第三十二話 契約魔法の解除
クレアはその日サロンで、猫のメアを撫でながら、いくつかサインをしなければいけない書類に目を通していた。
足音も聞こえなかったのに、開けたままだった扉がノックされた。その音に驚いたのか、メアが彼女の膝から降りて物陰に消える。ナーラではこうはならないので、クレアは扉の方を見る前から、それが誰か分かっていた。
「ルギア様? どうかされましたか?」
クレアがそう聞くと、彼は「用意が出来たよ」とだけ言った。
クレアがルギアに契約魔法を解除して欲しいと頼んでから四日後のことだった。
彼女はその日が来るのを待ち望んでもいたし、また同時に恐れてもいた。
「安全を考慮して王弟の屋敷でするよ。万が一の場合、姉もいるから対処がしやすい。王宮には腕の良い医者もいるしね」
ルギアはクレアにはこれまで何も言わなかったけれど、クレアに異常が出た場合でも彼女を救えるような安全策を検討して、場所を決めてくれていたらしい。
クレアは「それはいつになりましょうか」と聞いた。
万が一の可能性があるのならば、それまでに身の回りの整理や、彼女が行っている事業をカレドアル伯爵家に円滑に引き継ぐための資料をまとめておかなければならない。そのほとんどは既にしてあるけれど。
「明日の午後に」
ルギアの声に、クレアは黙って頷いた。
◆
クレアはその場所に到着するや否や、ルギアに床に寝るように言われた。
そこは王弟殿下のお屋敷の地下室だった。広さは十分にあるものの、その窓一つない部屋の閉塞感に、クレアの不安は増した。
この日はルギアと二人だけでここまで来たため、いつも雰囲気を和らげてくれるメイドのナーラもここにはいない。もちろんナーラはクレアに魔術がかかっているなんて知らないから、連れて来るわけにはいかなかったのだけれど。
「安全のために空気の流れがある場所は避けたいから」と言ったルギアは、小さな布袋から砂を取り出して見せた、それでクレアの周囲に紋様を描くのだそうだ。
本来は床にインクなどで直接それを描いても良いけれど、魔術自体が基本的に禁止されているこの国では少しでも魔術を使った痕跡を残さない方が良いので、砂を使うのだと言う。
それでは仕方がないと、クレアはここが地下室であることは気にしないことにした。
クレアは、やがてやって来たシュリアー様と王弟殿下に挨拶をし、場所の提供への礼を言うと、ルギアに言われたとおりにそこに横たわった。
石の床は冷たくて、彼女はドレス越しに体温が奪われて行くのを感じた。
「寒かったらごめんね。じゃあ始めるよ。契約魔法じゃない、ただの魔術である可能性も考えて、どちらも同時に解除する。紋様が複雑になるから、少し時間がかかるよ」
彼女が寝ころぶ周りの床の上に、ルギアが砂で器用に模様を描いていく。クレアは身動きをしたらそれを崩してしまいそうで、ほんの少しも動けなかった。
王弟殿下もシュリアー様も一言も話さずにそれを見守っている。
クレアが寒さに手が震えてしまいそうになるのに耐えていると、ルギアはそれを終えたのか、静かに立ち上がった。
そして、無言でクレアの方へ手の平を向けた。
その瞬間に彼女は光に包まれた。
眩しくて目を閉じていたクレアの肩が叩かれた。
それは、ほんの一瞬のことのようにも、長い時間が経ったようにも感じられる、不思議な感覚だった。
クレアが目を開けると、目の前にはルギアの疲れた顔があった。
「終わったよ。魔術だろうが、契約魔法だろうが、解除はされているはずだけど。傷跡が発していた光は消えているね。成功だ」
ルギアは安心したように言いながら、手早く砂で描いた紋様を靴の先で崩していった。
クレアは彼の手を借りて起き上がった。
彼女は自分の体に何の異変も感じなかった。強いて言うならば本当に寒かったくらいだけれども、体を温めようと自分で自分の体を抱きしめた時に服の上から触れた腕に、傷跡のふくらみを感じた。傷跡は恐らく消えていない。
念の為、シュリアー様に協力してもらって、部屋の隅で胸元を確認した。やはり傷跡はまだ消えてはいなかった。
