第十六話 あの方の面影
エリオットは悩むとまではいかないが、気になって考え込むことが増えていた。しかし、その原因について相談できる相手は彼にはいなかった。
妻であるクレアがよそよそしいのだ。
エリオットは自分はいい夫とは言えないと思っている。仕事ばかりで、妻のために捻出した時間は婚約期間と結婚してからの期間を合わせても、一般的には少ないのだろう。
それ以前に、前世がどうのというような、受け入れられなくても致し方ないことを言い出すような男だ。
だが、クレアは彼の話を聞いても頭ごなしに否定することはなかったし、彼が真剣なのを理解してくれているようだった。
そして、自分のペースを崩そうとしないエリオットが突然彼女に出掛けようと提案した時も、それに合わせてくれもした。
これまでは彼女は特に不満げな様子を見せることはなかった。
だが、もしかしたら彼女は非常に強い不満を感じていて、それを露わにするようになっただけかも知れないとも思う。
もちろん今でも、エリオットが彼女が寝支度をする前に帰れば、彼女は彼を出迎えてくれる。
しかし、彼女はその後に彼が彼女との時間を過ごそうと思っても、領地経営の勉強をしたいだとか、体調が悪いだとか言って私室に戻ってしまう。
体調を心配した彼は、懐妊の兆候かとメイド長を呼び出して確認したくらいだった。しかしそれはすぐさま否定された。
さらに、彼女があんなに楽しんでいた楽器の演奏もしておらず、食も細くなっている様子だと、メイド長や専属メイドも心配していると聞いて、彼は彼女が単なる不満から彼に対して冷たくなったのだとは思えなくなった。
彼は彼女と話をしようと思った。何か悩みがあるのならば打ち明けて欲しいと。
しかし、そこで気づかずにはいられなかった。彼は彼女から悩みを打ち明けてもらえるような関係を築けていないのだという事に。そして、何も言い出せないまま時間だけが過ぎていく。
一つ心当たりがあるとすれば、異変はあの宴の後から起こり始めたということだけだった。
確かにあの時、クレアは酔って使用人用の通路に迷い込んでいた。それを気に病んでいるのだろうか。
エリオットはその夜、夫婦の寝室ではなくクレアを彼女の寝室で休ませた。体調が良くないのだから、当然の配慮をしたつもりだった。だが、その時にきちんと話を聞いてやればよかったのだろうか。
彼女はそれから二週間余り、何かと理由をつけては一度も夫婦の寝室には来なかった。彼はそれからずっと彼女と挨拶以上の言葉も交わしていなければ、その肌に触れてもいなかった。
「エリオット。手が止まっているようだが。体調でも悪いのか」
同僚にそう声を掛けられて、我に返ると、部屋中からの視線を集めていた。
この執務室の主である王弟にまで、「何かあったのか」と聞かれる始末である。
「何も問題はありません。それよりも、そちらの決裁をお願いいたします」
エリオットは上司の机上に積みあがった書類を指差して、王弟の方がよほど仕事に身が入っていないことを指摘すると、意識を手元の書類に戻した。
仕事中もそのような調子だったが、一人で個人の寝室で寝ているとなお悪い。
エリオットは思い起こしてしまうのだ。クレアの笑顔や肌のぬくもりを。
そして、あの頃の記憶を。前世の彼女の姿である、あの方の感触や匂いを。
◆
エリオットの前世は、シェラード・トーラスという名の、家柄に恵まれ、武名にも優れた騎士だった。
シェラードは十四歳で見習いとして騎士団に入団した。クラウディア女王の即位から数年後に近衛騎士になるまでは、その頃きな臭かった隣国との国境線にいた時期もある。
魔術師が重用されていた時代だった。かつては花形の職業とされていた騎士は、その威光を失いつつあったが、彼らは誇りを持っていた。
シェラードは名門貴族の出だったから、しがらみも多かったものの、その派閥からの後押しもあり、彼はクラウディア女王が即位してから二年ほど後に近衛騎士の一人となった。
彼にとっての女王はあくまでも遠くから見守るだけの、触れることさえ出来ない、ただただ気高く美しい人だった。
気の強そうな視線を崩すわけでもなく、傲慢な表情で臣下を睥睨する様は、彼女が君主として存在するのが当然だと思わせるほどの威厳に満ちていたと彼は思う。
ところが、それから数年後に予想だにしない出会いが待っていた。
彼が一人で夜の見回りをしている時に、物陰に人影を見つけ誰何の声をあげた。それは部屋着と思しき簡素なドレスを着た女王だった。
すぐに正体を見て取った彼は兜を脱ぎ、彼女にひざまずいた。
彼女は年相応の、少女めいたあどけなさを残す顔に驚きの色を浮かべていた。通常であれば、彼女の周りは常に魔術師たちが警護している。たった一人で、こんなに近くに騎士を見たことがなかったのかもしれない。
