6話 地下駐車場の声
19時18分。
六本木の夜は、まだ始まったばかりだった。
大通り沿いのビルには明かりが灯り、交差点にはタクシーと人の流れが重なっている。
仕事帰りの会社員。
店へ向かう若者。
スマートフォンを見ながら歩く観光客。
華やかに見える街ほど、裏側には暗い場所がある。
地下駐車場。
搬入口。
非常階段。
防犯カメラの死角。
人が多い街でも、人の目が届かない場所はいくらでもあった。
戸張は、六本木の裏通りにある架空の複合ビルの前で腕時計を見た。
黒いジャケットに、暗い色のパンツ。
いつもの戦闘服ではない。
完全な私服だった。
その隣に、吉田が立っている。
こちらも私服で、薄いコートを羽織っていた。
2人とも非番。
ただの食事の予定だった。
「珍しいですね、副班長が時間通りなんて」
吉田が言った。
戸張は少し眉を上げる。
「俺をなんだと思ってる」
「現場には早いけど、私用には雑な人」
「ひどいな」
「違いますか?」
「……まあ、だいたい合ってる」
吉田は少し笑った。
店はビルの8階にある。
予約は19時30分。
普段なら、ここで普通にエレベーターへ向かうだけだった。
だが、戸張は入口の前で足を止めた。
吉田も同じタイミングで、わずかに視線を動かす。
ビル脇の地下駐車場入口。
そこから、微かに声が聞こえた。
女の声。
いや、声というより、息を押し殺すような短い音だった。
戸張が言う。
「聞こえたか」
「聞こえました」
「ただの揉め事か」
「ただなら、あの声にはならないです」
吉田の表情が変わっていた。
非番の顔ではない。
SERTの交渉担当の顔だった。
戸張は軽く息を吐く。
「飯、また延期か」
「続きは生きて帰ってからですね」
「それ、便利に使いすぎだろ」
そう言いながら、戸張はすでに地下駐車場へのスロープへ足を向けていた。
地下1階。
駐車場は静かだった。
高級車が数台並び、白い照明がコンクリートの床を冷たく照らしている。
奥には搬入口。
右手には非常階段。
監視カメラはある。
だが、柱の陰と車の並びで、死角が多い。
吉田は小さく言った。
「車の陰」
戸張は頷く。
黒いワンボックス車の後ろ。
そこに、若い女性がいた。
スーツ姿。
口元を押さえられ、手首をつかまれている。
相手は男が2人。
ひとりは細身で、帽子を目深にかぶっている。
もうひとりは作業着姿。
近くには台車と工具箱。
ビルの関係者に見せかけているが、動きが不自然だった。
女性は抵抗している。
だが声を出せない。
作業着の男が低く言った。
「騒ぐな。すぐ終わる」
帽子の男が車の後部ドアを開ける。
中には毛布と結束バンド。
拉致だ。
戸張の目が変わった。
前へ出ようとする。
だが、吉田が手で止めた。
「まだ」
「もう十分だろ」
「女性の首元を見てください」
戸張は目を細めた。
細身の男の手。
女性の首の横に、黒い小さなものが当てられている。
スタンガンのようにも見える。
刃物ではないが、危険物だ。
吉田はさらに言った。
「作業着の男、右ポケットが重い。刃物かもしれません」
「2人か」
「見えているのは」
戸張は周囲を見た。
駐車場の奥。
非常階段の扉が、わずかに開いている。
「もう1人いるな」
「たぶん」
戸張はスマートフォンを取り出した。
だが、緊急通報だけで終わる現場ではない。
警察が到着する前に、女性は車へ押し込まれる。
吉田は低く言った。
「私が話します」
「俺は」
「近づきすぎないでください。相手が女性を盾にします」
「分かってる」
「分かっている時の副班長は、だいたいもう動く寸前です」
「よく見てるな」
「仕事なので」
吉田は一歩前へ出た。
足音を隠さない。
わざと、相手に気づかせる歩き方だった。
「すみません」
男たちが振り向く。
女性の目が見開かれた。
助けを求めたい。
だが、声が出ない。
吉田は焦らない。
普通の通行人のような顔で、少し首を傾けた。
