第三十四話 母
ある曇りの日、クレアは朝早くから出掛けていた。新たに売りに出された貴族の屋敷の下見に行ったのだ。
しかし、早起きも無駄に終わった。クレアも、彼女の代理人のロンダンも、その屋敷の購入は見送るべきだとの結論に達した。
その屋敷は一見すると見栄えも良くて立派なのだが、長い間きちんとした手入れがされていなかったようで、修繕しなければならない箇所が多すぎたし、何よりも土台部分のひび割れの多さが致命的だった。
「これでは建て替えた方が金はかかりませんな」
ロンダンの言葉にクレアも頷いた。
ロンダンと、彼の息子で秘書のケントとはそこで別れたクレアは、メイドのナーラと共に馬車に乗り込んだ。「残念でしたね」と言うナーラに微笑みを返しながら、とりとめのないおしゃべりをする。
やがて屋敷に近づくと、馬車の速度が遅くなる。まだ速度を落とすのには早いのではないかとクレアは思った。彼女と同じことを考えたらしいナーラが御者席に何事か尋ねてくれた。
「若奥様。お客様がいらしているようですが、執事たちの様子がおかしいと」
クレアは屋敷とは反対側の席に腰かけていた。彼女は腰をずらして屋敷側の窓から、天気が良くないせいで薄暗い外を見た。
確かに門から少し離れた場所に辻馬車が止まっている。そして、門の前に数名の男女が見えた。
そして、馬車が近づくにつれてその様子が鮮明になり、クレアは凍りついた。
「お母様……」
クレアは思わず降ろして欲しいと御者に命じていた。
◆
クレアは後悔と共に、彼女を嫌っているはずの母親と、久しぶりに会う弟のトーマスと向かい合って座っていた。
サロンはいつもとは違い、暖かな日の光もなく、とても寒い。
母はいつになく上機嫌に見えた。そんな笑顔はクレアに傷が現れた時から見た覚えがない。
弟のトーマスは、とても背が高くなっていたし、顔立ちもクレアの記憶にあるものとはだいぶ変わっていた。
十四歳になったはずの彼とは、クレアがまだ実家で暮らしていた時から、ほとんど顔を合わせたことがない。だから彼をきちんと見るのは、彼がまだ幼い子どもの頃以来だった。
何か不幸が起こったらいけないからと、母は妹以上に跡継ぎの彼をクレアに会わせなかったのだ。
先ほどクレアは思わず馬車を降り、母の元に駆け寄ってしまった。でも今では、なぜそんなことをしてしまったのか分からない。
クレアは、「大切な話があるの。お父様が大変なのよ。中でお話ししましょう」と微笑む母を屋敷の中に招き入れてしまった。
クレアの家族の訪問は受け付けないように言われていたため、門の前で母たちを止めてくれていた執事たちには、本当に悪いことをしてしまった。皆、驚いたようにクレアを見ていたと思う。
クレアは、無意識に今でも母を恋しく思っていたのかと、まるで幼い子どものような自分自身に失望していた。
でも、父のことも気になったし、久しぶりに見る母の笑顔に、今さらながら、何かを期待していた自分に気づく。
クレアは乾ききった口をお茶で湿らせるとやっと声を絞り出した。
「どういったご用件でしょうか。お父様がどうかされたとか」
「まあ、クレア、そんなよそよそしい態度はやめましょう。親子なのですもの」
クレアはその言葉に鳥肌が立った。
頭の中で何か金属同士を打ち付け合うような音が聞こえた気がした。まるで警告するようなその音に、先ほどよりも強い後悔の念が押し寄せた。
クレアは言葉を失っていたけれど、母は続けた。
「ええ、でも、あなたの気持ちも分かるわ。私たちは、上手くいっていなかったし。でも、これは分かって欲しいの。愛していたけれど、悲しみがまさってしまうことがあるのよ。あなたにも子供が生まれればわかると思うけれど」
「……ご用がないのでしたら、お帰りいただけますか」
母はクレアの警戒心が滲んだその言葉に一瞬表情をゆがめたけれど、すぐに元に戻した。そして、クレアの嫌な予感は当たった。
母は父が領地経営に失敗したと言い出した。父は、以前から何度もクレアが止めていた、投機的な開発に手を出してしまったらしい。まともな事業者だとは思えなかったので、クレアは父を止めたし、父も彼女がそう言えばやめてくれた。
しかし、クレアがいなくなってから、そういった怪しげな話に乗ってしまったらしい。
「ねえ、クレア。どうかお金を貸してくれないかしら。このままでは我が家は取り返しのつかないことになってしまうわ」
クレアは母のその言葉に耳をふさぎたかった。でもそんな無作法な真似は出来ないので、目を伏せた。
クレアが商売の基礎を知っているのは、唯一彼女と食事をしていた父との会話が領地経営に関するものだったからだった。
父は母との仲を取り持ってはくれなかったものの、いつも一人きりのクレアを想ってくれたのか、ときおり帰ってきてはクレアと食事を共にしてくれていた。
クレアが、母に認められたいと、以前のように接して欲しいと思いながら、懸命に勉強をしていた頃のことだった。
そのためか、いつの間にか一方的に聞くだけだった、父の領地経営の話を理解できるようになっていった。
そんな中で、父に自分の意見を言う機会が何度もあった。父はそれを「よく考えている」と認めてくれた。
クレアはそれがとても嬉しかったのを思い出した。
父には頑固な面があって、信用しないものは全く信用しないけれど、一度信用してしまうと、それにのめり込んでしまうところがあった。
クレアはそんな危うい父親の性格に気づき、教えを乞う振りをしながら、何とか怪しげな話から遠ざけるようと腐心していたものだった。
もちろん、クレア以外にも父の領地経営を支えている家令などがいた。でも、父は彼らの言葉も聞かなかったらしい。
