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第16話 名簿にない客

 20時42分。


 赤坂の夜は、静かに人を選ぶ。


 大通り沿いには明るい看板が並び、タクシーの列が途切れずに流れている。


 だが、一本奥へ入ると空気が変わる。


 会員制のバー。


 看板のないレストラン。


 予約客だけが通される小さなビル。


 誰が中にいるのか、表からは分からない。


 そういう場所ほど、表に出せないものが動く。


 今回の現場は、赤坂の裏通りにある架空の会員制サロン、**クラブ・カシワギ**だった。


 表向きは、経営者や投資家向けの交流サロン。


 紹介制。


 完全予約。


 入口には会員証確認。


 店内は落ち着いたラウンジと個室。


 違法な匂いは、表からは見えない。


 だが、警察庁に上がってきた情報は違った。


 その夜、クラブ・カシワギの地下フロアで、非公開の取引会が開かれる。


 売られるのは、盗まれた企業データ、偽造身分証、未承認の医療機器部品、そして、最近の事件で何度も名前が出ている黒いケースの一部。


 ケースの識別は、**M-03**。


 銀座のホテルで回収されたものと同じ系統だった。


 ただし、今回は踏み込めば終わり、という事件ではない。


 参加者の中に、買い手、売り手、仲介役、護衛、そして本命の運び屋が混じっている。


 誰が中心なのか分からない。


 強制捜査で一気に押さえれば、表の客だけを捕まえて終わる。


 本命は逃げる。


 だから、SERTが呼ばれた。


 正面から入るためではない。


 中に紛れ込むために。


 21時03分。


 上原は、黒のスーツ姿で赤坂の路地を歩いていた。


 いつもの戦闘服ではない。


 髪型も少しだけ整え、腕時計も普段より目立つものに替えている。


 隣には吉田。


 彼女も落ち着いた黒のワンピースにジャケットを羽織っていた。


 企業の法務担当か、投資会社の関係者に見える。


 少し後ろを、梶原が歩く。


 若いIT企業の役員という設定だった。


 眼鏡、ジャケット、少し緩いネクタイ。


 本人は不満そうだった。


「班長、僕この設定、軽くないですか」


 梶原が小声で言う。


 上原は前を見たまま答えた。


「軽く見えた方がいい」


「褒めてます?」


「役に合っている」


「それ、褒めてませんよね」


 吉田が少しだけ笑う。


「梶原さん、今日は若くてお金を持っているけど、警戒心が少し足りない買い手です」


「なおさら嫌です」


 上原は短く言った。


「本命はお前を見る。俺たちじゃない」


 梶原は息を吐いた。


「分かってます」


 少し離れたビルの屋上には、戸張がいた。


 スーツではない。


 黒い上着に、目立たない装備。


 狙撃ではなく監視と即応。


 近くの駐車場には真壁。


 搬入口側には水瀬と片桐。


 望月は所轄の鑑識班と連携し、押収時に証拠が崩れないよう待機している。


 岡野は本部から全体を見ていた。


 潜入は派手ではない。


 だが、失敗すれば最も危ない。


 中に入った人間は、しばらく孤立する。


 21時07分。


 クラブ・カシワギの入口に着いた。


 黒服の男が立っている。


 上原は偽名の会員カードを出した。


 紹介者の名前も、事前に作ってある。


 男はカードを読み取り、上原たちを見た。


「お連れ様は」


 上原は吉田を示す。


「法務の吉原」


 次に梶原を見る。


「技術顧問の加島」


 梶原が軽く頭を下げる。


 少しだけ頼りなさそうに。


 しかし、目は動いていた。


 入口のカメラ。


 カードリーダー。


 黒服の耳元の小型イヤホン。


 靴。


 袖の膨らみ。


 全てを見ている。


 男は数秒確認し、扉を開けた。


「地下へどうぞ」


 中は静かだった。


 赤い照明。


 低い音楽。


 革張りのソファ。


 香水と酒の匂い。


 階段を下りると、地下にはさらに別の空気があった。


 ラウンジにいる客は20人ほど。


 経営者風の男。


 外資系の投資家に見える女。


 若い起業家風の男。


 表情を消した護衛。


 誰も大声を出さない。


 全員が、誰かを観察している。


 吉田が小声で言う。


「全員、客に見せたい人間ですね」


 上原が答える。


「本物は裏にいる」


 梶原はグラスを受け取りながら、指先だけで端末を操作した。


 腕時計型の小型端末。


 店内Wi-Fiの電波を拾う。


