5話 首都高の赤い灯
18時27分。
首都高3号渋谷線は、夕方の渋滞に飲まれていた。
渋谷を抜け、六本木方面へ向かう車列は、赤いブレーキランプを細く連ねている。
空はまだ少し明るい。
だが、高架の下にはすでに夜の色が落ち始めていた。
その流れの中で、1台の白いワゴン車が不自然に揺れた。
急加速。
急減速。
車線変更。
クラクション。
周囲の車が慌てて距離を取る。
最初は、ただの危険運転だと思われた。
だが、通報はすぐに変わった。
ワゴン車の後部座席から、女性が窓に手のひらを押しつけていた。
その手首には、結束バンドのようなものが見えた。
そして運転席の男は、スマートフォンで誰かと通話しながら叫んでいた。
「近づくな! 全部巻き込んでやる!」
ワゴン車には、架空の人材派遣会社の社名が入っていた。
乗っていたのは、社員2名と、面接帰りの求職者4名。
犯人は、その会社の元契約社員。
名前は、三笠亮二。
解雇を恨み、会社の面接会場からワゴン車を奪って逃走。
車内には人質6名。
さらに、三笠はこう言っていた。
「この車にはガソリンを積んである。ぶつければ終わりだ」
爆発物か。
ただの脅しか。
分からない。
ただ、ここは首都高だった。
止め方を間違えれば、巻き込まれる車は1台では済まない。
18時35分。
SERTの黒い車両は、赤色灯を消したまま都心を走っていた。
今回は黒い戦闘服ではない。
上原と戸張は、上に紺色の警察ジャンパーを羽織っている。
吉田も防弾ベストの上に目立たない上着を着ていた。
首都高上では、黒装備の部隊が派手に見えれば、それだけで周囲が混乱する。
SERTは、見えない方がいい現場もある。
後部座席で、梶原がタブレットに交通情報を映していた。
「対象車両は、首都高3号線から都心環状線方面へ向かっています。現在、渋谷付近を通過。速度は一定しません。人質6名。犯人は三笠亮二、38歳。過去に暴力事件での逮捕歴はありません」
戸張が助手席で言う。
「暴力事件なしで、いきなり首都高ジャックか」
吉田が資料に目を落とした。
「積み重なったタイプかもしれません。解雇、借金、家族との断絶。本人のSNSには、昨日から自暴自棄な投稿があります」
上原は前方を見たまま聞いた。
「要求は」
梶原が答える。
「会社社長との通話。それと報道。あと、警察車両が近づいたら、人質を落とすと」
車内が一瞬だけ静かになった。
首都高で人質を落とす。
脅しだとしても、無視できない。
水瀬が別車両から無線で入る。
「対象車両に積載されたガソリンの有無は未確認です。ただ、会社の備品に携行缶があったという情報があります」
片桐も続いた。
「爆発物ではなくても、燃料があれば十分危険です。追突、横転、火花で火災になる可能性があります」
神崎の声が入る。
「交通の流れを急に止めれば、後続で多重事故が起きます。犯人の車だけを止めるより、周囲の車をどう剥がすかが先です」
上原は首都高の路線図を見た。
渋谷。
谷町ジャンクション。
都心環状線。
分岐が多い。
逃げ道も多い。
だが、逆に言えば、誘導できる場所もある。
「避難させるな。流れを細らせる」
戸張が横目で見る。
「また人の流れか」
「今回は車の流れだ」
梶原が画面を切り替えた。
「この先、谷町ジャンクションを過ぎると、都心環状線に入れます。そこで周回されると厄介です」
神崎が言う。
「一般車を自然に減らすなら、手前の入口閉鎖と情報板の速度規制。事故表示は避けた方がいい。事故と出すと、逆にスマホ撮影目的で速度が落ちる車が出る」
上原が頷く。
「神崎、交通管制と連携。事故とは出すな。工事車両確認、速度規制、車線規制で流れを絞る」
「了解」
「梶原、対象車両のスマホ回線を拾え」
「通話中です。相手は会社の代表番号にかけていますが、繋がっていません」
「吉田、繋げるか」
「できます。ただし、こちらが警察だと分かれば切られるかもしれません」
「会社側の担当を装うな。嘘は崩れる」
吉田は頷いた。
「では、最初から警察でいきます」
戸張が言う。
「首都高の上で交渉か」
吉田はヘッドセットをつけた。
「相手がどこにいても、話せるなら同じです」
上原は短く言った。
「吉田、三笠に繋げ」
「はい」
梶原が回線を中継する。
数秒後、荒い呼吸とエンジン音が聞こえた。
「誰だ!」
吉田の声は、静かだった。
「警察です。吉田といいます。あなたと話すために繋ぎました」