それはベルガー子爵家の当主である父の行動としては非難されることではなかった。でも愚かな行為だとクレアは思った。
「クレア。聞いているの? あなたは別居させられてしまったようだとエマから聞いたけれど、こんなに立派なお屋敷が与えられているのですもの、自由に使えるお金もあるのでしょう?」
クレアは確かに、かなりの金額を夫であるエリオットから渡されている。そしてそれは自由に使っていいと言われている。
しかしあくまでも、彼女が今持っているお金はカレドアル伯爵家のものだ。好きにしていいと言われていたとしても、現状クレアは、彼女に何かあった時には、カレドアル伯爵家の元に戻る財産が増えるだろう事業にしかそれを使っていない。
実家への援助となれば話は変わってくる。自分の判断でしていいことではないだろう。
それに、カレドアル伯爵家、ひいてはエリオットに迷惑をかける可能性が高いことには手を貸せない。
今をしのいでも、父が別の投資話に乗ってしまえば、また同じことが起きる。
クレアは、見慣れない微笑みを浮かべる母の目を見て言った。目をそらしたくなるのを懸命にこらえて。
「申し訳ありませんが、私は自由にできるお金を持っておりません。お父様には、一刻も早くこれ以上財産を減らさないように行動していただくしかないと思います。その業者か事業主か知りませんが、そのお相手と手を切ることが出来れば、領地から得られる税だけでも、十年もあれば以前の水準まで……」
クレアがそこまで言ったところで母が大きく手を振り上げた。
「それでは遅いのよ。トーマスの教育は、もうかなり高度になっていて、家庭教師を雇うお金もばかにならないの。それに、社交界に出る準備もしなくては。お金がかかる時期なのよ」
クレアは母の記憶力を疑った。
クレアは十歳で傷が現れて不吉な者呼ばわりされるようになってからは、家庭教師をつけてもらったことはない。全て家の中にある本から学んだと言ってもいい。
社交界に出るとなった時にも、全くとは言わないけれど、ほとんどお金はかからなかったはずだ。
彼女は既製品のドレスを一着買い与えられただけで、宝石類も家で保管されていた物の中から選んだ。どれも時代遅れだった。
クレアは何とかほとんど細工のされていないイヤリングとネックレスを選び出した。それは流行とも無縁だったけれど、華やかさとも無縁だった。
彼女は社交界デビューの夜会で、これでもかと美しく着飾った他の令嬢たちになるべく近づかないようにした。
自分をみじめだと思いたくなかったからだ。
これまで忘れようとして、憎しみごと閉じ込めていた感情が全てを巻き込んで溢れ出しそうだった。
クレアは誰も責めたくなかった。一刻も早く、彼女が本音をぶちまけてしまう前に、母から離れなければならないと思った。
クレアは立ち上がって、母と弟に帰宅を促した。
しかし、それは悪手だった。母の顔が見慣れた、不快な者を見るものに変わった。
これまでのクレアであったら、その目を見た瞬間に床に目を落としていただろう。
でも今の彼女にはそんな余裕はなかった。体中が破裂してしまいそうな感覚に苛まれながら、クレアは母の目を見て言った。
「お帰りください。トーマスは家庭教師ではなくて独学で学んだらよろしいと思います。社交界のデビューも地元の近くでなさったらよろしいわ。手持ちの服を仕立て直すか、既製品を買えばお金はさほどかからずに済むでしょう。私の時にそうしたように」
「この子にそんなみっともない事をさせられるわけがないじゃないの!」
母は激高した。顔は見慣れたものに戻っている。彼女を疎ましそうに見る目をしている。
クレアはもう限界だった。怒鳴り声をあげてしまいそうになるのを必死で耐えていた。
「では、そんなみっともない真似をさせられた娘が、自分に何かしてくれるだなんて、馬鹿げた期待はしないでください。お帰りを」
クレアはこれが最後だと言うようにはっきりとそう言って、人払いをして締め切っているサロンの出口を指差した。
母は「しまった」と思ったのか、また、あの気持ちの悪い微笑をクレアに向けた。
「まあ。あなたはそんなふうに思っていたのね。ごめんなさい。私が悪かったわ。でも、トーマスはベルガー子爵家の跡取りですもの。女の子と同じように扱うわけにはいかないのよ」
妹のエマは、クレアのような惨めな思いはしなかった。
この人は嘘しかつかない。それはクレアを一人の人間として認めていないから出来ることだと彼女は思った。
そしてその時、この場には不似合いな、小さく笑う声がした。その声の主はトーマスだった。彼はクレアを蔑むような目を向けてくる。その目は妹のエマとそっくりだった。
クレアはもうこの空間に居たくなかった。
「あなたたちが出て行かないのなら、私が行きます」
クレアは何とかそれだけ声を絞り出すと、サロンの扉を開けて、控えていたナーラも振り切って、そのまま外に飛び出した。
何かを求めて彼女は走り続けた。屋敷を飛び出る前にナーラの声を聞いた気もしたけれど、彼女はそれすらどうでもよくなってしまっていた。
誰もクレアを本気で心配などしていない。彼女の存在は誰のためにもならない。
街行く人の視線も気にならなかった。どうせ彼らもクレアのことなんてすぐに忘れる。
暗くなっても、どこを走っているのか分からなくなっていても、クレアは走り続けた。
そして、足に痛みが走った気がして、ついに立ち止まった。
そこは知った場所だった。エリオットと一緒に来た、裏通りの楽器店が彼女の目の前にあった。
つづく……




