第十七話 クレアの決意
その日クレアは、エリオットから数日は帰宅できないだろうという連絡を受け取った。
ただでさえ仕事が立て込んでいる上に、提出された書類に不備があり、急遽現地の調査をしなければならなくなったのだという。
クレアはそれを聞いた時、心の底からほっとしている自分に気づいてしまった。
妻として失格だとクレアは思った。ずっと夫であるエリオットを避け続けている。
家人にも心配をかけてしまうと分かっているけれど、どうしても彼の側にいるのが辛かったのだ。
だから、彼を避けるような真似をしなくてよい時間が与えられたことは彼女の心を軽くした。そして、それと同時に申し訳なさも覚える。
つい先日、早い時間に突然帰って来たエリオットに、クレアが彼と夜を共にしないことを詰られながら抱かれたばかりだ。乱暴な扱いはされなかったけれど、彼は怒っているようだった。
これまで通りの関係を続けることはもう出来そうになかった。
クレアが思い出してしまった前世のクレアの正体は、二人の関係を根底から覆すものだったのだから。
クレアは、自分がやはり彼の勘違いで結婚してしまっただけの、何の関係もない人間だとエリオットに告げなくてはならない。そして、その事実に向き合うべきなのだということは分かっている。
でも、それがどうしても出来なくて、彼を怒らせるような行動をしてしまっている。
彼女は、この心地よい場所を全て失ってしまうのが怖かった。
この温かさを知る前であれば、むしろ自分が思い出した内容を嬉々としてエリオットに告げて関係を解消しただろう。
彼女が頭の中で、そんな堂々巡りをしている間にも時間は過ぎて行く。
クレアはもう自分が覚悟を決めなければいけないと分かっていた。でもその一歩を踏み出すきっかけをつかめないでいたのだった。
◆
義妹であるラティスは以前のようにクレアの部屋を訪ねてくれるけれど、あまり長い時間を共に過ごすことはなくなっていた。
次のシーズンに社交界にデビューする彼女はとても忙しい。
でもラティスは増えたはずのダンスの授業をとても楽しみにしている様子だった。そのダンスの教師として呼ばれている貴公子には、クレアも一度挨拶をした。眼鏡をかけた青年だ。カレドアル伯爵家と所縁のある名門の子爵家の次男だと言う。
しかし、ある日、その家庭教師との授業後にやって来たラティスはひどく沈んだ様子だった。
クレアは温かいお茶を入れてもらうと人払いをした。
常にメイドや執事が同じ部屋に控えているはずなので考え辛いが、最悪の想像をしてしまったのだ。
例えば、同意のない行為を強要されたとか。
「ラティス。何かあったのなら、話してくれないかしら。あなたが望むなら誰にも言わないと約束するから」
ラティスはクレアの膝に縋り付くようにして泣いた。クレアは「大丈夫よ」と繰り返しながら彼女の髪を撫でた。
実の妹との関係は希薄なものだったから、どうしてやるのがいいのか分からなかったけれど、出来ることはしてあげたかった。
やがて泣き止んだラティスが言った。
「婚約者との結婚が正式に決まったのですって。その方の元に婿入りをするので、こちらに来れるのはあと数か月になると。それまでには教えることは何も残っていないようになっているはずだから、安心するようにと言われたの。でも、私はもっと会えるようになると思っていたから……」
「あの方のことがそんなに好きだったのね」
ラティスは頷くと、クレアに「恋をしたことがあるか」と聞いた。
クレアは言いよどんだ。彼女にはそんな経験はない。夫となったエリオットに対しても多分恋をしてはいない。
あいまいに答えてしまおうとも思ったけれど、利発な彼女はそんな答えでは許してくれないだろうと、「ないと思うわ」と真実を告げた。ひどく惨めな思いがしたけれど、こればかりは仕方がない。
「クレアお姉様はお兄様を愛してはいらっしゃらないのでしょう?」
そう。彼女にも気づかれているように、クレアはたぶんエリオットを愛してはいない。心から信じてもいない。
クレアはこの忌まわしい傷ができた時から、誰かに抱きしめられたことも誰かと共に眠ったこともなかった。