「警察と話すことなんかねえ!」
「なら、切っても構いません。ただ、切ればあなたの声は誰にも届きません」
「……」
「会社に聞かせたいことがあるんですよね」
三笠の呼吸が少し変わった。
「俺を捨てたんだよ、あいつらは」
「そう思っているんですね」
「思ってるんじゃない。捨てたんだ!」
「分かりました。では、その話を聞きます。でも、その前に確認させてください。車内にけが人はいますか」
「うるさい」
「けが人が出れば、あなたの話は事件の話に埋もれます」
「……」
「あなたの話を聞かせたいなら、人質を生かしておく必要があります」
戸張が小さく言う。
「相変わらず刺すな」
上原は黙って前を見ていた。
対象車両の位置がモニターに表示される。
白いワゴン車は、渋谷線から都心環状線へ向かっている。
その後方に、覆面車両。
だが近づきすぎてはいない。
SERTの車両は、別ルートから先回りしていた。
梶原が言った。
「班長、対象車両の後部カメラ映像が一瞬取れました。車内に赤い携行缶らしきものがあります」
片桐が無線で反応する。
「本物なら厄介です。撃って止めるのは論外ですね」
上原は地図を見た。
「龍一」
「分かってる。撃たない」
「止める場所を作る」
「どこで」
上原は画面を指した。
「都心環状線に入れさせない。谷町手前で左を塞ぎ、右へ流す。一般車を前から消して、対象車両に“走れる道”を1本だけ見せる」
神崎がすぐに理解した。
「逃げ道だと思わせて、誘導する」
「そうだ」
梶原が画面を操作する。
「その先に緊急退避帯があります。ただ、短いです」
戸張が言う。
「そこに入れさせるのか」
「入れさせるんじゃない。自分で入ったと思わせる」
吉田の声が回線に戻る。
「三笠さん、今のまま走ると、あなたの車は囲まれます」
「囲んでんのはそっちだろ!」
「違います。周囲の車です。あなたのせいで、他の車が予測できない動きをしています。このままだと、人質より先に別の誰かが事故に巻き込まれます」
「知るか!」
「知る必要があります。あなたがやったことにされるからです」
「俺は悪くない!」
「今ならまだ、あなたが全部を壊した人にはなっていません」
沈黙。
エンジン音。
クラクション。
三笠の息が荒くなる。
「じゃあどうしろって言うんだよ」
吉田は上原を見た。
上原は頷く。
「速度を落としてください」
「止まったら捕まるだろ!」
「止まれとは言っていません。速度を落として、右車線へ。前を空けます」
「嘘だ」
「嘘なら、あなたはもう後ろから押さえられています」
三笠は答えない。
だが、対象車両の速度が少し落ちた。
梶原が言う。
「速度低下。右車線へ移動」
神崎が交通管制へ指示を出す。
「右を空けてください。一般車をゆっくり左へ。急がせない。ブレーキの連鎖を作らないでください」
首都高の赤い灯が、少しずつ動きを変えていく。
一般車は、何が起きているか知らない。
ただ、表示板と警察車両の誘導に従って速度を落とし、車線を変えていく。
誰も叫ばない。
誰も走らない。
ただ、白いワゴン車の周囲だけが、少しずつ空いていく。
上原は前方を見た。
「龍一、準備」
戸張は装備を確認した。
拳銃は腰にある。
だが、使うつもりはない。
代わりに、車両停止用の投射ネットと、強化ガラス用の破砕具を確認する。
銃で止める現場ではない。
車を止め、人を救う現場だった。
真壁が別車両から言う。
「退避帯に入ったら、運転席側は戸張副班長。後部ドアは自分が行きます」
上原が返す。
「真壁、人質優先。燃料缶に注意」
「了解」
水瀬が続く。
「ガソリンが漏れている場合、静電気にも注意してください。車内で火花を出さないで」
片桐が言う。
「ドア開放時に缶が倒れる可能性があります。乱暴に開けないでください」
戸張が苦笑する。
「注文が多い現場だな」
上原が言う。
「だから呼ばれてる」
「知ってる」
対象車両が谷町手前の分岐に近づく。
左へ行けば都心環状線。
右へ誘導すれば、緊急退避帯のある区間。
神崎の交通誘導で、左側はゆっくり詰まって見えるようになっていた。
右側だけが空いている。
逃げ道に見える。
三笠はその道を選んだ。
梶原が言う。
「対象、右へ」
上原は短く言った。
「よし」
吉田は回線越しに言う。
「三笠さん、そのまま速度を落として。右側に安全に停められる場所があります」
「停めねえ!」
「停めなくていい。逃げるなら、少しでも人がいない場所を選んでください」
