3話 沈黙の駅
7時38分。
朝の駅は、ひとつの生き物のように動いていた。
改札を抜ける人の波。
階段を上る革靴の音。
ホームへ急ぐ学生の声。
濡れた傘を畳む音。
構内アナウンス。
電車の到着を知らせる電子音。
そのすべてが重なり、巨大な地下空間を満たしている。
都内でも利用者の多いターミナル駅。
地下1階、中央改札横。
柱のそばに、黒いキャリーバッグが置かれていた。
最初に気づいたのは、駅員だった。
忘れ物にしては、置き方が妙だった。
柱にぴたりと寄せられ、取っ手には白いビニールテープが巻かれている。
駅員が近づこうとした時、柱の裏側に貼られた紙が目に入った。
濡れてはいない。
新しい紙だった。
そこには、黒いマジックで短く書かれていた。
動かすな。
開けるな。
その駅は、もう選ばれている。
駅員はすぐに足を止めた。
そして、無線で駅務室へ連絡した。
5分後、駅構内の警備員が中央改札周辺に立った。
さらに3分後、所轄の警察官が到着した。
だが、誰もキャリーバッグには触れなかった。
その駅には、すでに数千人がいた。
朝の通勤時間帯。
もし爆発物なら、被害は大きい。
もし化学剤なら、被害はさらに読めない。
ただの悪質ないたずらなら、それでいい。
けれど、いたずらだと決めつけて人が死ぬこともある。
警視庁の現場指揮所が駅の裏手に設置された時、すでに通常の不審物対応では済まない気配があった。
中央改札を急に封鎖すれば、人の波が詰まる。
人が詰まれば、押される。
押されれば、倒れる。
倒れた人を見た人間は叫び、その叫びが次の恐怖を呼ぶ。
現場の若い警察官が、不安そうに構内を見ていた。
「避難させないんですか」
隣にいた警部補が答える。
「一気に動かしたら、それだけで事故になる」
「でも、爆発物なら……」
「だから、上に連絡した」
「特殊部隊ですか」
警部補は答えなかった。
その沈黙で、若い警官は何かを察した。
前にも一度、同じ沈黙を見た。
雨の夜の雑居ビル。
証拠品強奪事件の倉庫街。
黒い戦闘服。
白い4文字。
SERT。
その名を、彼はまだ正式には知らない。
だが、もう忘れることはできなかった。
7時51分。
駅の裏手、業務用搬入口。
黒い車両が2台、静かに停まった。
赤色灯は回していない。
報道カメラの前には出ない。
警察関係者の中でさえ、知らない者の方が多い。
警察庁特殊緊急事案対応班。
通称、SERT。
黒い車両の扉が開く。
上原直城が降りた。
黒の戦闘服。
防弾ベスト。
胸元に小さく“SERT”。
42歳。
元SAT。
現在は、SERTの班長だった。
続いて戸張龍一、吉田未華、片桐蓮司、水瀬怜奈、梶原伊織が降りる。
そして今回は、もう1人いた。
神崎隼人。
44歳。
空港・重要施設警備を専門とする男だった。
スーツの上に薄い防弾ベストを着ている。
黒い戦闘服の隊員たちの中で、彼だけが少し違う空気を持っていた。
人混みを見る目。
動き続ける群衆の中から、不自然なものだけを拾う目。
上原は歩きながら言った。
「梶原、ブリーフィング」
梶原はタブレットを開いた。
駅の構内図が表示される。
「不審物は地下1階、中央改札横の柱付近。黒いキャリーバッグ。発見から約18分。周辺の人員は現在も流れています。推定構内滞留人数は約4000」
片桐が顔をしかめる。
「最悪だな。閉鎖空間で爆発物は勘弁してほしい」
水瀬が続ける。
「化学剤ならもっと厄介です。地下空間で空調に乗れば、被害範囲が読みにくくなります」
戸張が言う。
「駅ごと止めるか」
上原は画面を見たまま答えた。
「止め方を間違えれば、人の波でけが人が出る」
吉田が頷く。
「恐怖で人は走ります。走った人を見て、周りも走る。理由が分からなくても、人は逃げる方向へ逃げます」
神崎が構内図を覗き込んだ。
「中央改札を急に閉じると、東口側に人が詰まる。階段下で滞留が起きる」
梶原が画面を切り替える。
「現在、駅側は通常アナウンスを継続中。中央改札周辺には駅員を増やしていますが、露骨な封鎖はまだしていません」
