第十二話 音楽の才能
馬車の中でクレアと二人きりになるのは、実際にはメイドも同乗しているが、初めてのことだった。
社交シーズンが終わった今、夫婦二人で出かけなければならない用事はなかったのだから当然だと言い訳めいたことを考えながら、エリオットは確かに自分は酷い夫かもしれないと思った。
身分上制約の多い生活を送っている王弟殿下ですら、よく芝居などにお妃様を連れて行っている。
そんな事にも気づいていなかった自分にあきれるとともに、普段全く自分から何かをねだることをしないクレアを見つめる。
彼女は微笑みながら窓の外を見ていた。
彼は、クレアが選んだ外出着が、婚約した時に彼が贈ったものの中の一つなのだと気づいていた。
彼自身が生地を選んだ。クレアの髪の色や瞳の色を思い出しながら。
確かに浮かれていたのだ。ついに探していた運命を共にしたいと願った人に出会えて、そして幸運にもその人は彼と婚姻を結べる立場にいたから。
「あなたは音楽が好きなのだろうか。よければ演奏会の席を用意しよう」
クレアは驚いたように彼を見る。今日は驚かせてばかりなようだ。
「よろしいのですか? ですが、お仕事がお忙しいのですから、ご無理はなさらないでください。それに、私が好む音楽は随分前に実家の子爵家に滞在していた吟遊詩人から教わったもので、他のものには詳しくないのです」
「吟遊詩人?」
クレアは彼女の家の屋敷の庭で吟遊詩人から、彼の持っていたいくつかの楽器を習ったのだと言った。
しかし、もう年頃に差し掛かっていた彼女が吟遊詩人などという流れ者と親しくしていることを母親に咎められて、それきりなのだと彼女は少し寂しそうに微笑みながら言った。
エリオットは彼女が他の男の話をするのを初めて聞いた。少しばかり胸がもやもやとする。
だがそんな昔の、しかも色事めいたことのない関係に対して口を出す夫はいかがなものかと、「ではそういった楽器を探そう」と言うのにとどめた。
やがて馬車は大通り近くに差し掛かり、馬車を止めて護衛とメイドを一人づつ連れ、エリオットは彼の腕に手を置くクレアを連れて本屋へ向かった。
彼女は遠慮がちに二冊だけ本を注文した。彼女の書斎も作ればいいと、欲しいだけ選んでいいというエリオットに、彼女は「私などにとんでもない」と首を横に振った。
クレアはラティスなどに比べて物をねだることをしないのを、どう解釈するべきだろうかと次の店に向かいながら考える。
彼女が生家で冷遇されていたのは彼も当然知っている。そのためなのならばいい。いつかクレア自身が夫から多くの物を贈られるにふさわしい存在なのだと思ってくれれば。
しかし、彼女が自分にその価値がないと思う原因の一端はエリオットにもある気がした。
婚約中も含めると、もう四か月ほど一緒に生活しているというのに、エリオットはこの日まで彼女を誘って二人で出かけることすらしなかったのだから。
「エリオット様。こちらです」
護衛が案内したのは老舗の楽器店だった。エリオットは音楽に馴染みがないが、彼の家には代々の付き合いというものがあるので、自然とこの店を選んだ。
しかし、それは失敗だった。
この店にはクレアが探しているような楽器はなかった。それだけならばよかった。
だが、「吟遊詩人が持つような小型の竪琴を見せていただきたいのですけれど」と彼女が言った途端に店の主人の眉が上がった。
エリオットの身分を知る主人は「申し訳ございません。お取り扱いしておりません」としか言わなかったが、その目は、「なぜそんな下等なものを欲しがるのか」と言っていた。
それを見た彼女の顔が曇った瞬間、エリオットは無性に辛くなった。
その店はエリオットの判断ですぐに出たが、クレアはエリオットの腕を先ほどよりも心持ち体を離して、その細い手を掛けていた。
