4話 山中の発信源
5時46分。
夜明け前の警察庁舎は、まだ静かだった。
都心の空は白み始めている。
けれど、SERTの執務室だけは、夜が終わっていなかった。
壁面モニターには、複数の通信ログが並んでいる。
駅で保護された相馬英明の鞄から見つかった記録。
証拠品強奪事件で使われた匿名通信アプリ。
そして、駅構内の不審物を遠隔起動させた回線。
それらの端に、同じノイズのような痕跡が残っていた。
梶原伊織は、机に置いた端末を3台並べ、目を赤くしながら画面を追っていた。
背中を丸め、片手で缶コーヒーを持っている。
飲むためではない。
眠気に抗うために握っているだけだった。
「……出た」
梶原の声に、室内の空気が変わる。
上原直城は、資料から顔を上げた。
「場所は」
「奥多摩方面です。青梅街道から外れた山中。10年前に閉鎖された旧通信中継施設付近から、短時間だけ発信が出ています」
戸張龍一が椅子の背にもたれたまま、眉を寄せる。
「奥多摩?」
「はい。発信時間は4時58分から5時01分まで。3分弱です。通信名は匿名化されていますが、前回のノイズ系ログと一致する部分があります」
吉田未華が腕を組んだ。
「わざと残した可能性は」
「あります」
梶原は即答した。
「むしろ、わざと残したと考えた方が自然です。隠すなら、こんな半端な痕跡は残さない」
片桐蓮司があくびを噛み殺す。
「つまり、また餌か」
「餌か、警告か、挑発か」
水瀬怜奈はモニターを見つめたまま言った。
「山中の旧通信施設なら、発電設備、蓄電池、非常用燃料が残っている可能性があります。火災や化学物質の保管があれば、周囲への影響も読みづらい」
真壁豪が地図を見て、低く言う。
「この辺り、車は途中までしか入れません。林道が崩れている場所が多い。雨が降っていれば、斜面も緩い」
上原はモニター上の地形図を見た。
奥多摩の山間部。
青梅街道から外れ、細い林道へ入り、さらに山道を登った先。
旧中継施設の名は、東雲中継所跡。
もちろん、実在する施設名ではない。
民間管理へ移された後、使われずに放置されている架空の施設だった。
その周辺で、民間の点検作業員2名が行方不明になっている。
現地の駐在所からは、不審者情報も入っていた。
夜明け前、山道で黒い服の男たちを見た。
それだけなら、猟師か登山者かもしれない。
だが、通信ログ、行方不明者、ノイズ。
偶然が3つ重なれば、もう偶然ではない。
上原は立ち上がった。
「出る」
戸張もすぐに立つ。
「現地までは」
梶原が答える。
「首都高から中央道、八王子方面を抜けて青梅街道へ。道路状況によりますが、車で近くまでは行けます。ただし、最後は徒歩です」
真壁が装備リストを確認する。
「ロープ、ハーネス、担架、滑落対応装備を積みます。山の中で夜明け直後は、足元が一番悪い」
片桐が工具ケースを持ち上げる。
「旧施設なら、電源系の罠くらいはありそうですね」
水瀬は防護バッグを閉じた。
「煙、薬剤、バッテリー漏液。山中でも見えない危険はあります」
吉田が上原を見る。
「人質がいるなら、交渉の余地はありますか」
「ある。ただし、相手がノイズなら、実行犯が何を知らされているかが問題だ」
戸張が小さく笑う。
「また使い捨てか」
上原は答えなかった。
その沈黙が答えだった。
6時12分。
SERTの黒い車両は、警察庁舎の地下駐車場を出た。
正面玄関ではない。
報道の目につく場所でもない。
SERTは、いつも影から出て、影に戻る。
首都高へ入る頃、朝の東京が動き始めていた。
霞が関を抜け、外苑方面の高架を走る。
街はまだ眠たそうな色をしている。
だが、SERTの車内に緩い空気はなかった。
