第二十二話 ローザという少女
クレアは慌ただしいながらも穏やかな生活を送っていた。
事業は順調だったし、時期がくれば離縁の決まっている夫との交流もほとんどない。忙しく過ごしていれば余計なことは考えずにいられた。
ふと立ち止まると、クレアはあの時エリオットと出会わなければ、結婚などせずに初めからこのように生活出来ていたかもしれないと思ってしまう。エリオットに恨みにも似た気持ちを抱いてしまう。
でも、それは持っていても仕方のない感情だから、クレアはそれを心の底に押し込んで、目の前のことに集中していたのだった。
その日クレアは、買い手を探しているという、とある屋敷の様子を確認するために王都の貴族街の外れに足を運んでいた。
そこは十数年前に血筋が途切れたという地方の男爵家から、裕福な新興商会の主が買い取ったという屋敷だった。しかしその商会も経営が苦しくなり、その屋敷の買い手を探しているのだと、クレアの代理人であるロンダン経由で彼女の元に情報が寄せられたのだ。
クレアはその屋敷に家紋のない馬車で乗り付けると、メイドのナーラ、ロンダン、ロンダンの息子で秘書のケントと共にその屋敷を見て回った。
古くはあったが、定期的に手入れはされていたようで、それほど傷んでいるようには見えなかった。
クレアは一部屋一部屋をゆっくりと確認していた。その時、家族の肖像画が多くかけられている食堂の、とある一枚の絵の前で足を止めた。そこに描かれているのは、丸顔で黒髪の幼い少女の肖像画だった。
クレアはなぜかそこから動けなくなった。軽く眩暈がし、ふらついた彼女の異変に気づいたナーラが慌てて椅子のほこり除けの布を取り去り、その椅子をケントが運んできてくれて、クレアをそこに腰かけさせてくれた。
クレアは何が起こりかけているか分かっていた。この感覚には覚えがあったからだ。
突然部屋が明るくなった。
そしていつの間にか、クレアの目の前に見知らぬ黒髪の男女が座っていた。
でも、それらが誰かはすぐに分かった。今クレアが見ている風景の中にも彼らはいた。暖炉の上に飾られている夫婦らしき男女の肖像画に描かれているのが目の前の二人そのものだから、この二人はこの家の主夫妻だろうと彼女は思った。
彼らはクレアに向かって言った。
『ローザ。どうか、例の結婚を受けて欲しい。このままでは我が家は立ち行かなくなってしまう』
『そうよ。後妻とはいえ、十五しか年齢は離れていないのだし、良いお話だと思うの。あなたが王宮に上がりたいと希望して叔母様方のつてを頼っているのは知っているけれど、使用人のようなことをしなくても、楽に暮らせる方が良いに決まっているわ』
クレアは、いや、ローザは隠し持っていた封筒を取り出して、中に入っていた分厚くて立派な便箋を開いて両親の前に置いた。
『お父様、お母様。私は王女様のお側に仕えることに決めました。
王女様の話し相手を探していたのですって。年が同じで、身分の高すぎない、気楽にお話し相手になれる人間を。それで、侍女長様ともこの間お会いしてきたの』
両親は驚いていた。
『いつの間に、そこまで……』
『金策に走り回っていたお父様を見て、長女の私が何もせずにいられると思って? 事情をお話ししたら、前借りにはなってしまうけれど、かなりの額の支度金を出して下さるそうなの』
その額は、事業をなんとか持ち直せるかもしれない額のはずだとローザは父親に別の書面を見せる。父の顔が明るさを取り戻したことにほっとしながら、彼女は続けた。
『あの強欲な子爵に私を差し出しても、あの人は近いうちに、この家にお金を送るのはやめさせてしまうと思うの。
それよりも、地道に働いていけば良いお給金をいただける侍女になるわ。そのためにたくさん勉強をしてきたのですもの』
ローザと呼ばれる少女の顔は見ることが出来なかった。クレアが彼女だったからだ。でも、その固い決意はクレアの胸の奥でも熱く輝いているようだった。
彼女がそういう少女なのだということがよく分かった。クレアとは違い、能動的で楽観的で明るい。
