第三十話 妹
その日のクレアには、特別しなければならない用事はなかった。
社交シーズンも終わりに近づき、彼女が持っている邸宅を貸し出していた貴族の中には領地に帰る者も出始めていた。
そういった顧客の対応は彼女の代理人であるロンダンが行っているので、数日後に彼が報告書を持って来るのを待っていればいい。
クレアは自室でお茶を飲みながら、膝の上にいる猫のメアを撫でていた。自室にいるのは、まだこの屋敷にいるルギアがサロンを使いたいというので、そこを明け渡しているからだ。
今頃また書物や紙の束で床が埋まっていることだろう。特に来客予定もないので、文句を言う者はいない。
メイドのナーラは昨日の午後は休みだったのだが、彼女からその時の様子を聞きながらクレアは相槌を打つ。
大通りに近い、かつてクレアがエリオットと共に訪れた楽器店の付近に美味しいお茶や菓子を出す店が新たに出来たのだと、ナーラは興奮気味に教えてくれた。
「若奥様もお連れしたいくらいです! 本当においしくて! でも、貴婦人をお連れできるような上品な雰囲気ではないんですよねえ」
「ぜひ行ってみたいものだけれど。今度お使いを頼もうかしら。お菓子だけでも買ってきて欲しいわ」
「もちろんです! あっ! ルギア様は変身の術を使えるとおっしゃっていましたよね。若奥様も変身することが出来れば、一緒に行けますよね! 私、聞いてきます!」
よほど感動的な美味しさだったのか、ナーラはいつになく興奮していて、そう叫ぶと部屋を出て行った。
クレアはその様子に微笑を漏らした。メアを撫でながら、彼女が入れてくれたお茶にまた口をつける。
そして、もし本当に別人のような見た目になって外出できるなら、是非そうしてみたいと思う。またあの楽器店にも行ってみたいし、他の店も気軽にのぞいてみたかった。
クレアはそもそもあまり外出が得意ではない。おそらく、クレアが傷跡を持つことを知られたら、その人を不快にさせてしまうのではないかという恐怖心がまだ消えていないからだ。
仕事で見知った相手とだけ会い、行きも帰りも馬車を使うのならまだいい。
しかし、大勢の人が集まる場所に出掛けていく時には、もう大丈夫なのだと、隠していれば誰にも知られないのだと、知られたとしても皆がそれを不吉に思うわけではないのだと、自分を鼓舞しながら、今でも意を決して外出をしているくらいだ。
外出先で嫌な思いをしたことは、エリオットと出会ってからは、基本的にはない。
もう彼女の傷跡を疎んじて嫌な言葉を投げかけてくる人は近くにいないのだから、早く忘れるべきなのに、そう簡単に自分の心を操ることは出来ないようだった。
少しするとナーラが戻って来た。その顔はどこか沈んでいる。クレアはきっとルギアに断られたのだろうと思って微笑んだ。
「いいのよ、ナーラ。仕方がないわ。今度お使いを……」
そう声をかけるとナーラが首を横に振ったので、クレアは何かあったのだと思った。
ナーラはいつもハキハキとしていて、何かあったのならばすぐにそれを伝えてくれるはずだ。こんなに話しにくそうな彼女を見ることは滅多にない。
クレアは、何か問題が発生したのだと悟る。
「何があったのかしら」
「急にお客様がいらっしゃいまして、若奥様への取次ぎを願っておいでです」
ナーラの表情はただの客人を迎えた時の顔ではなかった。
「どなたかしら」
「ニーメルディア子爵夫人と名乗っておいでです」
それはクレアの実の妹の名だった。
◆
ナーラは支度をするクレアを手伝いながら、本邸ではクレアの家族を彼女に近づけないようにと、エリオットが使用人たちに命じていたのだと教えてくれた。恐らくクレアにとって良い人間ではないだろうからと。
しかしそれは本邸でのことで、別邸でそれを知るのは、本邸からクレアについてきたナーラと、この屋敷を取り仕切る老執事だけだった。
その執事がたまたま外出している所に、クレアの妹を名乗る貴婦人がやってきた。後を任されていた若い執事は何も知らず、その貴婦人を当然のように玄関の中に入れてしまったということらしい。
クレアはエリオットが、というよりはカレドアル伯爵家が、クレアの家族のことを調べているだろうとは思っていたけれど、エリオットがそこまで気を遣ってくれていることは知らなかった。
ナーラは、クレアの妹のエマに、何とか帰ってもらうようにすると言ってくれた。しかし、玄関まで上げてしまった客人を追い返すのは礼儀に反するだろう。
妹は子爵家の当主の妻である。