「このビルの方ですか? 上の店に行きたいんですけど、入口を間違えたみたいで」
作業着の男が舌打ちした。
「関係ない。上に戻れ」
「すみません、エレベーターが分からなくて」
「戻れって言ってんだろ」
帽子の男が女性の首元に押し当てた手を強める。
女性の顔が歪む。
吉田はそれを見て、声を少しだけ変えた。
柔らかい。
だが、逃げ場を奪う声だった。
「その人、嫌がってますよね」
空気が凍った。
作業着の男の手がポケットへ動く。
吉田はそれを見ている。
見ているが、怯えない。
「あなたたち、今ならまだ間に合います」
「何がだよ」
「このまま車に乗せたら、もう戻れません」
帽子の男が低く言った。
「お前、警察か」
吉田は答えなかった。
答えないことで、相手に考えさせる。
その隙に、戸張は柱の陰から角度を変えていた。
正面ではない。
横でもない。
男たちの視線が吉田へ固定された、その外側。
非常階段の扉がさらに少し開いた。
3人目。
若い男が顔を出す。
スマートフォンを耳に当てている。
遠隔で誰かに指示を受けているのではない。
おそらく、見張り役。
戸張はすぐに距離を詰めなかった。
相手が何を持っているか分からない。
だが、非常階段の男は気づいていない。
吉田は作業着の男へ視線を戻す。
「あなた、右ポケットに何を入れていますか」
男の顔が変わった。
「黙れ」
「刃物なら、出さないでください」
「黙れ!」
「出した瞬間、あなたはただの同行者ではなくなります」
「うるせえ!」
作業着の男がナイフを抜いた。
その瞬間、戸張が動いた。
非常階段側へ。
正面の男ではない。
3人目を先に潰す。
扉から出てきた若い男が、戸張に気づいた時には遅かった。
戸張の左手が男の手首を捕まえ、スマートフォンを落とさせる。
右肩で胸元を押し、壁へ叩きつけない程度に押さえ込む。
音を立てない。
だが、逃げられない。
「静かにしろ」
若い男は声も出せなかった。
同時に、正面では作業着の男が吉田へ踏み込んだ。
ナイフの刃が照明を拾う。
吉田は下がらなかった。
一歩だけ、男の内側へ入る。
刃物を持った相手から逃げる時、距離が中途半端だと切られる。
近づくなら、刃ではなく腕を見る。
吉田は男の手首を外側へ流し、肘を押さえた。
体重を半歩ずらす。
それだけで、男の姿勢が崩れる。
ナイフが床に落ちた。
吉田は男の腕を背中側へ回し、膝を折らせる。
派手ではない。
だが、確実だった。
「動かないでください」
男が呻く。
「何なんだよ、お前……」
「通りすがりです」
帽子の男が女性を盾にして後ずさる。
首元のスタンガンを押し当てたまま、怒鳴った。
「離せ! こいつがどうなってもいいのか!」
戸張は3人目を床に伏せさせながら、帽子の男を見る。
間合いが遠い。
無理に飛び込めば、女性がやられる。
吉田は作業着の男を押さえたまま、帽子の男へ声を向けた。
「その人を離してください」
「近づくな!」
「近づきません」
「だったらそいつも離せ!」
「それはできません」
「ふざけんな!」
帽子の男の呼吸が荒い。
こういう時、怒っている人間は怖い。
だが、本当に危ないのは、怒りより恐怖が勝った瞬間だ。
帽子の男は、もう恐怖に寄っている。
吉田は声を落とした。
「あなたは、この人を傷つけるつもりで来たんじゃない」
「黙れ」
「連れてこいと言われたんですね」
男の目が揺れた。
戸張はそれを見逃さない。
吉田も見逃さない。
「誰に頼まれましたか。元交際相手? 会社の人? 借金の相手?」
「黙れって言ってんだろ!」
「あなたは主犯じゃない」
「違う!」
「違うなら、その人の名前を呼べるはずです」
帽子の男は言葉を詰まらせた。
女性の目が吉田を見ている。
吉田はその目にだけ、少し頷いた。
合図。
声を出せとは言わない。
今は動くな、という合図だった。
その時、地下駐車場のスピーカーが突然鳴った。