そして、前世の記憶らしきものも何も思い出してはいない。それを思い出す時にはいつも眩暈を覚えるけれど、その兆しらしきものも何も感じなかった。
クレアがそう告げると、シュリアー様と王弟殿下は顔を見合わせた。
「クレアの身に何事も起きなかったのは良いことなのでしょうけれど」
「てっきり、エリオットのように、詳細な記憶を取り戻しでもすると思っていたのだがね」
ルギアはと言うと、その形の良い細い顎に手を当てながら、「やはりただの魔術ではない。だとしたらもう傷跡は消えているはずだ」とか、「契約魔法だとしたら随分と不備が多い」だとか、「まるで素人が見よう見まねで作ったようじゃないか」とか、ぶつぶつとつぶやいている。
クレアには契約魔法や魔術の解除をすることの凄さは分からなかったけれど、ルギアの顔は、やはり疲れ切っている。
シュリアー様もルギアに少し休んでいったらどうかと声をかけているから、魔力を相当使ったのだろうとクレアは思った。
全員で地下室から出て、明るい部屋へ移動した。
体の冷え切ったクレアが温かいお茶を飲んでようやく人心地着いている間も、ルギアはずっと難しい顔をして考え込んでいた。
クレアは自分のことで彼に迷惑をかけてしまっていることに申し訳なさを覚えていたけれど、シュリアー様から、「ルギアは魔術のことになるといつもああだから、気にすることはないわ」と声をかけていただいた。よほどクレアの感情が顔に出てしまっていたらしかった。
やがてルギアは、あきらめたように立ち上がった。
そして、クレアに「帰ろう」と言って、手を差し出したのだった。
◆
馬車で別邸に帰る途中も、ルギアはずっと考え込んでいた。クレアはそんな彼の邪魔をしないように黙っていることしか出来ない。
クレアは使用人たちに、ただ用事があるとしか伝えていなかったので、玄関で彼女を迎えてくれた老執事やナーラはどこかほっとした顔をしていた。
クレアは、もう二度と彼らの顔を見られない可能性も考えながらこの屋敷を出たから、生きて帰れたことにほっと息をついて、お茶を入れてくれると言うナーラの言葉に頷いた。
こうして、夕食までに無事に家に帰りついて、もう彼女が落ち着ける場所になってしまったサロンでいつもの席に腰かけていることが、クレアは不思議な気がした。
彼女は何一つ変わっていなかった。少なくとも彼女の感覚ではそうだった。
まさかここまで何も変わらないとは思っていなかった。
もし無事に帰れたとしても、きっと自分がいろいろな面で変わってしまっているだろうとクレアは思っていたのだ。
契約魔法は解除されたらしいのに、傷跡に変化もなければ、前世の記憶とやらも戻らない。
もし契約魔法でない術がかかっていたのだとしても同じように解除されているはずだとルギアは言っていたから、クレアにも何が何だか分からない。
でも、前と変わらないことを残念に思いながらも、何も知らないままでいたい気持ちも彼女の中には確かに存在している。
するとその時、メアがまたふっと現れて、クレアの膝に乗る。クレアは、その毛並みに癒されながら、ゆっくりとその背を撫でた。
すると、少し離れた場所で相変わらず考え込んでいたルギアがカップを乱暴に皿に置く音が鳴り響いた。
クレアはメアが驚いて逃げ出してしまうのではないかと思ったけれど、メアもルギアの方に顔を向けていた。
そして、ルギアは立ち上がって、クレアの方を、いや、明らかにメアを見つめていた。
「なに? そいつ」
クレアは驚いた。ルギアはこの別邸で暮らし始めてしばらく経つ。
もちろん狭い屋敷ではないから、メアの居場所が分からなくなってしまうことはよくあるけれど、まさかルギアが一度もメアを見かけたことがないとは思わなかった。
「カレドアル伯爵家の本邸にいた頃から飼っている猫です。今までご覧にならなかったのですね」
