第二十五話 嫉妬をする権利
クレアはその日、いつもより早くから起き出して来客に備えて支度をしていた。
代理人のロンダンが書類を持って来る予定があったのだ。
先日見に行った旧男爵邸の売買契約が成立したので、その報告と売買契約書を持って来るはずだった。
しかし彼は近頃流行している質の悪い風邪にかかってしまったと連絡を寄こした。
もちろんそのような時のために秘書がいるので、書類一式を受け取ってきたという、ロンダンの息子で秘書でもあるケントがロンダンの代わりにやって来た。
彼は契約にも同席していたからその詳細も説明できると、その知的で秀麗な顔に人に好感を与える笑みを浮かべてクレアに言った。
一通り説明を聞き、契約書にも目を通したクレアはケントから、あの家にどの程度職人の手を入れるか聞かれて少し考え込んだ。
あの家はまず間違いなく彼女の前世の姿であるローザの育った家であるようだった。あまり手を加えたくないし、人に貸すことさえあまり気乗りがしなかった。
「あの屋敷はとても気に入っているの。そのうち自分で住んでも良いかも知れないと思っているから、最低限でいいわ。調度類も傷んでいるもの以外はそのままでいいと思うから、最低限の見積もりを出させてくれるかしら」
ケントは少し目を開いたが、また人好きのする微笑を浮かべた。そして、仕事の話が終わりそうだと見て取ったメイドがお茶の用意をしに行くと、開け放しの扉を一瞬見やった。この家には使用人が多くないことを彼は知っている。
彼は、聞きにくいことを聞こうとする表情で、微笑みつつも眉を寄せながら言った。
「クレア様は、今後お一人になる可能性が……?」
「なぜそのようなことを聞くのかしら?」
「ご夫君とは離れてお暮らしのようですし、事業にこれだけ力を入れておられることを思えば当然の疑問かと」
それはとても不躾な質問だとクレアは思った。
通常ならば雇用主にそのような口はきかないだろう。女であり、年下でもあるクレアに彼はよく親しげに笑いかけてくるが、そこがロンダンと違って彼を今一つ信用しきれない所でもあった。
「想像はお好きにどうぞ。私は私が思うように生きたいだけです」
「では、その自由な人生に伴侶を必要とされる場合には、ぜひ私を思い出していただきたい」
クレアはケントに手を取られて、その甲に軽く口づけられたのを、驚きと共に呆然と見ていた。
そんな将来は考えたこともなかった。
クレアはこの先はずっと一人で生きていくものと思い込んでいた。
そもそも、誰かが彼女に求婚する事があったとしても、その時には、クレアには離婚歴が出来ている。現在の婚姻を解消しなければ新たな婚姻は結べないのだから当然だ。
さらに、不吉な傷跡を持った彼女にその様な申し出をする男性がいるなんて夢にも思っていなかった。
でも、彼女自身ではなく、その財産が目当てならばあり得ることかもしれないとクレアは思い当たった。
クレアは、彼女の手を放して一歩後ろに下がって微笑んでいるケントを真顔で見やった。
クレアには彼が本気かどうかは分からない。でも、純粋に仕事をする上では独り身でいるよりは夫がいる方が信用は得やすいものだというのは事実だった。
その必要を感じた時に、書類上の夫として彼を使うことは考えてもいいかもしれないとクレアは思った。それがお互いの利益になるのならば。
「そう言ったことは、今はまだお話しするには早すぎると思うわ」
「もちろん。いずれ、あなたがその気になったらお考えくださればいい」
その時、空いたままのドアが叩かれたのを聞いて、クレアはメイドがお茶を持って来たのだと思った。
この会話はエリオットに報告されるかもしれないけれど、でも彼は気にはしないだろうと思いながら、メイドの方に目をやった。
ところがそこにいたのは、静かな笑みを浮かべているエリオットだった。
クレアは一瞬彼の幻を見ているのかと思った。
「エリオット様……」
「仕事の話をしていると思いきや、人の妻にそのような台詞を吐く男は解雇すべきだろうな」
エリオットがそう言いながらつかつかと歩みを進め、クレアの腰を抱いて引き寄せる。
ケントはいつもの微笑をやや引きつらせたまま、「万が一の時のご提案をさせていただいたまでです」と口にしたけれど、その声にはいつもの張りがなかった。
その理由は明白だ。エリオットがとても冷たい表情で彼を見下ろしていたからだろう。