クレアはその子爵家よりもはるかに格上のカレドアル伯爵家に嫁いだ身ではあるが、夫のエリオットは当主ではない。その妻であるクレアは爵位を持たない男の妻ということになる。この場合、子爵婦人の方がクレアよりも一応格が上である。
追い出したとしても、後で問題にならないように取り計らうことは出来るだろうけれど、それはエリオットにも迷惑をかけることになるだろうと、クレアはエマに会うことにしたのだった。
幸い、サロンを占拠していたルギアは、来客を告げられると、いつかのように魔術でそれをすぐさま片づけたという。
クレアは、そのサロンで待っているエマの元に向かった。
それにしてもなぜエマはクレアがこの別邸にいることを知っているのだろうか。
サロンに足を踏み入れると、メイドを一人連れたエマがお茶を前にテーブルに腰かけていた。
「あら、お姉様! 随分とお金をかけておられるようね! 見違えましたわ!」
「ごきげんよう。ニーメルディア子爵夫人。どういったご用件でお越しでしょうか」
エマは表情を消して話すクレアに不満そうな顔を向けた。
でも、もともとエマとクレアが二人きりで話すことなどこれまで一度もなかった。
クレアとしては、どういう表情で、どれくらいの速さで彼女と話せばいいのかも戸惑うくらいだ。
言葉らしい言葉を交わすことはなくても、エマから一方的に嫌な言葉を投げかけられることは日常だった。それを思い出すだけで身が固くなる。消すつもりがなくても表情は消える。
実家にいた時には慣れていると思い込んでいたこの雰囲気が、今はなぜかとても辛い。
「お姉様のことが心配になって参りましたの。お姉様が伯爵邸から追い出されて、しかも爵位も持たないお家の方々と親しく交流されていると聞いたら、いてもたってもいられなくて。
だってそれは、お姉様がエリオット様から見放されているように見えてしまうでしょう? それに、もしお姉様が離婚することにでもなれば、我が家にも何か不利益があるかもしれませんし」
クレアはエマが一人で話し続けるのを、サロンに入ってきた時に立ち止まったその場所で、身じろぎもせずに立ったまま聞いていた。
エマの友人が、夜会の後にエリオットにこの別邸まで送られてきたクレアを目撃したのだという。クレアの交友関係も、たまたま人づてに聞いたのだというから、さすがにエマは顔が広いとクレアは感心した。
もちろん、妹に生活を見張られていたような状況に対する不快感も共に沸き上がる。
エマは噂話が得意だ。彼女に口留めをした方が良いかもしれないと思ったクレアは、すぐにそれは無駄になるだけだろうと思い直し、何も言わないことにした。クレア自身が反応しなければ、それは噂のままでしかない。
エマは得意気に、クレアに向かって鞭のような言葉を投げかけた。
「私、以前ご忠告申し上げたことがあったと思うのですけれど。不吉な傷跡を持つ妻なんて、誰からも必要とされないって」
クレアは斜め後ろにいるナーラが身じろぎしたのに気付いた。彼女にこれ以上この不快な話を聞かせたくなくて、クレアは彼女に新しいお茶の用意を言いつけた。ナーラはお辞儀をすると静かに出て行った。
「どうやってエリオット様の心を掴んだのかと思いましたけれど、やはり一時の気の迷いでいらしたのね。でも正解だわ。カレドアル伯爵家に何か起きてからでは遅いのですもの。お母様を悲しませたように」
クレアは、その言葉だけは認められないと思った。これまでの彼女ならば、罵声を浴びながら、相手がそれに飽きるのを待つだけだっただろう。
でもクレアは少しだけ自分を信じることが出来るようになっていた。
クレアに傷が現れた時には確かに彼女は高熱を出していて、それが生まれて間もなかった弟に移って、そのせいでその弟が亡くなってしまったのだと、母やこの妹は信じている。
でも、それは確実にそうだとは言えない。なぜならば、身動きの出来ないクレアが弟に近づいた事はなかったからだ。
「それは間違いだわ」
「……なんですって?」
「それは間違いだと言ったのよ、エマ。あの子が死んでしまったのは私のせいではないわ。悲しいけれど、赤子にはそう言うことがあるのだと、医学書にも書かれているの」
エマはクレアが反論することなんて考えてもいなかったに違いない。せっかく塗った化粧が落ちそうなほど顔をゆがめた。
「夫は私の傷跡のことを不吉なものだとは思っていないわ。今離れて暮らしているのは事実だけれど、それには理由があるの。もちろんそれを関係のない方にお話しする必要はないわ」
「……!」
エマは反論出来ないようだったけれど、すぐにまた笑顔を浮かべた。クレアはそれを彼女が酷い言葉を吐き出す前兆だと知っていた。