「店内ネットワーク、隔離されています。地下だけ別回線。監視カメラはローカル保存ですが、外部へも抜けています」


 上原は目だけで頷いた。


 戸張の声が小さく耳元の骨伝導イヤホンに入る。


「屋上から裏口確認。搬入口に黒いワンボックス。ナンバー偽装っぽい」


 片桐の声も続く。


「搬入口側、ケースを運び込んだ形跡あり。金属ケース、最低3つ」


 水瀬が言う。


「医療機器部品なら、薬剤や生体サンプルを偽装している可能性もあります。中身不明のまま開けないでください」


 岡野の声が入った。


「上原、予定通り。中で中心人物を確認して。踏み込みはまだ」


「了解」


 21時18分。


 地下ラウンジの奥で、取引会が始まった。


 司会役は、白髪交じりの男だった。


 名は柏木。


 このクラブのオーナー。


 ただし、表向きの顔だ。


 彼が主犯とは限らない。


「今夜は、限られた方々だけに特別な品をご覧いただきます」


 柏木がそう言うと、黒服が布のかかったテーブルを運んできた。


 布が外される。


 偽造ID。


 暗号化されたUSB。


 小型通信機。


 そして、黒いケース。


 表面に、白い小さな文字。


**M-03**


 梶原の喉がわずかに動く。


 上原は表情を変えない。


 吉田も同じだった。


 柏木が続ける。


「このケースは、中身ではなく、接続先に価値があります。開けるだけでは意味がない。正しい環境で、正しい端末に繋ぐ必要がある」


 客の1人が聞く。


「何に繋がる」


 柏木は笑った。


「買った方だけが知ればいい」


 梶原が小さく呟く。


「ただの部品じゃない。認証装置かもしれません」


 上原は聞くだけにした。


 吉田はラウンジ内の人間を見ている。


 柏木の言葉に興味を示す者。


 興味があるふりをする者。


 興味がないふりをして、ケースだけを見ている者。


 その中で、ひとりだけ違う男がいた。


 灰色のスーツ。


 40代半ば。


 腕時計は高級品だが、靴底が新しすぎる。


 顔は穏やか。


 だが、視線が会場全体ではなく、出口を見ている。


 吉田が小さく言った。


「灰色のスーツ。買い手ではありません」


 上原が聞く。


「売り手か」


「違います。護衛でもない。逃げるタイミングを見ている」


 梶原が端末で男の顔を照合する。


「一致なし。顔認識に引っかかりません。偽名参加者です」


 戸張の声。


「灰色スーツ、地下から出たら追う」


 上原は短く返す。


「まだだ」


 柏木がオークションを進める。


 金額は口に出さない。


 端末で入札。


 梶原の偽装端末にも、入札画面が表示された。


 彼は少し緊張した顔を作る。


 若い買い手らしく、興味を抑えきれないように。


「これ、入ってもいいんですかね」


 梶原があえて少し大きめに言う。


 近くの客が彼を見る。


 上原は低く言った。


「値段次第だ」


 梶原は画面を操作する。


 入札ではない。


 システムの裏を見る。


 柏木のオークション端末。


 参加者一覧。


 送信先。


 その中に、名簿にない端末が1つあった。


 梶原の目が変わる。


「班長、名簿にない端末があります。会場内です。でも参加者IDがない」


「場所は」


「奥の個室側。灰色スーツの近く」


 吉田が静かに言う。


「灰色スーツが本命」


 上原は柏木を見た。


 柏木は司会をしている。


 だが、視線は時々、灰色スーツへ向かっている。


 主犯ではない。


 下請けか。


 場を用意しただけか。


 上原は言った。


「梶原、ケースを落札しろ」


 梶原が一瞬だけ目を見開く。


「本気ですか」


「本気に見せる」


「了解」


 梶原は入札額を上げた。


 会場内の空気が少し動く。


 若い買い手が、高額入札した。


 柏木の目が梶原へ向く。


 灰色スーツの男も、初めて梶原を見た。


 上原はそれを見ていた。


 視線が取れた。


 梶原が餌になった。


 21時31分。


 入札は梶原の偽名、加島で落ちた。


 柏木が笑みを浮かべる。


「加島様。お目が高い」


 梶原は少し照れたような顔を作る。


「いや、こういうの、前から興味あって」


 吉田が横で静かに言う。


「不用意に話しすぎです」


 これは演技だった。


 法務担当が若い技術顧問をたしなめる。


 よくある光景に見える。


 柏木が近づく。


「お渡しは別室で」


 上原が言う。


「ここでは?」


「品が品ですから」


 灰色スーツの男が、少しだけ立ち位置を変えた。