その姿は、いかにも頼りなげで、ほっそりとしていた。その両肩にこの国の全てを背負っているなんて、不憫にも思えてしまうほどだった。
彼はその、女王その人への侮辱ともとられかねない考えを飲み込み、「お送りいたします」と声を絞り出した。
彼女は、「少し息抜きが必要だから見逃して欲しい」と言った。彼はその言葉に従った。
彼女がもう部屋へ戻ると言い出すまで、少し離れた所からじっとその後ろ姿を見守っていた。
気が済んだらしい女王を、彼女の部屋がある区画まで送ると、彼女は驚くべきことに、彼の名前を呼んだ。
「シェラードと言ったな」
彼は確かに女王とかつて顔を合わせたことがあった。彼が褒賞を受けた時だ。でもそれは特別珍しいことでもなく、しかも何年も前のことだった。
彼は女王が新任の近衛騎士の確認でもしているのかと思った。それは自身の安全を図るのならば、当然のことだろう。
それにしても畏れ多いことだったから彼は跪いて、「ご苦労」と言った女王をその場からその姿が見えなくなるまで見送った。
それは、彼の心には大きな変化をもたらすのに十分な出来事だったが、それが彼の生活を変えることはなかった。
次に二人が会ったのは、それからさらに二年後のことだった。
その間もシェラードは式典などの警備についてはいたものの、彼女のことは遠くから眺めるだけだった。それしか出来ることはなかった。
それなのに、その女王をまたあの場所で見つけたのだ。
その頃は、宮廷内の派閥争いが激化し、女王の従兄弟であるサルトーリ公爵キーランに支持者が集まりつつある、緊迫した状況だった。
彼女は震えて泣いていたが、彼の存在に気づくとドレスの袖でその涙を慌てて拭った。彼はそれには気づかないふりをした。
彼女は彼のことを覚えていてくれた。
「確か、そなたとは以前にもこんなふうに出会ったな。シェラード」
彼はその瞬間、彼女に恋をしていることに気づいた。
その人が「寒いな、ここは」と腕を体に巻き付けるのを見て、拒否されないか慎重に確かめながら抱きしめた。彼女は彼に身を預けた。
口づけも拒まれなかった。彼女もそれ以上のぬくもりを彼に求め、建物の陰で彼らは抱き合った。彼は、無垢な体だった彼女を慎重に抱いた。
夢のような時間だった。
彼の家はクラウディア女王の政敵であるキーランの派閥に属する。彼はけして彼女の夫にはなれなかった。けれど、彼は彼女を愛してしまっていたことを自覚した。
そして、悲劇の日はそう遠くないところまで迫ってきていた。
◆
「エリオット。やはりお前は少し変だ。早く帰って奥方に慰めてもらえ」
エリオットは書きかけの書類に盛大にインクを滲ませていることに、上司である王弟の声で気づいた。舌打ちしたい気分だった。
確かに彼はおかしかった。しかし、帰ったところでクレアと話せるわけでもない。いや、彼女の部屋を訪ねればいいだけなのだが、臆してしまう自信しかなかった。
だが、このままでは埒が明かないと思った彼は、上司の言葉に甘えることにする。
彼は使いも出さずに、急に帰宅した。執事は驚いていたが、今の彼にはどうでもよかった。
クレアの居場所を聞くと、温室にいるはずだと言われる。
彼は意志が挫けるのを恐れて、そのままそこへ向かい、驚くメイドたちを下がらせて、彼の突然の登場に慌てて立ち上がった妻を抱きすくめた。
彼女の体は確かに少し細くなっている気がした。
「エリオット様……。いったいどうなさったのですか」
「仕事に身が入っていないからと、殿下に追い返された。奥方に慰めてもらえと」
エリオットはその言葉に身を固くしたクレアに無性に腹が立った。彼女は彼の腕の中から逃げようとしたのか、身じろぎをしたので、彼は腕に力を込めた。
彼はここに彼女に悩みを打ち明けて欲しくて来たはずだった。
しかし、クレアに拒否されたのが思いの外こたえた。
そして、全て彼女が彼を避けるのが悪いのだと、最低な言い訳をしながら彼女を抱いた。
「エリオット様……! せめて寝室に……!」
そういう彼女の唇を自分のそれでふさいで、何も言えなくした。
現在の妻ではなく、前世で情を交わし、そしてその命に手を掛けた女を想う夫には、何かに悩んでいるはずの妻を慰める資格はない。
まして、昼間から彼女の意向を無視しながら彼女を犯すような男には。
彼女は事後、彼の腕の中で呼吸を乱しながらも、彼を責めなかった。ただ黙って彼の腕の中にいた。
エリオットはそのことに少しだけ満足すると、彼女をしばらく独占した。
その柔らかな髪に口づけ、彼と視線が合いそうになると顔を伏せてしまう彼女と視線を合わせないように抱きしめる。そうしていると、自分の気持ちも、彼女の気持ちも考えずにいられた。
その夜も、彼女は夫婦の寝室には来なかった。
つづく……