「地下1階駐車場にて、設備点検を行います。関係車両の方は一時的にエンジンを停止してください」
戸張の眉がわずかに動いた。
梶原だ。
通報を受け、付近の防犯カメラとビル設備にアクセスしたのだろう。
非番中の戸張が短いメッセージだけ送っていた。
六本木、架空複合ビル地下。拉致疑い。カメラ見ろ。
それだけで、梶原は十分だった。
照明が一瞬だけ強くなる。
帽子の男が反射的に上を見る。
その一瞬。
女性が膝を抜いた。
崩れるように下がる。
帽子の男の手元から、首が外れる。
戸張が動いた。
距離を詰める。
男がスタンガンを向ける。
戸張は腕を払うのではなく、上着を巻き込んで手首ごと押さえた。
電流が布越しに弾けるような音を立てる。
戸張の顔が一瞬だけ歪む。
だが、止まらない。
肩で男の胸元を押し、壁へ追い込む。
吉田が女性を引き寄せる。
帽子の男は戸張に押さえ込まれ、膝から崩れた。
「確保」
戸張が短く言った。
地下駐車場に、数秒だけ静けさが戻る。
その後、遠くから足音が聞こえた。
ビル警備員。
さらに、所轄の警察官。
吉田は女性の手首の結束バンドを外しながら聞いた。
「けがは」
「だ、大丈夫です……あなたたちは……」
「もう警察が来ます。事情はそちらに話してください」
「でも、あなたたちは」
吉田はやわらかく首を振った。
「ただ、通りかかっただけです」
女性は信じていない顔をしていた。
当然だ。
ただ通りかかっただけの男女が、3人組をあっという間に制圧するわけがない。
だが、吉田はそれ以上答えなかった。
戸張も、帽子の男から離れ、手を軽く振る。
少し痺れている。
吉田が気づく。
「手、大丈夫ですか」
「少しビリッときただけだ」
「だから私が話してる間に無理しないでって言ったんです」
「言われてない」
「言わなくても分かってください」
「難しい注文だな」
吉田は呆れたように息を吐いた。
そのタイミングで、所轄の警察官たちが到着した。
「動くな!」
拳銃を構えた警察官が駐車場へ入ってくる。
だが、すでに男たちは床に伏せていた。
女性は救出されている。
戸張と吉田は、柱の陰へ自然に移動した。
騒ぎの中心から外れる。
現場にいた警備員が、慌てて警察官に説明している。
「今、男女の方が……いや、さっきまでそこに……」
警察官が振り返る。
だが、そこに2人はいない。
戸張と吉田は、非常階段を使って上の階へ抜けていた。
8階の店の前。
予約時間は、とっくに過ぎている。
戸張は店の入口を見て言った。
「キャンセルだな」
吉田はスマートフォンを見る。
「そうですね。さすがにこの服で入る気にはなれません」
戸張の袖には、地下駐車場の汚れがついていた。
吉田のコートにも、少しだけ擦れた跡がある。
戸張は肩をすくめた。
「また今度か」
「生きて帰ってから、ですね」
「もう帰ってきてるだろ」
「まだ報告が残ってます」
「非番なのに?」
「非番なのにです」
その時、戸張のスマートフォンが鳴った。
画面には、上原の名前。
戸張は小さく舌打ちした。
「早いな」
吉田が言う。
「梶原さんが見たなら、班長にも行きますよ」
戸張は通話を取った。
「はい、戸張です」
上原の声が短く返る。
「龍一」
「直城、早いな」
「六本木の地下駐車場で、通りすがりの男女が拉致未遂を止めたと聞いた」
「物騒な街だな」
「お前だな」
「証拠は」
「梶原が映像を見た」
戸張は一瞬黙った。
「あいつ、余計なものを見るな」
後ろで吉田が小声で言う。
「送ったのは副班長です」
「それは緊急対応だ」
上原は淡々と続けた。
「吉田も一緒か」
吉田は戸張からスマートフォンを受け取った。
「吉田です」
「けがは」
「ありません。副班長が少し電流を受けました」
「龍一」
スマートフォンの向こうで、上原の声が少し低くなる。
戸張は顔をしかめた。
「大丈夫だって」
吉田はそのまま言う。
「念のため確認させます」
「吉田、頼む」
「はい」