「伯爵家にふさわしくない振る舞いをいたしました。申し訳ございません」
エリオットはそう言う彼女の腰を引き寄せて、先ほどと同じ距離で腕を掛けさせた。
「急に出掛けるなどと言いだした私が悪い。本来ならば、あなたの欲しい物を聞いて、それにふさわしい店を探しておいただろう」
そう言うと彼女は、顔を曇らせながらも微笑んでくれた。
出直そうとしたところでクレアのメイドが発言を求め、そのメイドが大通りから何本か中に入った通りにある、もっと庶民向けの楽器店を知っていると言い出した。
護衛もその辺りならば、彼らが訪れても多少浮くくらいのもので治安上は問題ないだろうと言ったので、歩いてそこに向かった。その途中にある店みせを、物珍しそうにあちらこちらと目をやりながら見ているクレアの様子が微笑ましくて、彼は歩調を落として歩いた。
メイドが案内した店は、先ほどの店とは格調も、広さも、置いてある楽器も、何もかも違ったが、クレアが欲しがっていた竪琴はすぐに見つかった。
彼女の瞳がその瞬間に輝いたのを見てエリオットはほっとした。やはり彼女の悲しげな顔は見たくない。
おかしな気分だった。彼女には、彼が前世の記憶の中で恋焦がれたクラウディア女王の面影はない。しかし、その微笑が重なって見えることがある。まるで顔立ちが違うのに、記憶の中のそれと目の前にある現実のそれは、同じように彼の胸を締め付けた。
粗末な椅子を借りて、それに躊躇なく腰掛けたクレアが竪琴を爪弾くのを聴く。彼女が奏でたのはほんの短い旋律だったが、それは素晴らしいものだと感じた。
彼女はメイドから褒められるのに微笑み返しながら、手近にあった楽器も試しに弾いてみるようだった。それはエリオットが見たことのない、異国情緒あふれる装飾を施されたものだったが、クレアは少し試すとそれでも先ほどと同じ旋律を奏でた。
「あの嬢ちゃんはあんたの恋人かね」
店主らしい老人がいつの間にかエリオットの側で壁にもたれかかっていた。
「妻だ」
「それはそれは。惜しいね。お貴族様の奥方ではな」
「惜しい?」
「当然だよ。あれは天賦の才だね。初めて触れるものをあれだけ弾きこなせるとは。どこの劇場でも売れっ子になるだろうに」
エリオットは老人の言葉に、クラウディア女王は自分で演奏することはなかったが、音楽が大変にお好きなのだと聞いたことを思い出した。
楽師を宮廷に招いていたようで、女王の私室の周辺では、よく楽器の音がもれ聞こえていたものだった。
クレアは店主に許可を取りながらいくつもの楽器を弾いた。メイドと楽しそうに、どの音色が一番好きかなどと言葉を交わしている。
彼女のこんなに無邪気な笑顔を見たのは初めてだった。
クレアはいい意味でだが、年齢から連想するよりも達観しているような表情をしていることが多い。
もちろんベッドの中ではそんなものは崩してしまうが、などと不埒なことを考える自分に内心苦笑しながらエリオットは言った。
「気に入ったものは全て買おう。後で屋敷から使いを寄こす」
クレアは一つで十分だというが、メイドがあれもこれもと言うので、結局クレアも弾いたことがあるという楽器二つと、結局納得のいく音が出なかったという異国の楽器の計三つを購入した。
クレアはそれらの手入れや保管方法を店主から聞いているが、異国の物に関しては分からないことが多いらしい。
「お屋敷の蔵書の中に音楽に関する本はありましたから、まずはそちらで調べます」
「なければ、取り寄せればいい」
「はい。ありがとうございます」
そう言って嬉しそうに顔をほころばせたクレアの頬に触れたくなったエリオットは、理性でその衝動を抑え込み、彼女に腕を差し出した。
彼女はエリオットの劣情など知りもせず、彼の腕に手を掛けた。
つづく……




