第三十一話 ルギアの手
ルギアはその日、客が来たからとサロンを追い出された。仕方なく自分の部屋に資料を転移させて、自分はゆっくりと階段を上がっている時だった。そのけばけばしい女がメイドらしき女を引き連れてサロンに入って行ったのは。
ルギアは意外に思った。クレアを訪ねてくるのは、落ち着いた雰囲気の客ばかりだったからだ。
とはいえ興味を持つほどのことでもなかったので、そのまま部屋に戻った。少しすると、廊下を急ぐような足音が聞こえた。
二人分の足音ということはクレアとメイドのナーラのものだ。彼の部屋よりも奥にあるのは、客間などを除けばクレアの部屋だけだ。
彼女たちは先ほどの客人の対応に行ったに違いないから、彼はそれ以上の興味を失ってまた魔術書や紙の束を漁る。
ところがしばらくすると、彼の集中力を阻害するような、耳障りな女の叫び声が聞こえた気がした。
瞬時に術式を発動し、サロンの中の様子を目の前に映し出した。
クレアにかけられている契約魔法らしきものを少しでも知るために、彼は彼女の周囲に目を配るようにしていた。もちろん、クレア本人には嫌がられるだろうから、魔術まで使っているとは言っていない。
そこに映し出されたのは、彼が初めて見る、表情を完全に隠しているクレアと、その彼女を一方的に罵る、勝ち誇ったような表情をした先ほどのけばけばしい客の女だった。
彼はその聞くに堪えない会話を聞いて、今さらながら、彼女にあの大きな傷跡を残した魔術にクレアが随分と苦しめられてきたのだと知った。
その女はじきに帰って行き、ルギアはクレアが部屋に戻る音を聞いた。
ルギアは元の作業に戻る気も起きずに、なんとなく散らかった紙の束を揃えていた。すると急に泣き叫ぶ声のような悲痛な音楽が耳に飛び込んできた。
廊下に出て、それがクレアの部屋から聞こえていることを確認した。さすがに女性の私室を覗き見るような不作法はしなかった。
その音は彼の心も掻きむしった。
まるで、両親の死に直面した時を、足元が全て崩れていったあの時を思い出させるような音だった。
あの時の彼には泣いている余裕なんてなかった。でも確かに、心の中ではこんな悲痛な叫び声をあげていた。
彼は自分のかつての心の叫びのような、クレアが現在発している助けを呼ぶ声のような、その曲をそれ以上黙って聴いていることが出来なかった。
音が止むまで扉を叩き、彼は彼女の部屋へ入った。クレアは感情のない顔で彼を見た。そしてなぜか一瞬悲しそうな顔をした。
「邪魔をしたね」
「お騒がせしてしまいましたね。ルギア様がいらしてからはしばらく忙しかったので、演奏しておりませんでした。もう片付けますので」
「いや、ほら、私はあちこちを放浪しているだろう? 祭りにかち合うことも多くて、そこで聞く音楽が好きなんだ。お高くとまっている演奏家なんかのものじゃなくて。
君の演奏は吟遊詩人の即興曲のようだと思ってね。君がよければ、何か祭りで聞くような陽気な曲を弾いて欲しいな」
クレアは、少し考え込むそぶりをしてから、彼女の地元の祭りで幼い頃に聞いたのだという音楽を奏でた。
ルギアは本当のところ、クレアの音楽の才能に驚いていた。先日クレアが呪文を詠唱した時に音階が驚くほど正確だったのは、その才のせいかと納得する。
楽器を弾くのをやめたクレアは、その顔に微笑を浮かべた。
おそらく辛いのだろうに、そう出来てしまう彼女に庇護欲のような厄介なものが沸き上がるのを感じる。
「竪琴は、ルギア様の方がお似合いね」
そう言ったクレアに竪琴を持たされても、ルギアには何も弾けない。
ルギアの困惑顔が面白かったようで、クレアは小さく息を吐き出すようにして笑った。
その顔を見たルギアは、彼女にはこれ以上辛い思いはして欲しくないと思った。そして彼がしてやれるかもしれない、この国では他の誰にも出来ないだろうことを口にした。