梶原が後部席で端末を開き、車内のモニターに地形図を映す。
「現場は奥多摩町の山間部。旧東雲中継所跡。最寄りの林道入口から施設まで約1.8km。ただし、地図上の道が今も使える保証はありません」
真壁が画面を指す。
「ここに沢があります。雨の後なら水量が増えている。谷沿いは危険です」
水瀬が続けた。
「風向きは北西。もし煙や刺激性物質を使われた場合、谷に沿って流れる可能性があります」
片桐が言う。
「中継施設には蓄電池室があるはずです。古いバッテリーが残っていれば、漏液やガスもあり得る。爆発物じゃなくても、火花を出すのは避けたいですね」
戸張は窓の外を見たまま言う。
「山の中で銃撃戦は勘弁してほしいな」
上原が返す。
「勘弁してくれる相手なら、俺たちは呼ばれてない」
戸張は少し笑った。
「そうだったな」
吉田は相馬英明の供述メモを見ていた。
「相馬さんは、ノイズについて“人を動かして、事件だけを残す”と言っていました。今回も、現地にいる人間が本当の指示役とは限りません」
梶原が頷く。
「通信の出し方もそうです。旧中継所から出たように見せていますが、発信元が本当に施設内とは限らない」
上原は地形図を拡大した。
旧中継所。
林道。
沢。
谷。
尾根。
作業道。
そして、施設から少し離れた場所にある古い搬出ルート。
「真壁」
「はい」
「この谷沿い、車は入れるか」
「昔の作業道なら軽トラ程度は入れたかもしれません。ただ、今は荒れているはずです。徒歩なら通れます」
「人質を連れて逃げるなら」
「施設より、谷沿いの作業道を使う方が隠れやすいです。ヘリからも見えにくい」
上原はしばらく画面を見つめた。
車内の誰も口を挟まない。
上原が黙っている時は、現場を組み立てている時だと全員が知っている。
やがて、上原は言った。
「発信源には行くな」
戸張が振り返った。
「直城、そこが本命じゃないのか」
「本命に見えるように置かれている」
「じゃあ何を見る」
上原は地図の谷を指した。
「地形だ」
梶原が眉を上げる。
「通信じゃなくて?」
「通信は見せられている。地形は嘘をつかない」
真壁の目が変わった。
上原は続ける。
「人質を取っているなら、逃げ道がいる。山の中で逃げ道になるのは、施設じゃない。谷だ」
戸張が小さく息を吐く。
「通信を追うな。地形を読め、か」
「そうだ」
梶原は少し不満そうに画面を見た。
「通信担当としては、なかなか複雑な指示ですね」
「お前の通信追跡があるから、地形を読める」
「そういう言い方、またずるいです」
「事実だ」
車内にわずかな笑いが起きた。
だが、すぐに消えた。
中央道から圏央道方面へ抜け、青梅方面へ入る頃には、空は完全に明るくなっていた。
山が近づく。
街の音が遠くなる。
道路沿いの家が減り、木々の濃さが増していく。
青梅街道を奥多摩方面へ進むと、車窓の外に多摩川の流れが見えた。
都心の事件とは違う。
ここでは、赤色灯よりも水の音が強い。
サイレンよりも鳥の声が遠く聞こえる。
だが、危険は静かな場所ほど隠れやすい。
7時21分。
SERTは、旧中継所へ続く林道入口に到着した。
現地には、所轄の警察官と山岳救助隊が待機していた。
若い巡査が黒い車両を見て固まる。
SERTの隊員たちが降りる。
黒い戦闘服。
山岳装備。
通信機材。
防護バッグ。
その組み合わせは、普通の警察部隊には見えなかった。
巡査が隣の上司に小声で聞く。
「あの人たちは……」
上司の警部補は、巡査を見ずに言った。
「聞くな」
「でも」
「忘れろ。山の中で見たものは、山に置いて帰れ」
巡査は黙った。
その横を、上原たちは通り過ぎた。
現地指揮を取る警部が、上原に歩み寄る。
