第十三話 目覚め始めたもの
クレアは夕食後、エリオットが書斎に籠ると、昼間彼に買ってもらった異国の楽器が弾きたくて仕方なくなってしまった。
そして、明日まで我慢しておけばよかったと思いながら、蔵書を漁っていた。この家の蔵書を管理する司書がもういない時間だったため、片端から本をめくる羽目になっていたからだ。
メイドのナーラはそんなクレアに嫌な顔一つ見せず協力してくれていた。そして、その彼女が目当ての物を見つけてくれた。
「若奥様、こちらにその楽器にそっくりな絵が」
彼女が見つけてくれた本には、この日の昼間にエリオットに買ってもらった異国の楽器に似た絵が描かれていた。
クレアは絵図と手の中の楽器を見比べて、確かに同じものだと頷いた。
長い弦が三本あるそれは、座った状態で膝の上に立て爪弾くのではないかと楽器店の主人とも話していたのだが、その通りに演奏者の様子が描かれた絵もあった。
そこには外国語ではあるが、クレアには読める言葉で奏法などが書かれていた。
しかし残念ながら、音階は書かれているものの、それはこの国の物とは違うようだった。本から音が聞こえないのは仕方ないけれどそれを残念に思いながら、とりあえず試してみようとクレアは決めた。ナーラに手伝ってもらいながら、広げてしまった本を元に戻すと、必要な一冊を大事に抱えて部屋に戻った。
彼女はこの楽器が持つ音階が分からなかったから弦を緩めたりしながら、しっくりくる音を探す。
そうしていると、彼女の飼い猫となったメアが現れて、クレアが腰かけるソファに寝そべった。
「いかがですか」
「まだ分からないわね。少し試してみるわ。遅くまで手伝ってもらって悪かったわ。寝る支度くらいは自分で出来るから、あなたはもう休んでちょうだい」
ナーラはまだ付き合うと言ってくれたけれど、クレアは自分が時間を忘れてしまう自信があった。だから、また明日演奏を聴いて欲しいと再度言うと、ナーラは素直に従った。
彼女も疲れているはずだから、そうしてくれてクレアはほっとした。世話を焼かれていればいいクレアとは違って、ナーラは急な外出の支度をし、帰ってからもずっと働いていたのだから。
それからクレアはその楽器の音を探すのに没頭した。そもそもこの楽器はもっと高い音を奏でるのではないかと思いつき、弦を絞った。それを爪弾くと、その音が澄んだものになった。クレアの期待は嫌でも高まった。
それに合わせて残りの二本の弦も調整すると、旋律が奏でられるようになる。
彼女は猫のメアに向かって話しかけた。
「ねえ、メア。合っているかは分からないけれど、聞いてもらえるかしら」
その時、薄く笑うような声がして、クレアは驚いて扉の方を見た。そこにはエリオットがいた。
彼は開いた扉にもたれかかっている。いつの間に扉が開かれたのだろうか。クレアは集中してしまうとそれ以外のものには気が向かなくなってしまうことが多々ある。
クレアは気恥ずかしくて赤面したが、エリオットは微笑を浮かべていて、そのわずかないつもとの違いが、先ほど、この楽器の音らしきものを見つけた時のように胸を揺さぶった。
「私にも聞かせていただきたいのだが」
「気づかなくて……申し訳ありません。拙いものでよろしければお聞きくださいませ」
「ぜひ聞かせていただこう。あなたが一所懸命にそれをいじっている様子は見ていて飽きなかった。眉間にしわを寄せていたよ」
クレアは慌てて自分の眉をさすった。エリオットは部屋に入ってきて、きちんと扉を閉めた。
「もう弾けるように?」
「一応は。でもまだ本当の音階が分からないので、この楽器の本来の良さは出せていないと思います」
「それでも美しい音色だった」
クレアの目の前の席にエリオットが腰かけた。そこでクレアはメアが姿を消していることに気づいた。つい先ほどまではいたはずだった。