上原は短く言った。
「避難させるな」
戸張が横を向く。
「直城?」
「流れを変える」
全員が一瞬黙った。
上原は構内図に指を置く。
「中央改札を封鎖するな。まず西改札への誘導を増やす。ホームから上がる階段を2か所だけ一時点検扱いで閉じろ。東側通路に駅員を置け。理由は設備確認でいい」
吉田がすぐに理解した。
「危険物とは言わせないんですね」
「言わせるな。乗客には、いつもの遅延や設備点検に見せる。少しずつ剥がす」
神崎が頷いた。
「人の流れを殺さずに、危険区域だけ薄くする。できます」
戸張が口元を少し上げた。
「相変わらず、面倒なこと考えるな」
「派手に動くほど、人が死ぬ」
上原は神崎を見た。
「神崎、雑踏を見るのは任せる」
「了解です」
「吉田、駅側と警察官への説明。言葉を選べ。焦らせるな」
「はい」
「片桐、水瀬、不審物確認。爆発物と化学剤、両方で見る。龍一、突入班は目立たせるな。改札横に黒装備が並べば、それだけで人が止まる」
「黒い服は人気者だからな」
「黙って動け」
「了解、班長」
戸張は軽く笑い、すぐに顔を変えた。
駅の裏通路を通り、SERTは構内へ入った。
報道カメラはまだ来ていない。
一般客は、目の前を黒い部隊が通っても、それが何なのか分からない。
警備員か。
警察か。
駅の特殊な対応班か。
気にする者もいたが、多くはスマートフォンを見ながら急ぎ足で通り過ぎていく。
上原は中央改札を遠目に見た。
黒いキャリーバッグは、柱の影にあった。
周囲の人は少しずつ減っている。
駅員たちが自然に誘導しているからだ。
「中央改札、ただいま設備確認のため通行列を一部変更しております。西改札、南改札もご利用ください」
アナウンスは落ち着いていた。
爆発物。
不審物。
危険。
その言葉は一切使われていない。
吉田が駅員に低く声をかける。
「大丈夫です。その声のままで。焦って早口にならないでください。いつも通りが一番安全です」
駅員は青ざめながらも頷いた。
片桐はキャリーバッグの20メートル手前で足を止めた。
水瀬も隣に立つ。
片桐は遠目に観察した。
「置き方がきれいすぎる」
上原が聞く。
「爆弾か」
「爆弾に見せたい置き方です」
「またか」
「流行ってるんですかね、偽装」
「笑えないな」
片桐は小型カメラ付きの伸縮ポールを取り出した。
不審物に直接近づかず、距離を保ったまま確認するための道具だ。
水瀬は検知器を構える。
手のひらほどの機械だった。
銃ではない。
だが、地下駅で見えない毒を探すには、拳銃より重要な装備だった。
「微量ですが、反応があります」
水瀬の声が低くなる。
上原が目を向けた。
「化学剤か」
「断定はできません。有機溶剤系、または刺激性物質の可能性。バッグ内部か、表面に付着しています」
戸張が無線で言う。
「直城、危険区域を広げるか」
「まだだ。人を走らせるな」
梶原の声が入る。
「班長、防犯カメラ映像を追っています。バッグを置いた人物、確認しました」
上原のタブレットに映像が送られる。
6時58分。
人混みの中、黒いキャリーバッグを引いた人物が歩いている。
性別は分かりにくい。
帽子。
マスク。
グレーのコート。
柱の横にバッグを置き、足を止めずにそのまま歩いていく。
「逃げたか」
戸張が言う。
梶原が映像を切り替えた。
「いえ。改札を出ていません」
画面が変わる。
同じグレーのコートの人物が、駅構内のカフェ前を歩いている。
さらに別のカメラ。
今度は、地下通路の柱の陰に立っている。
神崎が画面を見た。
「逃げる気がない」
上原は神崎を見た。
「どう見る」
「バッグを見ていません。普通、置いた人間は気にする。爆発物でも囮でも、結果を見たくなる。でもこの人物は別の方向を見ている」
「何を見ている」
神崎は映像を拡大した。
グレーのコートの視線の先。
朝の人混み。
スーツ姿の男性。
白髪交じりで、眼鏡をかけている。
小さな革の鞄を持っていた。
「人を探している」