「SERTの上原班長ですね」
その声も低い。
周囲に聞かせないようにしていた。
「状況は」
「行方不明は民間管理会社の作業員2名。昨日夕方、旧中継施設の点検に入り、そのまま戻っていません。夜間に捜索を開始しましたが、足元が悪く中断。今朝、施設方面で煙のようなものを見たという通報が入りました」
「銃声は」
「未確認です。ただ、近隣住民が夜中に破裂音を聞いたと」
片桐が小さく言う。
「破裂音、ね」
水瀬が風向きを確認する。
「煙の種類は不明です」
梶原が端末を開く。
「施設周辺から微弱な電波が出ています。今も断続的です」
戸張が上原を見る。
「直城、どう分ける」
上原は即座に指示した。
「龍一、施設方面は見せる。所轄と山岳救助隊に同行してもらい、正面から確認する。ただし、奥までは入るな」
「囮に乗るふりだな」
「そうだ」
「了解」
「真壁、俺と谷沿いへ入る。吉田、水瀬、梶原も来い。片桐は龍一と施設側。発火装置、電源系を見ろ」
片桐が工具ケースを肩にかけた。
「また面倒な方ですね」
「お前向きだ」
「褒められてる気がしません」
「褒めてる」
真壁はロープを確認しながら、谷へ続く古い作業道を見た。
「班長、この道は滑ります。足元、気をつけてください」
「分かってる奴が先に行け」
「了解」
真壁が先頭に立った。
大柄な背中が山道へ入る。
上原、吉田、水瀬、梶原が続いた。
梶原は普段、車内や後方で端末を扱うことが多い。
山道を歩く姿は、少しぎこちなかった。
戸張がそれを見て言う。
「梶原、転ぶなよ」
「副班長、そういうフラグ立てないでください」
吉田が軽く振り向く。
「転んだら、ちゃんと助けます」
「交渉担当に助けられるの、ちょっと嫌ですね」
「じゃあ転ばないで」
緊張の中に、ほんの少しだけいつもの空気が混じった。
山道は湿っていた。
昨夜の雨がまだ土に残っている。
木々の間から差し込む朝の光は弱く、谷底には薄い霧が漂っていた。
遠くで水の流れる音がする。
梶原の端末は、何度も電波を失った。
「山、嫌いになりそうです」
梶原が呟く。
真壁が前から言う。
「山は悪くない。電波が悪いだけだ」
「私にはほぼ同じです」
水瀬は足元の植物を避けながら、空気の匂いを確かめていた。
「焦げた匂いがします」
上原が足を止めた。
「煙か」
「微かに。木が燃えた匂いではありません。樹脂か、古い電気系統の焼ける匂い」
梶原が端末を見る。
「電波、また出ました。施設方向です」
上原は谷の奥を見た。
水の音。
焦げた匂い。
そして、人の気配が薄い。
真壁がしゃがみ込み、地面を見る。
「足跡があります。2人以上。重いものを運んだ跡もある」
「人質か」
「たぶん。片方は足を引きずっている」
吉田の表情が変わった。
「作業員が負傷しているかもしれません」
上原は頷く。
「急ぐ。ただし走るな。滑れば終わりだ」
その頃、戸張たちは旧東雲中継所跡の正面に近づいていた。
古いフェンス。
錆びた門。
コンクリート造りの低い建物。
その屋上には、古いアンテナが立っていた。
施設の窓から、細い煙が漏れている。
片桐が門の手前でしゃがみ込む。
「門にワイヤー」
戸張が足を止める。
「爆発物か」
「たぶん違います。開けると音が鳴るか、発煙筒が作動する仕掛けですね」
「歓迎のベルか」
「最悪な趣味です」
片桐は工具を取り出し、ワイヤーを外す。
その間、戸張は施設の窓を見ていた。
短機関銃を構えている。
短く、屋内でも扱いやすい銃。
だが、彼は銃口を無駄に動かさない。
撃つためではなく、撃たなければならない瞬間を最後まで遠ざけるために構えていた。
片桐が言う。
「解除」
戸張は門を開ける。