「あら? メアが……」
「ああ。あなたが飼い始めた猫の名か。先ほどまではそこにいたのか?」
「はい。でも、猫は気まぐれなものですから。そのうち姿を現すでしょう」
クレアは窓の外を見た。寄り添い合うように大の月と小の月が並んでいる。彼女は月が二つ並ぶこんな静かな夜にふさわしい、緩やかな旋律を奏でた。
竪琴では弾いた経験がある、吟遊詩人に教わった曲だ。愛し合う恋人同士の囁き合う声を現していたものだったと思う。
わずかに視線を上げると、エリオットは彼女の演奏を聴きながら目を閉じていた。指が彼女の奏でる旋律に合わせて膝の上で踊っている。
この日彼と出掛けられたのは、始めはもちろん驚いたけれど、いい経験だったとクレアは思った。
それに、エリオットが彼女の希望を叶えるために、彼のような身分の人が足を踏み入れないであろう下町の楽器店にまで付き合ってくれた。純粋にそれが嬉しかった。
彼がクレア本人を愛していないことは知っているけれど、彼はその時確かにクレア自身の希望に沿って動いてくれたのだ。それだけでもクレアはとても嬉しかった。
そんなことを考えながらの演奏は、音が弾むように響いた。クレアはまるで自分の気持ちを明かしてしまうかのようなその演奏を区切りの良いところで止めた。その程度のことで浮かれてしまう自分が恥ずかしかったのだ。
エリオットは目を開けると、彼女に微笑みかける。
「見事な腕だ」
「いえ、何の役に立つことでもございませんので、お恥ずかしいです」
「そんなことはない。私は少し君を知れた気がして嬉しい」
エリオットからそんなことを言われるとは思ってはいなかったクレアの頬に熱が集まる。自分自身が認められたのだと思うとやはり嬉しい。
「もう少しだけ聞いていたいのだが……」
「こんなものでよろしければ」
「ぜひ」
エリオットは今度は、先ほどメアが寝ころんでいた辺りに腰かけた。
クレアはそれをこれっぽっちも気にしていないふりをしながら、また違う旋律を探しながら指を動かした。それが終わると、彼に楽器を取り上げられて、唇を食まれる。クレアは慣れないながらもそれに応えた。彼の腕は簡単にクレアを引き寄せてしまう。
この結婚はクレアにとっては救いと言えるものになっていた。結婚をしていなかったら、一人で生きていくための試行錯誤の真っただ中だったかもしれないし、まだ母のいる屋敷で暮らしていたかもしれない。
この屋敷は今まで過ごしたどこよりも、あるがままのクレアを受け入れてくれる。穏やかでいられる時間のなんと心地よいことだろうか。
しかしやはり、クレアの心情は複雑だった。気にしないと思いながらも、エリオットにも何かを期待してしまう。こんなふうにやさしく触れられればなおさらだった。
でも、彼だけが、クレア本人を見ていない。愛する人と彼女を重ねている。
あれほどクレアを嫌っていた母でさえ、ある意味では、はっきりとクレアをクレアとして扱っていたのに。
彼が前世の記憶があると言うのは、彼の思い込みか事実かはまだクレアにも分からない。
彼が前世で想いを寄せていた人の生まれ変わりが自分だと確信することも彼女には出来ない。そう思うに足る材料が一つもないからだ。
彼から急に「あなたではなかった」と言われたら、クレアにはここを去る選択肢しかない。そうなってもいいように準備をしておくつもりなのに、その時が来るのを恐れる気持ちが生まれてしまった。
その時が来たら、クレアは思いがけず得た落ち着ける場所を失ってしまう。包み込んでくれる温かい腕を失ってしまう。それが今の彼女には何よりも怖い。
今日のようにエリオットがクレア自身を感じてくれる日がまたあるといいとクレアは思った。錯覚でもいいから、彼からの気持ちを感じていたかった。
つづく……