クレアは自分もそうであったら良かったのにと思った。
『若奥様?』
クレアはナーラの声を聴いた。
その瞬間、急に目の前の両親の姿が掻き消え、部屋がやや暗くなる。
「若奥様? お水をいただいてきましょうか? 近くのお店でお金を払えば買ってこられると思います」
ナーラが膝をついて、彼女の顔をのぞき込んでいた。
クレアはこっそりと自分の手を握ったり開いたりした。その感覚は確かに彼女だけのものだった。
「いえ、大丈夫よ。昨夜も遅くなってしまったから、寝不足だっただけ」
クレアは同行者の三名から心配されるのに居心地の悪さを感じて、微笑を浮かべながら立ち上がった。もう眩暈は起きなかった。
「早く帰りましょう」と言うナーラを落ち着かせつつ、クレアは考え込みながらロンダンに視線を向けた。
「この家はいかがいたしましょう」
「買っておいて損はないと思うわ。とても良い状態だから」
「同感です」
クレアはロンダンとこの屋敷を買うために出せる金額を確認し合うと、その交渉を彼に任せた。
その原資はクレアがカレドアル伯爵家から好きに使っていいと渡されているお金だった。
あの家は本当に裕福だと、クレアはそのことには素直に感謝していたし、いつか原資は返そうと思っている。
そして彼女はその屋敷を、少しばかりの郷愁を感じながら後にした。
夜になって寝室で一人きりになったクレアは、昼間の出来事を思い返していた。
あのように断片的な前世の記憶を見たのは三度目だった。
どうやら、彼女の前世はローザという名の、後に女王となる女性の侍女だったことは分かった。
飾られたままになっていた肖像画から見るに、彼女の生家は、血筋が途絶えたというかつてあの屋敷の持ち主だった男爵家に違いない。クレアはその考えが、やけに彼女の胸にしっくりとはまり込むのを感じた。
ローザは意思が強くて、自分の可能性を信じていた。そして本当に、後に女王になるクラウディア王女の侍女になったのだろう。
以前クレアが謁見の間で見た光景も彼女の目を通してみたものだとしたら、彼女は王女が女王として即位した後もその側にいたことになる。それにはどれほどの努力がいったのだろうか。
彼女は自分だとクレアは思った。そして、頬を涙が伝った。
なぜ自分は高熱を出して傷が現れた、まさにあの時に、このことを思い出さなかったのだろうかと思わずにはいられなかった。
そうしたら、少なくともエリオットとの初夜で彼の話を聞いた時に彼の思い込みを否定出来ただろう。彼と身体を重ねることなく、白い結婚を貫き通せたのだろう。
彼女は自分の体を抱きしめた。不意にエリオットの腕の中の温かさを、安心感を思い出してしまったから。
「なんで、今さら思い出すの……?」
それは今はまだ夫である男性のことでもあったし、前世の記憶のことでもあった。
心を落ち着かせようと竪琴を演奏しようとして、でも時間が悪いとクレアは思いとどまった。この別邸の造りでは音が使用人たちの眠りを妨げてしまうかもしれない。
そして本邸に置いてきてしまった楽器のことを久しぶりに思い出した。エリオットに請われるままに演奏をしたあの楽器のことを。
せっかく買ってもらった楽器も、竪琴以外は本邸に置いてきてしまった。
外国の、手探りでするしかない楽器の手入れまでは今のクレアには手が回らないので、そのままになってしまっていたけれど、近いうちにこの別邸に持ってきてもらおうと心に決める。
大通りには本邸よりもこの屋敷の方が近いので、あの楽器を購入した裏道の楽器店に足を運ぶくらいの時間は、社交シーズンさえ終われば捻出できるだろう。
そこでまたあの店の主人に音色を聞いてもらうのもいいかもしれない。クレアには分からなくても、経験豊富なあの男性ならば何か分かることもあるだろう。
クレアは窓に近づくとカーテンを少しだけ空けた。そこには二つの月があった。こんな日は音楽を奏でたかった。自分の心を代弁してくれるような、やりきれなくて悲しい旋律を。
つづく……