吉田が言う。
「ターゲットがいる?」
梶原がその男性を追跡する。
「この男性、駅構内に入ってから2回、後ろを振り返っています。誰かを警戒しているようにも見えます」
上原の目が細くなる。
「身元は」
「顔認証をかけます。少し待ってください」
水瀬がキャリーバッグの反応を確認しながら言った。
「班長、不審物は囮かもしれません。中身が本物なら、この程度の配置では雑すぎる。けれど、注意を引くには十分です」
片桐も頷く。
「見せるための不審物ですね。ただ、中に何かはあります。空ではない」
戸張が低く言った。
「バッグで駅を止める。その隙に誰かを狙う」
上原は答えた。
「拉致か、殺害か」
吉田の顔が険しくなる。
「朝の駅で?」
「人が多い場所ほど、人は消える」
その時、梶原が言った。
「身元出ました。男性は相馬英明、52歳。民間の化学メーカー研究員。3年前まで防衛関連の素材研究にも関わっています。現在は退職予定で、今日、警察庁関係者と接触予定が入っています」
車内ではない。
駅の片隅に設置された簡易指揮所の空気が、一気に変わった。
上原は短く聞いた。
「接触内容は」
「詳細不明。ただ、内部告発の可能性あり。警察庁側の担当者が駅近くで接触予定だったようです」
水瀬が言う。
「化学物質の微量反応。研究員。偶然ではないですね」
上原は構内の人波を見た。
相馬という男は、人混みの中をゆっくり歩いている。
その少し後ろに、グレーのコート。
さらに別方向から、青い傘を持った男。
傘は畳まれている。
地下駅なのに、手に持ったままだ。
神崎が目を止めた。
「青い傘」
「何だ」
「駅の人間じゃない。歩き方が違う」
梶原が青い傘の男を拡大する。
「ただ歩いているように見えますけど」
「違う。行き先を探していない。人を探している。足は前に出ているのに、目がずっと横を流れている」
神崎は別のカメラを指した。
「もう1人いる。黒いリュック。改札に向かっていない。人の流れに乗ってるふりをしているだけだ」
戸張が言う。
「3人か」
吉田が低く答える。
「相馬さんを囲む気です」
上原は即座に指示を出した。
「龍一、相馬を確保。ただし声を出すな。騒がせるな」
「了解」
「神崎、犯人の動線を読め」
「青い傘は右側通路。黒リュックは前方。グレーのコートは後ろ。相馬を西側連絡通路に誘導して挟むつもりです」
「梶原、連絡通路の人の流れは」
「現在多いです。ですが、1分後に下り電車到着で南側階段へ人が流れます」
上原は構内図を見た。
その1分。
普通なら危険だ。
だが、人の流れは武器にもなる。
「西側通路を閉じるな。逆に開けろ」
戸張が無線で聞く。
「直城、そっちは犯人の誘導先だぞ」
「だから開ける。犯人に予定通りと思わせる」
「その後は」
「南側階段を駅員で一時封鎖。点検扱いだ。人の波を東へ逃がす。西側通路だけ薄くする」
神崎が頷いた。
「相馬と犯人だけを浮かせる」
「そうだ」
吉田が相馬へ向かおうとする。
上原が止めた。
「吉田、直接行くな。警察と気づかれる」
「では」
「駅員を使う」
吉田はすぐに近くの駅員へ声をかけた。
「白髪交じりで眼鏡の男性がいます。あの方に、落とし物確認のふりで声をかけてください。焦らせないで。こちらへ誘導します」
駅員の顔が固まる。
「私がですか」
吉田は目を合わせた。
「あなたが一番自然です。大丈夫。すぐ後ろに私たちがいます」
駅員は唾を飲み、頷いた。
その頃、片桐はキャリーバッグに近づいていた。
防護姿勢を取りながら、ゆっくり。
小型カメラで隙間を確認する。
「配線あり。タイマー風の表示あり。……でも、嫌な感じだな」
水瀬が言う。
「化学反応、わずかに上がりました」
「開けるなって紙に書いてあるなら、開けさせたいんだろうな」
片桐は軽く息を吐いた。
「爆発物処理で一番嫌なのは、作ったやつが爆弾を理解してない時なんだけどな。今回は逆だ。理解してるやつが、理解してないふりをしている」
上原が聞く。
「危険か」