 出口に近づく。


 上原は耳元で言った。


「龍一、灰色が動く」


「見えてる」


 戸張の声は静かだった。


 柏木に案内され、上原、吉田、梶原は奥の個室へ向かう。


 個室前には黒服が2人。


 その靴が、入口の黒服と同じではなかった。


 警備ではない。


 制圧担当。


 吉田が小さく言う。


「ここで脅すつもりですね」


 上原は頷く。


「買い手を試す」


 個室に入る。


 テーブル。


 黒いケース。


 端末。


 そして、壁際に立つ灰色スーツの男。


 彼はいつの間にか先回りしていた。


 柏木が扉を閉める。


「加島様。こちらのケースは、取引後に引き渡しとなります」


 梶原がわざと困った顔をする。


「え、今じゃないんですか」


 灰色スーツの男が口を開いた。


「先に、あなたの端末を見せてもらう」


 梶原が肩をすくめる。


「端末?」


「その入札速度。普通の買い手ではない」


 空気が変わった。


 上原はまだ動かない。


 吉田も動かない。


 梶原は、困ったように笑った。


「そう見えました?」


 灰色スーツは一歩近づく。


「誰の紹介だ」


 上原が答える。


「紹介者の名前は出した」


「偽名だろう」


 柏木の顔が硬くなる。


 彼もここで初めて、灰色スーツが本気で疑っていると分かったらしい。


 灰色スーツが右手を上げる。


 黒服2人が動く。


 その瞬間、上原は短く言った。


「今だ」


 動いたのは、上原ではなかった。


 吉田が先に半歩入る。


 黒服の1人が彼女を押さえようとしたが、吉田は腕の内側へ入り、肘を外へ逃がした。


 相手の力を使って姿勢を崩す。


 そのまま壁へ押しつける。


 梶原は椅子を蹴って後ろへ下がりながら、端末を操作した。


「個室内通信、押さえました」


 もう1人の黒服が梶原へ向かう。


 上原が横から入る。


 拳銃は抜かない。


 肩、手首、膝。


 必要な場所だけを押さえ、男を床へ落とす。


 音は低い。


 短い。


 灰色スーツが内ポケットへ手を伸ばす。


 吉田が言った。


「出さない方がいいです」


 だが、男は止まらない。


 上原の動きより早く、扉が開いた。


 戸張だった。


 外の黒服を制圧し、入ってきていた。


 灰色スーツの手首が、戸張に押さえられる。


 内ポケットから落ちたのは、小型拳銃ではない。


 発信機だった。


 梶原が拾わずに見た。


「遠隔消去用です。押されてたら端末が飛びました」


 戸張が男を壁に押さえながら言う。


「押す前でよかったな」


 灰色スーツは初めて焦った顔をした。


「何者だ」


 上原は答えない。


 吉田も答えない。


 梶原は端末を接続し、黒いケースの認証ログを抜いている。


「班長、ケース内に直接データはありません。外部装置の起動キーです。M-03は鍵です」


 上原が聞く。


「何の鍵だ」


「まだ分かりません。ただ、接続先候補が出ています。L-07と同系統」


 戸張が低く言う。


「燃えた部屋のやつか」


 上原は頷いた。


 柏木が後ずさる。


「私は場所を貸しただけだ」


 吉田が彼を見る。


「その言葉、逮捕後にも聞かれます」


「逮捕?」


 吉田は静かに言った。


「はい。もう外も押さえています」


 その言葉と同時に、地上と搬入口で動きが始まった。


 片桐と水瀬が搬入口側のケースを安全確認。


 真壁が逃走車両を封じる。


 所轄と捜査員が客と黒服を一斉に確保する。


 ただし、騒がない。


 大声を出さない。


 客の多くは、自分が何の取引に参加していたのか理解する前に、身柄を押さえられた。


 21時38分。


 地下の取引会は、静かに終わった。


 灰色スーツの男。


 柏木。


 黒服。


 搬入口の運び屋。


 合計9名を確保。


 黒いケースM-03、関連端末、偽造ID、暗号化USB、取引名簿を押収。


 戸張は灰色スーツを所轄へ引き渡した。


 男はまだ上原たちを見ている。


「お前ら、警視庁じゃないな」


 戸張は答えなかった。


「どこの部隊だ」


 戸張は少しだけ笑った。


「名簿にない客だよ」


 男の顔が歪む。


 その時には、上原たちはもう個室を出ていた。


 吉田は柏木の近くで泣きそうになっている若い女性スタッフへ声をかけた。


「あなたは、取引内容を知っていましたか」


 女性は首を振る。


「ただ、地下に客を通せって言われて……」


「後で警察に話してください。今はここを離れて」


「あなたは……」