きしむ音が山に響く。
その瞬間、施設の奥で何かが動いた。
「見えた」
戸張が低く言う。
「人影1。黒服。窓の奥」
片桐は施設の壁に手を当てた。
「中で発電機が回ってます。旧施設なのに電源が生きてる」
「つまり、誰かが動かした」
「はい。しかも素人じゃない」
戸張は無線を入れる。
「直城、施設側に人影。発電機が動いてる」
谷沿いを進む上原に、戸張の声が届く。
「入るな。見せるだけでいい」
「了解。……と言いたいところだが、向こうが撃ってきたら?」
「撃たせるな」
「無茶言うな」
「龍一ならできる」
戸張は小さく笑った。
「そういうのは梶原に言え」
「お前にも効くだろ」
「効くから腹立つんだよ」
通信が切れる。
谷沿いの道は、さらに狭くなった。
右側は斜面。
左側は谷。
足を滑らせれば、数メートル下の沢へ落ちる。
真壁が手を上げた。
「止まってください」
全員が止まる。
木の枝に、布が引っかかっていた。
作業服の一部。
その下の斜面に、滑った跡がある。
真壁は谷底を覗き込んだ。
「いました」
上原も近づく。
谷の途中、斜面に張り出した木の根元に、作業服姿の男性が倒れていた。
意識はあるようだが、動けない。
足元の土は崩れかけている。
少し動けば、さらに下へ落ちる。
真壁がロープを下ろす準備を始める。
吉田が声をかけた。
「聞こえますか。警察です。動かないでください」
男性が顔を上げる。
「た、助けて……もう1人が……連れていかれた」
上原が聞く。
「誰に」
「黒い服の男たち……中継所からじゃない。谷の奥へ……」
上原は真壁を見る。
「救出できるか」
「できます。ただし、斜面が脆い。ロープ2本必要です」
上原は周囲を見た。
大きな木がある。
だが、根元の土が柔らかい。
真壁も同じ場所を見ていた。
「木に支点を取ると危ないですね」
上原は岩を指した。
「支点は木じゃなく岩に取れ。木は根が浅い」
真壁が少しだけ笑う。
「班長、山も分かるんですか」
「分かる奴を信じてるだけだ。行け、真壁」
「了解」
真壁はロープを岩に固定し、ハーネスを確認する。
重い体が、迷いなく斜面へ出た。
滑る土。
崩れる小石。
それでも真壁の動きは落ち着いていた。
危険だから行く。
だが、無茶はしない。
それが真壁豪という男だった。
梶原が端末を片手に谷奥を見た。
「班長、微弱な通信が移動しています。施設じゃない。谷の奥です」
上原の目が細くなる。
「やはりな」
水瀬が風下を見た。
「煙も谷の奥から来ています。施設の煙とは別です」
吉田が言う。
「もう1人の作業員が、そちらに」
上原は無線を入れた。
「龍一、施設は囮だ。谷の奥へ移動する」
戸張の声が返る。
「了解。こっちはどうする」
「片桐に火元を潰させろ。人影は追うな。逃げるなら逃がせ」
「逃がすのか」
「追跡は梶原が見る。お前たちは爆発と火災を止めろ」
「了解」
施設側では、片桐が発電機室に入っていた。
床には発煙筒。
配線。
タイマー。
そして、古い蓄電池の近くに置かれた発火装置。
片桐は眉を寄せる。
「悪趣味だな」
戸張が入口から聞く。
「爆発するか」
「爆発というより火災狙いです。蓄電池に火を入れて、煙と有毒ガスで施設に人を寄せないようにするつもりでしょうね」
「止められるか」
「止めます。止めないと、山火事のおまけ付きです」
片桐は工具を取り出す。
銃ではない。
だが今この場で一番強い武器は、片桐の工具と冷静さだった。
谷沿いでは、真壁が1人目の作業員を引き上げていた。
男性の足は折れている可能性があった。
だが、命に別状はない。
吉田がすぐに声をかける。
「もう1人の名前は」
「高田……高田です。あいつ、通信設備の点検中に、急に男たちが来て……」