「猫を飼っているとは聞いていたけど、見たのは初めてだ。それから、そいつは魔術の産物だよ。光ってるね。体全体が! くそっ! 訳が分からない! クレアからは何も感じなくなったのに、傷跡は消えないし、記憶も戻らない! おまけに、訳の分からない分身までいる! こんなのは聞いたことがない!」
クレアは驚いて膝の上のメアを見た。でも、メアはいつもと変わらないようにクレアには見える。
「そいつは君から感じたのと同じ気配を纏っているから、私が中途半端に解除してしまった契約の一部だろうね! おまえ、私から逃げていたね?」
ルギアは大真面目な顔でメア相手にそんなことを叫んでいる。
「あの、ルギア様、メアも魔術の一部なのですか? では、メアも一緒に、先ほどの解除の術をかければ、もしかして……」
「それが分かったら苦労はしないよ! クレアの術が解けたなら、そいつも消えているべきなんだ!」
彼の大声を聞きつけたナーラが不思議そうに中の様子を窺っている。
そして、少しすると、髪をかき混ぜて乱してしまったルギアが、扉の近くにいたナーラを押しのけるようにしてサロンを出て行った。それに続いて階段を駆け上がって行く音が聞こえた。
「若奥様……」
「ええ。説明したいのだけれど、私も何が何やら分からないの。ルギア様のことはそっとしておいて差し上げてくれるかしら。他の者にもそう伝えてちょうだい。大変お疲れのようだから」
クレアがそう言うと、表情を引き締めたナーラはサロンを出て行った。
クレアはまた彼女の膝でくつろぎだしたメアの体を優しく撫でた。
メアがそんな存在だったことに驚いてはいたけれど、クレアはこのあいだ妹が言っていたことを思い出していた。
妹のエマは、メアにそっくりな猫が実家にもいたのだと、でも彼女が追い払っていたのだと言っていた。
メアはもしかしたら、クレアがあの高熱に苦しみ、傷跡に苦しみ、母からの態度に傷ついている間も、ずっとクレアと共にいてくれたのだろうか。
「あなたは何者なのかしらね……」
クレアは少し笑いながら、メアにそう語りかけた。そしてこれまで感じていた以上の愛おしさを感じて、メアの体を両手で包み込むように抱きしめたのだった。
◆
ルギアは酷く混乱して、そして自分の迂闊さを呪っていた。
ここまで複雑な、いや、無秩序で魔術の原則に反した契約魔法だということを全く考慮していなかった。
彼は魔術の英才教育を受けていた身だったから、自然と魔術を使う場合には、その効力を最短で、そして最大限に発揮できるように術式を組む癖が体にも考え方にも染みついている。
しかし、クレアにかかっていた、おそらく契約魔法であろうモノはそんな彼の常識を全く無視していた。
エリオットが主張していた、彼がクラウディア女王と結んだと言う契約魔法にクレアが巻き込まれた可能性を考えていたけれど、だとするとそれは百年前にこの国の女王の側にいた魔術師たちが作ったものだろう。彼らも考え方はルギアと同じだったはずだ。
そんな、魔術師として訓練された者が、いったい何のために、通常の手順では解除出来ないような、訳の分からない術式を組み込んだのだろうか。
そんなことをすれば、意図しない効果が現れる可能性が高まるだけだ。それは場合によっては術自体の崩壊を招く。
そんな恐ろしいものは、よほど悪意を持った者か、魔術の知識などろくにない者くらいしか作りはしないだろう。
そこで彼は、この魔術が、混沌とした政治情勢の中で発動したものだということに気づく。
「政治絡みだったな!」
ルギアはそれが絡んだ時の人の醜悪さを良く知っていた。
ルギアは、クレアにかけられていた契約魔法らしきモノは、彼女からはその気配が消えたものの、あの猫がいる限り完全に解除はされてはいないのだと知った。
これ以上の手出しは出来なかった。いや、むしろあの猫の存在に気づいていたら、今回の解除すら恐ろしくて出来なかっただろう。
ルギアは早まった自分にありったけの罵詈雑言を吐いた後、少なくてもクレアに危険が及ばなかったことは幸いだったのだと、疲れ切った体を椅子に投げ出すようにして座り込んで、天井を仰ぎ見たのだった。
つづく……