「正体はまだ掴み切れてはいないけど。君にかかっているらしい契約魔法を解除してみる?」
「ですが……状況が分からなくては出来ないのでしょう?」
「今のまま調べ続けても、これ以上は分かりそうもなくてね。もちろん中身が分からないと正確に出来るとは言えない。危険もある。
でも君を見ている限り、やはりその魔術からは厄介そうなものは感じない。例えば、他者を害するようなものはね。
一般的な契約の解除しか出来ないけど、それだけでも、もしかしたらその傷跡は消えるかもしれない」
彼は、もし契約を背負っていたとしても、それを気にせずに自由に生きていいのだと彼女に言っても良かった。
でも彼女に穿たれた傷は、彼が思っていたよりもずっと深いのだろうと、あの女との会話から容易に推測出来てしまった。
だから、その根源であるらしい、あの傷跡を消せる方法を試してやりたいと思ったのだ。
クレアは笑顔を消して、彼に何の感情も読み取れない目を向けた。よくできた陶器人形のようだった。
「聞こえてしまいましたか」
「随分と強烈な女だったね。妹なの?」
「はい。一応」
ルギアはなぜか、感情を押し殺しているであろうクレアと自分を重ねてしまう。
彼は親を殺されたことを忘れはしない。それを忘れたかのように家族を作った姉を理解できない。
クレアに彼の抱えてきた苦悩を話しても、きっと彼女ならば、姉のように、王弟のように、そんな過去は忘れて未来を見ろなんて簡単には言わないだろうと思う。
「大丈夫ではないんだろうけど。大変だね。でもこんな時に楽器を弾けるのは気晴らしになってよさそうだ」
「はい。救われます」
彼女はそう言うと、急に表情を人間らしいものに変えた。
「そうだわ。ナーラにも辛い思いをさせてしまったんです。近くで聞いていたでしょうから……。そうだわ。ルギア様、私に変身の魔術をかけていただくことは出来ますか?」
「出来るけど、なんで?」
クレアは、ナーラが彼女を連れて行きたがっていた店があるのだと言った。しかし、クレアはきっと浮いてしまうとナーラが言うので、変身して行ってみたいのだと、彼女はルギアに微笑みかけた。
「かまわないよ。それくらいなら、たいして魔力も使わない。でも、そんなに美味い物を出す店なら、私も行きたいね」
「あら、甘いもののお店のようですけれど、お好きですか」
「まあ、嫌いじゃないね」
「では、ご一緒に」
クレアは優しく微笑んだ。
ルギアはそれを嬉しいと思う自分に内心で苦笑しながら、術をかけるために、彼女に手を差し出した。
◆
ルギアはクレアを幻術で変装させてくれた。クレアは驚きと共に、それにとても安心感を覚えた。
誰にも彼女の姿を認識されないなんて、夢のようだと思う。誰も彼女の傷跡を気にしない。誰も彼女を不吉だとは言わない。
泣いていたのが分かってしまうくらい目元を赤くしていたナーラも、変身させてもらって、まるで別人のようになった。クレアはナーラがそれに楽しそうに声を上げたので、とてもほっとした。
屋敷中が落ち着かない様子だったけれど、クレアは皆に笑顔を見せ、出掛ける準備をしてもらった。
クレアもナーラもルギアも変身していたので、始めは皆驚いていたけれど、クレアやナーラの声を聞くと、ほっとしたようだった。
すぐに馬車を用意してくれ、早速大通りへ向かう。
ナーラが言うように、彼女が案内してくれたお店の菓子は絶品だった。クレアがそう言うとナーラも笑ってくれた。
ナーラに丁寧な言葉遣いを崩すように言われだけれど、クレアには上手く出来なかった。変な言葉遣いになってしまって二人で笑い合った。
同じく、目立たないように変身しているルギアは、その店があまりにも女性向けの内装だったからか、何とも言えない顔をしているのが面白かった。