「男たちは何人」
「3人……いや、4人。1人だけ、指示してる感じのやつがいた」
「どこへ」
「谷の奥の作業道……車があるって……」
上原は頷いた。
「真壁、救助隊へ引き渡せ。すぐ戻れ」
「了解」
梶原が焦った声を出す。
「班長、通信が動きました。谷の奥から南へ。作業道を使って移動しています」
「距離は」
「約600メートル先。車両がいるかもしれません」
戸張から無線。
「直城、施設側の発火装置は片桐が処理中。人影1は裏から逃げた。追うか」
「追うな。谷へ合流」
「了解」
上原は全員を見る。
「ここから先、相手は人質を連れている。発砲は最後だ。山では銃声の方向が読みにくい。相手も焦っている」
吉田が頷く。
「投降の余地はあります」
「作れ」
上原たちは谷奥へ進んだ。
山道はさらに荒れていた。
ところどころ崩れ、草が伸びている。
その先に、古い作業道が見えた。
そして、声。
「早く歩け!」
男の怒鳴り声。
次に、作業員らしき男の声。
「無理だ、足が……」
上原は手で全員を止めた。
木の陰から先を見る。
黒い服の男が3人。
そのうち1人は拳銃らしきものを持っている。
もう1人は高田という作業員を引きずるように歩かせている。
奥には古い軽ワゴン。
ナンバーは泥で隠されている。
梶原が小声で言う。
「通信端末は車内です」
上原は配置を見た。
正面から行けば、人質を盾にされる。
撃てない。
山道は狭い。
逃げ道は1本。
だが、谷側に下りる細い獣道があった。
上原は真壁を見た。
「谷側へ回れるか」
「回れます。ただし、かなり危険です」
「何分」
「3分」
「2分で行け」
「了解」
真壁はロープを手に、斜面へ消えた。
戸張が追いついてくる。
息も乱れていない。
「直城、前の2人は俺が止める」
「まだだ」
「人質が限界だぞ」
「だから、撃たずに止める」
上原は吉田を見た。
「吉田、声を出せ。ただし説得じゃない」
「何を」
「指示役を疑わせろ」
吉田は一瞬で理解した。
そして、木の陰から声を出した。
「その車には乗らない方がいい」
男たちが一斉に振り向く。
「誰だ!」
吉田は姿を完全には出さない。
「警察です。あなたたちは捨てられています」
「黙れ!」
「車に乗ったら終わりです。端末も、発信機も、証拠も、全部その車に積まれている」
拳銃を持つ男の目が揺れた。
吉田は続ける。
「あなたたちは逃げるためにここへ来たんじゃない。追跡させるためにここへ置かれた」
「嘘だ!」
「なら、指示役に確認してください。今、繋がっていますよね」
男が車を見る。
ほんの一瞬。
人質から意識が外れた。
その一瞬で、戸張が動いた。
木の陰から一気に距離を詰める。
拳銃を持つ男が腕を上げる。
戸張は撃たない。
腕の内側へ入り、銃口を上へ逸らす。
乾いた発砲音。
弾は木の枝を折った。
山に音が反響する。
どこから撃ったのか分からなくなるような音だった。
戸張は男の手首をねじり、拳銃を落とす。
同時にもう1人がナイフを抜く。
上原が前に出る。
拳銃は抜かない。
左手で男の腕を流し、膝を崩す。
地面へ押さえ込む。
無駄な動きはなかった。
高田を掴んでいた男が逃げようとする。
その先、谷側から真壁が現れた。
大柄な体が、斜面を登りきった瞬間だった。
「そこまでだ」
男は高田を突き飛ばし、車へ走る。
真壁は高田を受け止める方を選んだ。
犯人ではなく、人を救う。
それが真壁の判断だった。
男が車のドアへ手をかける。
その時、梶原が叫んだ。
「班長、車内端末が起動しました!」
上原は車を見た。
運転席には誰もいない。
だが、後部座席に小型端末。
画面が点灯している。