「はい。ただ、爆発で殺す気じゃない。開けた人間に何かを浴びせる仕掛けの可能性があります」
水瀬が続ける。
「刺激性の液体、または粉末。周囲に撒かれるとパニックになります」
「処理できるか」
「できます。ただし、人をさらに離してください」
上原は無線で言った。
「神崎、人を薄くしろ」
「やっています」
神崎は駅員と警察官を使い、言葉少なに人の流れを変えていた。
「こちらの通路、現在点検中です。東側をご利用ください」
「中央改札は混雑しています。南改札が空いています」
誰も走らない。
誰も叫ばない。
ただ、少しずつ人の密度だけが変わっていく。
駅は沈黙したまま、危険区域から人を剥がされていった。
その時、駅員が相馬に声をかけた。
「すみません、お客様。落とし物の確認で少しよろしいでしょうか」
相馬はびくりと肩を揺らした。
明らかに怯えている。
「え、いや、私は……」
「すぐ終わります。こちらへ」
相馬が動いた。
グレーのコートも動く。
青い傘の男が速度を上げる。
黒リュックが前方に出る。
戸張が低く言う。
「来るぞ」
上原は答えた。
「まだだ」
相馬が西側通路に入る。
人の流れは薄くなっていた。
犯人たちは、自分たちの予定通りだと思っている。
だが、通路の先には、清掃員に扮した警察官がいた。
さらに柱の陰に、戸張。
反対側に吉田。
上原は無線で短く言った。
「切れ」
その瞬間、駅員が通路の後方にロープを張った。
「設備点検です。迂回をお願いします」
人の流れが止まらず、自然に東側へ逃げる。
西側通路には、相馬と犯人3人。
そして、SERTだけが残った。
青い傘の男が気づいた。
逃げようとした瞬間、戸張が前に出る。
「警察だ。手を見せろ」
男は畳んだ傘を振った。
ただの傘ではなかった。
持ち手から細い刃が出る。
仕込み傘。
周囲に人がいれば、見逃されやすい武器だった。
戸張は銃を抜かなかった。
地下通路。
背後に相馬。
跳弾の危険。
人の気配。
ここは撃つ場所ではない。
戸張は一歩踏み込み、傘の軌道の内側に入った。
刃が肩の横を抜ける。
戸張の左手が男の手首を押さえ、右肘が胸元を潰す。
男がよろめいたところを、膝で崩す。
「確保」
黒リュックの男が相馬に向かって走る。
吉田が前に立つ。
「止まりなさい」
男は止まらない。
吉田は拳銃には触れなかった。
代わりに、男の目を見て言った。
「その人を連れていっても、あなたは助からない」
一瞬。
男の足が鈍った。
その一瞬で、戸張の隊員が横から体を入れ、男を壁へ押さえ込んだ。
グレーのコートが後ろへ下がる。
スマートフォンを取り出す。
上原が見た。
「梶原」
「通信、拾ってます」
「切るな」
「はい」
グレーのコートはスマートフォンへ向かって何かを言った。
「失敗した、駅から出る」
梶原が叫ぶ。
「班長、別回線に信号。バッグ側です!」
上原の顔が変わった。
「片桐!」
中央改札横。
片桐はキャリーバッグの前にいた。
表示装置が急に点灯する。
赤い数字。
10。
9。
8。
片桐は舌打ちした。
「やっぱり遠隔かよ」
水瀬が即座に後退を指示する。
「周囲退避。空調を止めてください!」
上原は走り出しかけた戸張を止めた。
「龍一、行くな」
「片桐がいる!」
「片桐の仕事だ」
戸張の拳が一瞬だけ握られる。
だが、動かなかった。
片桐はバッグを開けない。
開ければ散布される。
なら、開けさせない。
彼は持っていた処理用シートをバッグ全体にかぶせた。
特殊な吸着素材を含む封じ込め用のシート。
爆発を止めるものではない。
中身が飛び散るのを抑えるための道具だ。
水瀬が横から小型の密閉カバーを出す。
「片桐さん、右側」
「分かってる」
3。
2。
1。
小さな破裂音。
爆発というより、缶が破裂したような音だった。
バッグが内側から膨らみ、シートが白く震える。
周囲に少量の白い粉のようなものが漏れた。
水瀬が検知器を向ける。
「刺激性物質。致死性は低い。ただし吸えば粘膜に強い痛みが出ます」
片桐はゆっくり息を吐いた。