初夜に優しく抱かれたあと、エリオットに抱きしめられて眠るのが心地よかった。
しかし、それが恋だとか愛だとか言われるものかと聞かれれば、違うと答えるしかない。彼女がエリオットを離しがたく思うのは、打算に裏付けされた感情だと思う。
あんなに、愛おしそうに、たとえそれが別の人物に向けられたものであっても、クレアを抱きしめてくれるのは彼だけだから。
クレアは正直にラティスに言った。
「貴族の結婚とはそういうものなのだと思うわ。それに、まだエリオット様とは夫婦としての関係を作っている段階なのだと思うの。知り合ってそれほど時間が立たないのだから」
「他の方を愛したこともないのね?」
「ないわ。あなたのように恋を失って涙したことも。悲しんでいるあなたには申し訳ないけれど、あなたが少しうらやましくもあるの」
クレアがそう言うと、ラティスはクレアが差し出したハンカチで涙を拭いた。そして、「そういうものだとお母様もおっしゃっていたけれど」と言いながら悲しげに目を伏せた。
クレアはやはり、彼女にかけてあげられる言葉を持っていなかった。
やがて、ラティスは涙が引いた赤い目で、気丈に「社交界に出たら素敵な方を探すわ! お兄様よりもあちこちに連れていってくれる方がいいわね」と言うといつものように明るく笑った。その言葉に、優しい笑顔に、クレアもつられて笑う。
彼女は強くて明るい。クレアとは違う。
ラティスは控えていた彼女のメイドに促されて、他の授業を受けるために自分の部屋に帰って行った。
ラティスの様子を見ていても彼女の感情をすべて理解出来るわけではなかったけれど、クレアも狂おしいほどに人を愛してみたいし、愛されたいと、少しだけ思う。
この屋敷で皆から大切にされている感覚を味わって、人から愛されることなど諦めきっていたクレアにもそのような感情が芽生えてしまったのかもしれない。
でも、クレアはすでに結婚しているのだからその相手は自然とエリオットということになる。だからそんな物語のような出来事は起こらない。起こって欲しくない。
もし彼を愛してしまったら、とても辛いに決まっているのだから。
彼が愛しているのは前世で愛した人で、彼はクレアをその相手の生まれ変わりだと思っている。
でも違った。
彼は他に愛する人を見つけるべきだとクレアは思う。
エリオットはクレアと違って、人を愛するということを知る人だから、なおさらに。
少し前は、彼が勘違いに気づいてクレアと離婚すると言い出した時のことを考えていた。その時に困らないように何か商売をしようかと、むしろその未来に心躍らせていたはずだった。
でも、この屋敷は離れがたく、彼の腕の中ほど温かい場所を彼女は知らなかった。
その心地よさを知ってしまった。
どんなに前のような気持ちを持とうとしても、それを知る前には戻れなかった。
「若奥様、お茶をお入れしましょうか」
また一人で考えに沈み込んでいたクレアに、メイドのナーラが穏やかな声で聞いてくれる。
「お願いできるかしら」
「もちろんです。すぐにお持ちします」
ナーラは微笑を残して部屋から出て行った。
彼女を見送ったクレアは、こんなにも優しい人たちを騙している自分が詐欺師か何かのように思えてきた。
本来ここはクレアのような人間がいるべき場所ではない。
母にかけられた、「不吉な娘」という言葉が頭の中をかき回す。
そして、急に自分の存在はこの家の人たちも不幸にしてしまうのではないかという恐怖がクレアを襲った。
家人やラティスに心配をかけ続け、夫を避け続ける日々をこれからも送り続ければきっとそうなる。
エリオットも本当に探している人と出会えないままになってしまうかもしれない。なぜか胸は痛むけれど、やはり彼には真実を伝えなくてはならない。
クレアは何としても、エリオットが数日後に帰ってきたら、出来るだけ早く真実を語ろうと心に決めた。
そうとなれば、彼女が彼を説得できるだけの材料を用意しなければならないだろう。エリオットが口先だけの説明で納得するとは思えない。
クレアは覚悟を決めて、一枚の便せんを取り出し、それに文字を綴った。王弟妃のシュリアー様に宛てたものだった。
つづく……