戸張がスマートフォンを奪い返す。
「直城、俺は子どもじゃない」
「子どもより厄介だ」
「ひどいな」
「報告だけ上げろ。あとは所轄に任せる。SERTの名前は出すな」
「分かってる」
「それと」
「何だよ」
「非番中に事件を解決するなとは言わない。だが、消えるなら防犯カメラも考えろ」
戸張は天井を見た。
「梶原に言え」
「お前が言え」
通話が切れた。
吉田が腕を組む。
「怒られましたね」
「怒られてない。注意だ」
「同じです」
「違う」
「では、診てもらいに行きますよ」
「飯は」
「先に手です」
戸張は少しだけ黙り、諦めたように歩き出した。
ビルの1階へ降りると、すでにパトカーの赤色灯が通りに反射していた。
野次馬が集まり始めている。
救出された女性が、警察官に何かを話していた。
「助けてくれた人ですか? 分かりません。男の人と女の人で……すごく落ち着いてて……警察の人かと思ったんですけど、名前も言わずに……」
警察官が周囲を見回す。
だが、戸張と吉田は人混みに紛れていた。
私服の2人を、誰もSERTとは思わない。
そもそも、SERTという名を知る者などほとんどいない。
女性は、まだ震えながら呟いた。
「あの人たち、誰だったんですか」
誰も答えられなかった。
少し離れた場所で、吉田はその声を聞いていた。
戸張も聞こえていたはずだが、何も言わない。
吉田が言う。
「名乗ってもよかったんじゃないですか」
「何て名乗るんだよ」
「通りすがりの警察官、とか」
「非番だ」
「でも警察官です」
戸張は少し考えた。
それから、六本木の通りを見た。
人の流れ。
車のライト。
高いビルの明かり。
「名乗らない方が、楽な時もある」
吉田は横を見る。
戸張の表情は、いつもの軽さに戻っていなかった。
「副班長らしくないですね」
「俺だって、たまには考える」
「明日は雪ですか」
「ひどいな」
吉田は少しだけ笑った。
その時、吉田のスマートフォンにも通知が入った。
梶原からだった。
防犯カメラ見ました。
お二人とも、私服でも動きがSERTすぎます。
続けて、片桐からもメッセージ。
非番で3人制圧は働きすぎです。焼肉案件ですね。
さらに真壁。
けががないなら良かった。戸張副班長の手は確認してもらってください。
最後に水瀬。
電撃を受けたなら、念のため心電図を。自己判断は禁止です。
戸張は吉田の画面を覗き込んで、顔をしかめた。
「何で全員に回ってるんだよ」
吉田は平然と言った。
「班長が共有したんじゃないですか」
「直城……」
そこへ、岡野から短いメッセージが入った。
非番中の行動について、明日報告を。
ただし、人命救助については評価します。
戸張副班長は診察を受けること。
戸張は天を仰いだ。
「室長まで」
吉田は笑いをこらえきれなかった。
「愛されてますね」
「監視されてるんだよ」
「SERTですから」
2人は通りを歩き出した。
店にはもう行けない。
食事の予定は流れた。
少し距離が近づきそうになると、必ず事件が割り込む。
もう何度目か分からない。
けれど、2人はそれを本気で嫌がっているわけではなかった。
地下駐車場では、警察官たちが現場検証を始めている。
救われた女性は、まだ何度も周囲を見回していた。
名前も知らない男女を探すように。
だが、2人はもういない。
ただの通りすがり。
そう言って、姿を消した。
その夜、所轄の報告書には、こう書かれることになる。
通行人の協力により、被害者を保護。
犯人3名を確保。
協力者の氏名は不明。
SERTの名は出ない。
戸張の名も、吉田の名も出ない。
それでいい。
影は、影のままで人を救うことがある。
撃つ前に読む。
突入する前に救う。
それでも止められないなら、制圧する。
たとえ非番でも。
たとえ私服でも。
体に染みついた現場の感覚は、消えない。
六本木の夜の中へ、戸張と吉田は何事もなかったように歩いていった。