戸張が上原を見る。
上原は無線で言った。
「退避帯手前、前方車両を減速。後方は距離を取れ。追い込むな。押すな」
白いワゴン車は、退避帯の手前でふらついた。
運転席の三笠が迷っている。
その瞬間、後部座席の女性がまた窓に手を押しつけた。
三笠が叫ぶ。
「動くな!」
車が大きく揺れる。
戸張が低く言う。
「まずい」
上原は一瞬で判断した。
「前に壁を作るな。横を開けろ」
神崎が驚く。
「班長、横を開けたら逃げます」
「逃げると思わせる」
白いワゴン車の右側が空いた。
三笠は本能的に右へ寄る。
そこが退避帯だった。
車体が退避帯へ入る。
完全には停まらない。
だが速度は落ちた。
「今だ」
戸張が動いた。
SERTの車両が並走し、退避帯の入口を斜めに塞ぐ。
後方から真壁の車両。
前方は交通誘導車両。
白いワゴン車は、逃げ道があると思って自分から袋に入った。
三笠がようやく気づく。
「くそっ!」
車が急停止する。
その瞬間、戸張はドアを開けて飛び出した。
真壁も後部ドア側へ走る。
吉田は回線越しに叫ばない。
むしろ声を落とした。
「三笠さん、手を見せてください。まだ誰も撃っていません」
「近づくな!」
「撃っていません。あなたも火をつけていません。まだ戻れます」
戸張は運転席側に近づく。
三笠の右手にライター。
左手はハンドル。
車内の足元に赤い携行缶。
戸張は銃を抜かない。
抜けば、三笠の意識は火に向かう。
戸張は窓越しに目を合わせた。
「三笠」
「来るな!」
「来てほしくないなら、火から手を離せ」
「俺は終わりなんだよ!」
「終わるなら1人で終われ。後ろの人間を連れて行くな」
吉田の声が回線で重なる。
「三笠さん。あなたの話は、まだ終わっていません」
「うるさい!」
「終わらせたいなら、火をつければいい。でも、それをした瞬間、あなたの話は誰も聞かなくなる」
三笠の手が震える。
ライターの金属部分が、窓の向こうで光る。
真壁は後部ドアの前にいた。
ドアを開ければ、携行缶が倒れるかもしれない。
水瀬が叫ぶ。
「後部ドア、ゆっくり。燃料臭あり」
片桐が駆け寄り、下を覗く。
「漏れてる。少量ですが、床に回ってます」
戸張が奥歯を噛む。
「直城、時間がない」
上原は車内を見た。
三笠。
ライター。
携行缶。
人質。
割れた窓。
後部座席の女性の手。
そして、助手席に置かれた会社の資料封筒。
上原の目が止まった。
「吉田、会社社長ではなく、三笠の母親は繋がるか」
梶原がすぐに検索する。
「母親ですか?」
「家族情報」
「あります。千葉県在住。番号、出ます」
吉田が即座に理解した。
「母親を出すんですか」
「いや」
上原は首を振った。
「出さない。名前だけ使う」
吉田の目が少し変わる。
「分かりました」
吉田は回線へ戻った。
「三笠さん。お母さんの名前は、久江さんですね」
三笠の顔が固まった。
「なんで……」
「あなたは昨日の夜、久江さんに電話しています。出なかった」
「やめろ」
「留守電に、何も言わずに切っている」
「やめろ!」
「本当に全部終わらせるつもりなら、最後に声を聞こうとはしない」
三笠のライターを持つ手が、わずかに下がった。
上原が低く言う。
「龍一」
戸張は動いた。
運転席の窓に破砕具を当てる。
火花を出さないタイプの工具。
一撃。
ガラスに亀裂。
二撃目で窓が崩れる。
三笠が反射的にライターを上げる。
その手首を、戸張が掴んだ。
同時に吉田が車の反対側から助手席ドアを開ける。
彼女は交渉担当だ。
だが、犯人に最も近づく仕事をしてきた人間でもある。
ただ話すだけの人間ではない。
三笠が戸張を振り払おうとした瞬間、吉田は助手席側から腕を伸ばし、三笠の肘を内側へ折った。
関節の角度。
体重のかけ方。
無駄のない制圧だった。
三笠の手からライターが落ちる。
戸張がそれを足で踏み、遠ざける。
「確保!」
真壁が後部ドアをゆっくり開ける。
片桐が携行缶を押さえる。
水瀬が換気を指示する。
「全員、ゆっくり外へ。走らないで。床に燃料があります」
人質たちは震えながら外へ出た。
女性が泣き崩れそうになる。
吉田が支える。
「大丈夫です。もう外です」
女性は吉田の腕を掴みながら言った。
「あなたたち、何の部隊なんですか」
吉田は少しだけ黙った。
それから、穏やかに答えた。
「警察です」
「名前は……」
「覚えなくて大丈夫です」
女性は何か言おうとした。