「嫌がらせとしては上等すぎる」
上原は無線で言った。
「水瀬、被害確認」
「周辺被害なし。封じ込め成功」
「片桐」
「生きてます。焼肉は無理でも、昼飯くらいは奢ってください」
「考えておく」
「それは奢らない返事ですね」
緊張が少しだけ解けた。
だが、事件はまだ終わっていない。
グレーのコートの人物が逃げようとする。
その進路に、神崎が立っていた。
神崎は銃を構えていない。
ただ、改札前で静かに立っている。
グレーのコートは左右を見た。
どちらにも逃げ道はない。
人の流れが、気づかないうちに逃走経路を消していた。
神崎が言う。
「雑踏は、隠れる場所じゃない。流れを間違えれば、檻になる」
グレーのコートは舌打ちし、走ろうとした。
その瞬間、戸張が後ろから肩を押さえる。
「終わりだ」
グレーのコートは床へ押さえ込まれた。
相馬英明は、吉田のそばで震えていた。
吉田が落ち着いた声で言う。
「相馬さん。あなたを保護します」
「私は……私は警察に話すつもりだった」
「何をですか」
相馬は唇を震わせた。
駅の喧騒は、少し離れたところでまだ続いている。
誰も、この地下通路で何が起きたのか分かっていない。
不審物騒ぎも、拉致未遂も、化学物質も。
駅は止まらなかった。
悲鳴も上がらなかった。
SERTは、また影のまま現場を終わらせた。
相馬は上原を見た。
「あなたたちが……SERTですか」
戸張の目がわずかに鋭くなる。
吉田も表情を変えた。
上原は答えない。
相馬は続けた。
「私は、SERTに渡せと言われたんです。普通の窓口では握り潰される。警察の中にも、もう……」
「誰に言われた」
上原の声は静かだった。
相馬は小さな革の鞄を握りしめた。
「名前は知りません。ただ、その人はこう言っていました」
上原は一歩近づく。
相馬の声は、かすれていた。
「相手はノイズだ、と」
梶原が顔を上げた。
「ノイズ?」
相馬は頷いた。
「表に出ない。誰が指示しているか分からない。記録を消し、人を動かし、事件だけを残す。そういう連中だと」
水瀬が静かに言った。
「化学物質のサンプルと、拉致未遂。研究資料が狙いですか」
相馬は鞄を差し出した。
「この中に、取引記録の一部があります。化学物質の違法流通と、匿名指示アプリのログ。私は、怖くなって……」
その時、遠くで駅のアナウンスが流れた。
「中央改札付近の設備確認は終了しました。ご協力ありがとうございました」
人の流れが戻り始める。
まるで、何も起きなかったかのように。
上原は鞄を受け取らず、吉田に目で指示した。
「吉田、相馬を保護。梶原、鞄の中身を確認する前に遮蔽ケースへ。片桐、水瀬、不審物の処理記録。神崎、犯人の導線を洗え。龍一」
戸張が振り返る。
「撤収準備か」
「違う」
上原は捕まった3人を見た。
「誰が見ていたか、探す」
神崎が静かに構内を見渡した。
上原も同じ方向を見る。
多くの人が歩いている。
誰もこちらを見ていないように見える。
だが、誰かが見ていた。
相馬を。
不審物を。
SERTを。
梶原の端末が鳴る。
「班長。駅構内のフリーWi-Fiに、不自然な接続がありました。短時間だけ映像データを外部へ送っています」
「映像?」
「はい。中央改札のライブ映像です。たぶん、第三者が現場を見ていました」
戸張が低く言う。
「また見られてたわけか」
上原は頷いた。
「今度は、見返す」
その頃、駅の外では、報道のカメラが数台到着していた。
不審物騒ぎ。
駅の設備点検。
警察官の姿。
ニュースにするには十分だった。
だが、SERTは正面には出ない。
駅員用通路を使い、業務用搬入口から撤収する。
それでも完全には消えない。
ひとりの通行人が、スマートフォンで構内を撮影していた。
画面の端に、黒い戦闘服の背中が一瞬だけ映る。
白い4文字。
SERT。
撮影した本人は、その意味を知らない。
けれど、数時間後、SNSに投稿された短い動画のコメント欄に、誰かが書き込む。
また映ってる。
このSERTって何?