カウント。
5。
片桐の声が無線に入る。
「班長、その車、発火装置の可能性があります! 施設側と同じ系統です!」
上原は走った。
戸張も同時に動く。
「直城!」
「車から離せ!」
逃げようとした男は、何も知らずにドアを開けようとしている。
上原は男の背中へ飛び込み、体ごと押し倒した。
戸張が車のドアを蹴って閉じる。
次の瞬間、車内で小さな破裂音。
窓の内側に白い煙が広がる。
爆発ではない。
煙幕。
だが、密閉された車内にいたら、数十秒で意識を奪われていたかもしれない。
水瀬がすぐに叫ぶ。
「吸わないで! 刺激性ガスです!」
真壁が高田を抱えて後退する。
戸張は倒れた男の襟を掴み、車から引き離した。
「お前、殺されるところだったぞ」
男は咳き込みながら震えている。
「聞いてない……こんなの、聞いてない……」
吉田がしゃがむ。
「誰に命令されたの」
「知らない……アプリで……ただ、金が入るって……車に乗れって……」
「車に乗ったら、あなたたちも消されていた」
男は言葉を失った。
水瀬がガスの反応を確認する。
「致死性は低いですが、閉鎖空間では危険です。証拠隠滅と実行犯の排除が目的ですね」
梶原が端末を操作しながら言った。
「車内端末、データ消去が走っています。止めます」
「できるか」
「やります」
梶原は泥の上に膝をつき、端末を有線で接続した。
山の中では電波が信用できない。
なら、直接つなぐ。
「くそ……相手、早い」
梶原の指が動く。
画面上でデータが消えていく。
その中から、ひとつだけ表示が残った。
上原が聞く。
「何が見えた」
梶原は画面を見たまま答えた。
「識別名です」
「読め」
「NOISE-04」
山の音が、急に遠くなった気がした。
ノイズ。
4。
つまり、少なくとも4つ目の単位。
単独犯ではない。
単なる闇バイトの指示役でもない。
分散した組織。
セルのように分かれ、痕跡を残さず、人を動かす。
上原は無線を開いた。
「龍一、確保状況」
「3名確保。1名は施設側から逃走。所轄が追ってるが、山を下りた可能性がある」
「深追いさせるな。無理に追うと危ない」
「了解」
片桐の声も入る。
「施設側、発火装置は処理完了。山火事は回避です。褒めてください」
「よくやった」
「珍しく素直ですね」
「今だけだ」
戸張が軽く笑う声が聞こえた。
真壁は救出した高田を担架へ乗せていた。
高田は意識がある。
顔色は悪いが、命に別状はなさそうだった。
「真壁」
上原が呼ぶ。
「はい」
「よく救った」
真壁は少しだけ照れたように顔を背けた。
「助けられる位置にいましたから」
「その位置まで行ける奴が必要だった」
真壁は何も言わず、担架の固定を続けた。
山の上空に、警察ヘリの音が近づいていた。
しかし、SERTの名前は無線に出ない。
現場の公式記録では、所轄、山岳救助隊、関係機関による連携対応。
そう処理される。
黒い戦闘服の隊員たちは、救助隊の影で撤収する。
今回もまた、報道の前には出ない。
だが、完全には隠れなかった。
林道入口で、地元の男性がスマートフォンを構えていた。
遠くから、黒い車両と黒い隊員の背中を撮っている。
白い4文字までは、はっきり見えない。
だが、拡大すれば読めるかもしれない。
SERT。
若い巡査がそれに気づき、止めようとした。
警部補が低く言う。
「騒ぐな。逆に目立つ」
「でも、映ってます」
「上に任せろ」
「何なんですか、あの部隊は」
警部補は、山道の奥へ消えていく上原たちを見た。
そして、短く言った。
「知らない方がいい」
「でも、現場にいます」
「いるから、知らない方がいいんだ」
巡査は言葉を失った。
その頃、SERTの車両は林道を下り始めていた。