だが、その時には吉田はもう次の人質の確認へ移っていた。
上原は三笠の前に立った。
三笠は地面に座り込んでいる。
顔は青ざめ、呼吸は荒い。
「俺は……悪くない。あいつらが……」
上原は見下ろしたまま言った。
「悪くない部分は、これから聞く」
三笠が顔を上げる。
上原の声は変わらない。
「だが、後ろに乗っていた6人を巻き込んだ分は消えない」
三笠は何も言えなかった。
戸張が吉田の方を見る。
「助かった。あの腕の取り方、相変わらず怖いな」
吉田は淡々と言った。
「副班長が窓を割るのを待っていただけです」
「俺の見せ場、半分持っていっただろ」
「必要だったので」
「そこは否定しろよ」
吉田は少しだけ笑った。
首都高上では、交通誘導が続いている。
一般車は徐々に流され、現場の周囲だけが切り離されていた。
報道ヘリが遠くに見える。
まだこちらを捉えてはいない。
神崎が無線で言う。
「報道が近づいています。撤収は早めに」
岡野からの通話が入ったのは、その直後だった。
上原は端末を耳に当てる。
「上原です」
「状況は」
岡野の声は落ち着いていた。
「犯人確保。人質6名救出。燃料漏れあり、片桐と水瀬が対応中。負傷者は軽微です」
「SERTの露出は」
「最小限に抑えます」
「首都高上は隠れにくいわ」
「分かっています」
「報道には、警視庁と関係機関による車両停止措置、と出します。SERTの名前は出さない」
「了解」
短い沈黙。
岡野が続ける。
「上原」
「はい」
「よく止めたわね。走る車は、建物より厄介よ」
「龍一と吉田が止めました」
「あなたはまた、見ていただけ?」
上原はわずかに目を伏せた。
「今回は、少し誘導しました」
「少し、ね」
岡野の声に、わずかな笑みが混じった気がした。
「帰投後、報告を」
「了解しました、岡野室長」
通話が切れる。
戸張が近づいてくる。
「室長、何て?」
「報告しろと」
「休めは?」
「言われなかった」
「珍しいな」
「首都高だからな。早く帰れという意味だろう」
戸張は笑った。
その時、若い高速隊員がSERTの車両を見ていた。
黒い車両。
黒い装備。
胸元の小さな白い文字。
SERT。
高速隊員は隣の上司に聞く。
「あの人たち、警視庁ですか」
上司は短く答えた。
「違う」
「じゃあ、どこの……」
「忘れろ」
「え?」
「今見たものは、報告書に書くな。書く必要もない」
若い隊員は黙った。
だが、目はSERTの背中を追っていた。
その部隊が現れてから、首都高上の人質事件は、まるで何事もなかったように静かに収束していた。
派手な銃撃もない。
爆発もない。
だが、誰かが確実に、最悪の未来を手前で止めた。
SERTの車両は、報道ヘリのカメラが近づく前に動き出す。
赤色灯はつけない。
サイレンも鳴らさない。
車列の隙間を抜け、首都高の赤い灯の中へ消えていく。
後部座席で、吉田はようやく息を吐いた。
戸張が缶コーヒーを差し出す。
「今回は高いやつだ」
吉田は受け取って、缶を見た。
「本当ですね」
「評価は」
「少しだけ」
「少しかよ」
「さっきの窓割りも、少しだけ」
「俺、けっこう頑張ったぞ」
吉田は缶を開けた。
「知ってます」
戸張は一瞬黙った。
珍しく返す言葉が出なかった。
上原は前を向いたまま、聞こえないふりをした。
梶原が端末を見ながら言う。
「班長、今回の事件はノイズ関連ではなさそうです。三笠のスマホにも、匿名指示アプリの痕跡はありません」
「そうか」
「ただの単独犯です」
上原は窓の外を見た。
ただの単独犯。
そう言える事件でも、人質は6人いた。
首都高上で燃料に火がつけば、被害は何十人に広がっていた。
大きな組織がいなくても、現場は十分に壊れる。
「ただの事件なんてない」
上原が言うと、車内は静かになった。
戸張が頷く。
「そうだな」
吉田は缶コーヒーを持ったまま、窓の外を見た。
首都高の赤い灯が、長く続いている。
その光の中を、何も知らない車が流れていく。
数分前、そこにどんな危険があったのか。
誰がそれを止めたのか。
たぶん、ほとんどの人は知らない。
それでいい。
知られないまま守る。
SERTは、そのために現場へ入る。
撃つ前に読む。
突入する前に救う。
それでも止められないなら、制圧する。
白いワゴン車は止まった。
首都高は、少しずついつもの流れを取り戻していく。
そして黒い車両は、その流れの中から静かに姿を消した。