業務用通路を歩きながら、若い制服警官が黒い隊員たちの背中を見ていた。
また、あの部隊だ。
また、現場が大きく変わった。
彼は隣にいる警部補に、小さく聞いた。
「あの人たち、駅の不審物だけじゃなくて、拉致も止めたんですよね」
警部補は前を向いたまま言った。
「知らん」
「でも」
「知らんことにしろ」
若い警官は黙った。
警部補は少しだけ声を落とす。
「あれは、そういう部隊だ」
「そういう?」
「知っている人間ほど、口に出さない」
黒い車両のドアが閉まる。
神崎が後部座席に座り、ふっと息を吐いた。
「駅は嫌ですね。人が多すぎる」
片桐が隣で言う。
「爆弾より人混みの方が怖いってことか」
「爆弾は動きません。人は動く」
水瀬が淡々と言った。
「化学剤も動きます。空気に乗るので」
「水瀬さん、それ余計怖い」
梶原が端末を見ながら言う。
「班長、ノイズという名前ですが、2話の通信ログにも似た単語がありました。正確にはノイズという文字ではなく、通信上の識別名です」
上原が聞く。
「追えるか」
「追います。ただ、向こうもこっちを見ています」
戸張が上原を見る。
「直城、向こうがSERTを知ってるなら、次は真正面から来るかもな」
「来るだろうな」
「どうする」
上原は窓の外を見た。
朝の駅前は、何も知らない人々であふれている。
仕事へ向かう人。
学校へ向かう人。
家に帰る人。
今、自分たちがすれ違った危険を知らないまま、それぞれの日常へ戻っていく。
それでいい。
知らないまま守られるなら、それが一番いい。
上原は静かに言った。
「次も、先に読む」
吉田が相馬を別車両へ案内している。
戸張はそれを見て、缶コーヒーを取り出した。
吉田が戻ってきたら渡すつもりだった。
だが、上原の端末が鳴った。
岡野佐知。
戸張は缶コーヒーを見て、小さく笑った。
「また続きは生きて帰ってから、だな」
吉田が車外から戻ってきて、その言葉を聞いた。
「それ、私のセリフです」
「じゃあ返す」
「返さなくていいです」
上原は通話を取った。
「上原です」
岡野の声は、いつも通り落ち着いていた。
「駅の件、報告は受けています」
「相馬英明を保護。拉致未遂の実行犯3名確保。不審物は刺激性物質の散布装置でした。被害はありません」
「SERTの露出は」
「最小限に抑えました」
「最小限、ね」
岡野の声に、少しだけ含みがあった。
「すでにSNSに短い動画が上がっています。黒い背中が一瞬だけ映っている」
上原は目を閉じた。
「削除要請は」
「対応中。ただ、完全には消せないでしょうね」
「すみません」
「謝ることではないわ。あなたたちは駅を止めずに被害を止めた。それで十分」
短い沈黙。
岡野は続けた。
「ただ、上原」
「はい」
「ノイズという名前が出た以上、これは単発では終わらない」
「分かっています」
「相手は、こちらの存在に気づき始めている。世間より先に」
「はい」
「なら、次は隠れるだけではなく、誘い出すことも考えなさい」
上原は少しだけ視線を上げた。
「了解しました、岡野室長」
通話が切れる。
戸張が聞いた。
「室長は何て?」
「次は誘い出せと」
戸張は笑った。
「あの人も大概だな」
「元特殊部隊だ。考えることは似てる」
「直城と似てるって言ったら怒られそうだ」
上原は答えなかった。
ただ、窓の外を見ていた。
沈黙の駅。
悲鳴もなく、爆発もなく、誰も走らせずに終わった現場。
だが、その静けさの下で、確かに何かが動き始めている。
SERT。
まだ公には存在しない部隊。
警察の中でさえ、限られた者しか知らない影。
その影を、誰かが見ている。
ならば次は、影の方から見返す番だ。
黒い車両は朝の街へ滑り出した。
撃つ前に読む。
突入する前に救う。
それでも止められないなら、制圧する。
そして、見えない敵には、沈黙のまま近づく。