泥で汚れた黒い装備。
傷の入ったグローブ。
濡れたブーツ。
都市部の駅や雑居ビルとは違う疲労が、全員の体に残っていた。
梶原は後部座席で端末を抱え、ぐったりしている。
「山、嫌いです」
真壁が水を渡す。
「でも、よくついてきた」
「褒められると、また山に連れて行かれそうで嫌です」
片桐が別車両から無線で言う。
「梶原、次は海かもな」
「本気でやめてください」
吉田が少し笑った。
戸張はその横顔を見て、缶コーヒーを差し出す。
「飲むか」
「山の中で買ったんですか」
「林道入口の自販機」
「よくそんな余裕ありましたね」
「余裕がある男だからな」
「足元、泥だらけですけど」
「そこは見るな」
吉田は缶コーヒーを受け取った。
少しだけ空気が柔らかくなる。
その瞬間、上原の端末が鳴った。
岡野佐知。
戸張が小さく言う。
「ほら来た」
吉田が缶を開けずに言う。
「また続きは生きて帰ってからですね」
戸張は苦笑した。
「それ、便利すぎるだろ」
上原は通話を取った。
「上原です」
岡野の声は落ち着いていた。
「状況は」
「行方不明の作業員2名を救出。実行犯3名確保。旧中継施設の発火装置を処理。刺激性ガスを使用した証拠隠滅装置を確認しました」
「ノイズは」
「識別名が出ました。NOISE-04」
短い沈黙。
岡野の声が少しだけ低くなる。
「4番目、ということね」
「おそらく」
「相手は分散型。実行犯は使い捨て。通信と現場を切り離している」
「はい」
「そして、あなたたちを見ている」
上原は窓の外を見た。
奥多摩の山が後ろへ流れていく。
「こちらも、少しずつ見ています」
「上原」
「はい」
「次は、相手がどこにいるかではなく、何をさせたいのかを見なさい」
上原は目を伏せた。
「了解しました、岡野室長」
「それと、休ませなさい。山は都市部より体に残るわ」
「分かっています」
「あなたも含めて」
上原は少しだけ沈黙した。
「……了解しました」
通話が切れる。
戸張が振り向く。
「休めって?」
「お前も含めてな、龍一」
「無理だな」
「だろうな」
2人は短く笑った。
梶原の端末が、小さな通知音を鳴らした。
「班長」
「何だ」
「NOISE-04の通信ログですが、最後に一瞬だけ別の地点へ飛んでいます」
「場所は」
梶原は画面を拡大した。
「関越道方面です。正確には、鶴ヶ島ジャンクション付近を移動中の端末に一瞬だけ接続しています」
戸張が眉を寄せる。
「山から高速へ抜けたか」
「はい。相手の指示役、すでに移動しています」
上原は地図を見た。
奥多摩の山中。
青梅街道。
圏央道。
関越道。
点が線になる。
線の先に、まだ見えない敵がいる。
上原は静かに言った。
「次は、足を追う」
梶原が頷く。
「追えます。ただ、時間はかかります」
「急げ」
「急ぎます。ただし雑にはやりません」
「それでいい」
黒い車両は山を下り、青梅街道へ戻っていく。
朝の光が、濡れた道路を照らしていた。
山の中で起きた事件は、ニュースでは民間作業員の遭難救助と、旧施設の不審火未遂として処理されるだろう。
SERTの名は出ない。
誰も、黒い部隊が山に入ったことを知らない。
だが、山道の遠くから撮られた短い動画は、数時間後、SNSに上がる。
そこには、泥で汚れた黒い戦闘服の背中が一瞬だけ映っていた。
白い文字は、かすかに読める。
SERT。
誰かがコメントする。
またこの部隊だ。
撃つ前に読む。
突入する前に救う。
それでも止められないなら、制圧する。
そして、通信が嘘をつくなら、地形を読む。
SERTは、まだ影のままだった。
だがその影は、少しずつ形を持ち始めていた。