「でも、もし本当にエリオット様に愛されているのなら、伯爵家の本邸から追い出されたりしないはずよ! お姉様は誰にも愛されないの。お母様にも愛されていなかったのよ。
傷跡のことを言っているのではないわ。もともと愛されていたら、何があっても、お母様はお姉様を嫌ったりなさらなかったはずだもの。もともと愛されていなかったのよ。その傷跡ができる前から!」
エマはそれだけ叫ぶと、顔色一つ変えないクレアに、勝ち誇ったような顔を見せた。
言うことは言ったと満足したのか、乱暴に立ち上がってクレアの横を通り過ぎようとして、なぜか足を止めた。
「あら、この猫、あの猫にそっくりね」
クレアは彼女から言われたことにはもう耳を貸すまいと思っていた。でもどこからともなくメアが現れて、クレアやエマの前を通り過ぎたので、彼女はエマの方を向いた。エマは猫について何か言っていた。
「昔、お姉様が隠れて飼おうとしていた猫にそっくりね。私が追い出したの。お母様が嫌がるでしょうから」
それだけ言うと、エマはメイドを連れて去って行った。
クレアはそこに立ちつくしたまま、彼女を見ながらちょこんと座っているメアを見た。
クレアは確かに昔、実家の領地屋敷の庭に迷い込んだ猫を飼おうとした。でも、その猫はすぐにいなくなってしまった。その悲しい記憶はぼんやりとしている。その猫はメアにそんなに似ていたのだろうか。
メアは、いつもと違い、自分を撫でようとも声を掛けようともしないクレアに何かを感じ取ったのか、そのしなやかな体を揺らしながらどこかへ去って行った。
クレアは泣いても良かったのかもしれない。でも、そうしないようにこらえた。予想通り、ナーラがすぐに戻って来たからだ。きっと最後の方のエマの叫びは彼女にも聞こえていただろう。
クレアは「お帰りになりました」と言って悲しそうな顔で下を向くナーラに謝った。
「若奥様は何も悪くありません」とナーラは言ってくれた。
クレアはその言葉に礼を言うと「呼ぶまでは休んでいて」とナーラに微笑みかけ、自分の部屋に戻った。
そして、我慢していた涙を流せるだけ流した。床に座り込んで、ベッドに突っ伏して、声を漏らさないように泣いた。
確かに妹の言うとおりだと思った。母はクレアを、本当には愛していなかったのだ。だからクレアに傷が現れて、息子を亡くしたのをきっかけに、クレアへの愛情を見せることもやめ、彼女にあからさまな憎しみを向けるようになったのだろう。
母は、クレアを元のように扱おうと努力することは一度もなかった。ただ忌々しいものを見る目で彼女を見ていた。
そう思うと同時に、これまでは思いもしていなかったエリオットへの憎しみが突如彼女の中で沸き上がった。
彼は彼女が人違いだと分かると簡単に捨てた。いや、クレアから別居を言い出したのだからその言葉は適切ではないかもしれないけれど、でも彼は彼女を引き留めもしなかった。
分かってはいたけれど、彼はクレア自身を見てくれたことは一度もなかったのだ。
かつて前世で愛した人の身代わりにさえならならないクレアになんてもう用は無いと、きっと彼は思ったのだろう。
エリオットは本当に酷い人だと思った。クレアの人生を変えたくせに、温もりを教え込んだくせに、自分の都合で彼女を放り出した。
クレアは泣くのをやめた。意味がないからだ。
泣くのは、それを聞いて心配してくれるかもしれない人がいないと、しても意味がないのだ。聞いて欲しい人が聞きつけて、慰めてくれないと意味がない。クレアはそれを何度も思い知ってきた。
クレアは自分を慰めるために楽器を弾いた。全てを忘れないと彼女はここにもいられなかった。
嫌なことも、愛して欲しかった母のことも、クレアを愛してくれるのではないかと期待させた酷い人のことも、全部忘れたくて、即興で音を奏で続けた。
どれだけそうしていただろうか。急に彼女の耳に雑音が届いた。現実に戻さないで欲しかった。すぐにその音を出すのをやめてくれることを願った。
でも、いつまでも鳴りやまないその音に、クレアは仕方なく手を止めた。
その雑音は扉を叩く音だった。クレアがそのまま動かずにいると、もう一度扉をノックされ、そして扉は開かれた。
そこにはルギアがいた。
クレアは一瞬あの日のことを思い出した。
その時はこんなに憎んでいなかったエリオットに、買ってもらったばかりの楽器を弾いて聞かせた時の旋律が脳内に鳴り響いた。
憎らしくて仕方がないのに、クレアはなぜかそこにいたのがエリオットではなかったことに落胆したのだった。
つづく……