「ただの客です」


 吉田はそれだけ言って離れた。


 梶原は端末をバッグに入れる。


「班長、回収できるだけ回収しました。後は解析しないと分かりません」


「十分だ」


 上原は周囲を見た。


 所轄が入っている。


 証拠は望月の管理に移る。


 逃走車両は止まった。


 搬入口のケースも確保された。


 もうSERTがいる必要はない。


「撤収する」


 戸張が頷く。


「了解」


 SERTは裏階段を使って地下を出た。


 表の入口ではなく、業務用通路。


 そこから隣のビルの通用口へ抜ける。


 赤坂の裏通りに出ると、夜の空気が少し冷たかった。


 数分後、クラブ・カシワギの正面には捜査車両が静かに集まり始める。


 通行人は、何かあったのかと少しだけ見る。


 だが、派手な騒ぎにはならない。


 中では、所轄の刑事が柏木を連行していた。


 若い刑事が周囲を見回す。


「さっきのスーツの男女は?」


 別の捜査員が答える。


「どの男女だ」


「一番奥にいた……たぶん、潜入してた人たちです」


「うちの班じゃないぞ」


「じゃあ、どこの」


 年配の刑事が短く言った。


「聞くな」


 若い刑事は戸惑う。


「でも、逮捕のきっかけを」


「記録には、関係機関からの情報提供と書け」


「関係機関って」


「そういうことにしておけ」


 若い刑事は、裏口の方を見た。


 だが、そこにはもう誰もいない。


 21時52分。


 SERTの車両は、赤坂を離れていた。


 車内で梶原はネクタイを緩めた。


「潜入、疲れますね」


 戸張が笑う。


「若手社長、似合ってたぞ」


「二度とやりたくないです」


 吉田が言う。


「相手は梶原さんを一番見ていました。役割は成功です」


「成功しても嫌なものは嫌です」


 上原は押収データの一覧を見ている。


「M-03は鍵。L-07とつながる可能性がある」


 片桐が別車両から無線で言う。


「搬入口のケースは危険物ではありませんでした。ただし、内部に認証チップがあります」


 水瀬が続く。


「薬剤反応はなし。医療機器部品ではなく、制御系の部品の可能性が高いです」


 望月の声も入る。


「証拠品は所轄と合同で保全しました。指紋、皮脂、繊維、全て取ります」


 真壁が言う。


「逃走車両も確保済みです。運び屋は何も知らないと言っています」


 戸張がぼそっと言う。


「最近、そればっかりだな」


 吉田が頷く。


「知らされていない実行役ばかり使う。中心が遠い」


 上原は静かに言った。


「だから近づく」


 車内が少し静かになる。


 岡野から通話が入った。


 上原は端末を耳に当てる。


「上原です」


「赤坂の件、収束したそうね」


 岡野の声は落ち着いていた。


「実行関係者9名を確保。M-03ケース、関連端末、取引名簿を押収しました」


「SERTの露出は」


「最小限です。逮捕後、現場から離れました」


「それでいいわ」


 岡野は少しだけ間を置いた。


「潜入は、突入より消耗するでしょう」


「梶原が特に」


 梶原が後部座席で小さく抗議する。


「班長」


 岡野の声に、わずかに笑みが混じった。


「彼には休ませて。解析は必要だけれど」


「了解しました」


「上原」


「はい」


「名簿にない客は、相手から見れば不気味よ。次からは向こうも潜入を警戒する」


「分かっています」


「次は、こちらを見つける罠を用意してくるかもしれない」


「その前に読みます」


「ええ」


 通話が切れた。


 梶原が小さく息を吐く。


「次は潜入対策されるってことですか」


 戸張が言う。


「人気者だな、加島社長」


「その呼び方やめてください」


 吉田が少し笑った。


 上原は窓の外を見た。


 赤坂の明かりが遠ざかる。


 表向きは華やかな夜の街。


 その地下で、名簿にない取引が行われていた。


 名簿にない客として入り、名簿にないまま消える。


 SERTの名前は残らない。


 逮捕は所轄が行う。


 証拠は鑑識が押さえる。


 報道には、会員制クラブでの違法取引摘発とだけ出るだろう。


 それでいい。


 撃つ前に読む。


 突入する前に救う。


 それでも止められないなら、制圧する。


 そして、正面から入れない現場なら、客の顔をして中へ入る。


 逮捕が済めば、もうそこにいる必要はない。


 黒い車両は、夜の赤坂から静かに離れていった。


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