あんなことがあったのに、絶望でいっぱいになって破裂してしまいそうだったのに、クレアはその時間が本当に楽しかった。
クレアは帰ってから、ルギアの部屋にその日の礼を言いに行った。
席を勧められて一人掛けのソファに腰かける。
ルギアはその斜め隣に座っている。本当は彼の正面に座りたかったけれど、そこは紙が乱雑に重ねられていて、とても座れる状態ではなかった。
クレアがこんなに自由を感じたことはないと、本当に楽しかったのだと礼を言うと、彼は「それは良かった」と言った後に少し首を傾げて言った。
「もし私と放浪する気があるのなら、君はいろいろなものから自由になれるよ」
クレアはその言葉に驚きながらも、どうしようもない魅力を感じた。
ままならない家族との関係や、ほんの少しだけ本物の夫婦のように過ごしてしまったせいで、彼女の感情を揺さぶるエリオットから、出来るものなら逃げ出してしまいたいという気持ちが湧き上がる。
彼が本気で言っているのかは分からなかったけれど、ルギアの誘いに応えて、クレアはその名前も何もかも捨て去ってどこかに行ってしまいたいと思った。
そう思いながら、ルギアを見ると、彼はとても優しい表情で彼女を見ている。いつもの、どこか人を見下しているような彼からは想像もできないような表情だった。
そして、クレアは思った。もう自由になりたいと。
憎しみも悲しみも、もう十分だと思った。だから、「自分にかかっている魔法を消して欲しい」とクレアはルギアに言った。
「危険もあるよ」
彼はそう言ってクレアの手を取って軽く握った。その手は温かかった。その温度に勇気をもらったような心地になりながら、クレアは言った。
「とにかく私は自由になりたいのです。旅に出られるかは分かりませんけれど、それよりも前に、まず出来るだけのことをしてみたいです」
彼は、なぜかとても楽しそうに、にやりと笑って、「いいよ」と言ったのだった。
◆
「まあ。クレアがそんなことを? 彼女はとても慎重な人だと思ったけれど」
そう声を上げた姉を、ルギアはその表情を読もうとしてじっと見つめた。
ルギアは先日彼から姉へ送った手紙への返事がないのに業を煮やして、転移魔法で王宮内の彼女の屋敷に現れた。
魔術による侵入を防ぐための結界すら、この国にはない。非常に危うい状況だとルギアは思う。
魔術師を多く抱える他国に攻め込まれたら、この王宮は簡単に制圧されるだろう。
もちろん、魔術は衰退したとはいえ、軍事力の高いこのバイダル王国は、確かにそういった攻撃を跳ね除けられるかもしれない。しかし、不用心である事に変わりはない。
他国と争い事が無い現在の状況であればその可能性は低いが、今後何かが起こらないとは言えない。
この国は豊かだ。それを奪おうとする者がいつかきっと現れる。
姉の夫である王弟がルギアを抱え込もうとする理由はそういう所にあるのだろうと彼は思っていた。
姉は手紙への返事を寄こさなかったことを悪びれる様子もなく、人払いをしたうえでルギアの話を聞いたわけだが、その顔は終始穏やかだ。
その様子はルギアを苛立たせた。
「クレアにも、いろいろと思うことがあったんでしょう。それよりも、例の話はまだ明かさないのですか」
「例の話?」
「アンダートで伝わっていたクラウディア女王の……」
ルギアは言葉を切った。姉が彼に話さないようにと言うように手を振ったからだった。姉はまだ隠し事を続けるつもりらしかった。
彼はその件をクレアに話さない交換条件として、姉に言った。
「ではせめて、彼女を訳の分からない魔術から自由にするために力を貸してください」
姉は、少しだけ床を見つめた後、それを了承したのだった。
つづく……