ケントを雇用しているのは、正確にはクレア自身ではなくカレドアル伯爵家だった。そうでなければ、伯爵家から出ているお金を任せることは出来ない。
だから、エリオットが彼ら親子を解雇すると言い出せば間違いなくそうなる。
しかし、少なくともロンダンの方はクレアにとって得難い代理人だ。エリオットに権限があるからと言って、今のクレアは代理人を失うわけにはいかない。
だから、その秘書をかばうことにした。今は仕事上、秘書のケントもいた方が都合がいいという事情もある。彼の無礼な物言いは、ロンダンからも注意をさせるつもりだった。
「エリオット様。いきなりのご訪問では驚いてしまいます。先に使いを寄こしてくださいませ。
ああ、ケント、あなたはもう帰っていいわ。見積もりの件はロンダンに伝えてちょうだい。体調が良くなるまではよく休むようにとも伝えて下さる?」
ケントはやや顔を青くしながらも、非の打ちどころのないお辞儀を見せると足早にサロンから出て行った。
サロンの中の剣呑な様子に困っているメイドに、扉を閉めて出て行くようにと言ったのはエリオットだった。
「あなたが夫のいる身で他の男を探しているとは思わなかったな」
「誤解です。彼は仕事の話をしていただけでしょう。私が独り身になった時にはその方が事業をする上では有利に働くと……」
「それだけとは思えなかったが」
「もうこのお話はやめましょう。このように急がれて、いったいどのようなご用件で……っ、ん、エリオット様っ」
彼は抱いたままだったクレアの腰をさらに引き寄せると彼女の唇を奪った。クレアにはなぜ彼がそんなことをするのか分からなかった。
「エリオット様……なんで……」
「夫の権利だろう」
もう形式上のものになってしまっていたとしても、彼は彼女の夫だ。確かに妻を好きにするのは夫に与えられた権利かもしれない。
それに、多分彼は怒っている。あの会話を聞いていたのならクレアが不貞を働いていると誤解をしてもおかしくはない。
もしかしたら彼が嫉妬してくれたのではないかと思ったクレアは、心臓の辺りがどくりと大きく脈を打ったような気がした。
でもすぐに冷静になる。彼が愛すべきなのは彼女ではないと分かったはずだ。
「相手をお間違えです。この間それが分かって……」
「クレア、あなたの夫は誰だ」
「……あなたです。エリオット様。今はまだ」
クレアがそう言うと、彼は先ほどよりもさらに怒ったような顔をした。そして、抵抗しないクレアを抱いた。
◆
静寂が戻ったサロンでは、服装を整えたクレアとエリオットが向かい合ってテーブルについていた。
何があったのか察しているはずのナーラは、心配そうな視線をクレアに向けたものの、二人の前にお茶を置くと、エリオットが人払いをしたため静かにサロンから出て行った。
エリオットはお茶に口をつけると、視線を下げたまま口を開いた。彼はシュリアー様の弟である魔術師のルギア様という方が見つかったのだと言った。
確かにそれならば彼が使いも出さずに急いで自らこの別邸を訪れたのは当然かもしれないとクレアは思う。
「あなたの傷跡を見れば何かわかるかもしれないとおっしゃっている」
「そうですか。確かに、医者に治せなかった傷の手当てに呼ばれた魔術師も何かの呪いのようだと言っていたそうです」
それはクレアにとってはとても苦い思い出だった。それは、母や一部を除いた家人の態度があからさまに変わった頃を思い出させる。
もし魔術に詳しい人に見てもらえて、彼女がこの傷を負わなければならなかった謎が解けるかもしれないのならば、すぐにでもその方に会いに行きたいとクレアは思った。
そう伝えると、エリオットは「分かった。ではなるべく早く約束を取りつけるとしよう」と言った。
彼は立ち上がると、見送りに行こうとしたクレアを手で制した。
「すまなかった」
彼はそう言って帰って行った。
クレアはその言葉をどう捉えればいいのか分からなかった。
彼女をこんな場所で強引に抱いたことを謝っているのだろうけれど、そもそもそんな行動をすることがおかしい。
彼は彼女をなんとも思っていない。愛していない。
それとも、形だけとはいえ、自分の妻が不貞を働いていると思ったら、それを罰するのが夫がすべきことだと彼は考えているのだろうか。
でもそれならば、彼が謝る必要はない。
彼の気持ちはクレアには一つも分からなかった。
つづく……




