのだ。
「帰ろう、クレア」
クレアはなぜか泣きそうになった。エリオットの声が優しかったからかもしれないし、彼女にも帰っていい場所があったのかと、安堵したからかもしれない。
でも、クレアはエリオットに抱かれたままでいるのが嫌だった。
あの安心感を思い出してしまうからだ。それを思い出したら、そしてそれをまた失ったら、クレアは多分あの時以上に辛くなってしまう。
馬車の座席に彼女を下ろしたエリオットが彼女の横に座ろうとするのを、クレアが首を横に振って拒否すると、彼は悲しそうに微笑んで、斜め前の席に腰かけた。
馬車はゆっくりと走り出した。
手の届いてしまう距離にいるエリオットが、馬車に並走している馬に乗った誰かに何か言っているけれど、クレアの耳にはそれはもう入ってこなかった。
何も聞きたくないし、何も感じたくなかった。クレアは自分の足を引き寄せた。傷ついたそれに走った痛みを無視し、彼女はそのまま膝を抱え込んで、そこに頭を伏せたのだった。
つづく……




