第五話(1)
その話を耳にしたのは、授業の合間、つかの間の休み時間だった。
僕の席の斜め前で、女子たちがこそこそと身を寄せ合って話し込んでいるのが見える。教室中が騒がしいはずなのに、彼女たちの声だけが妙にすんなりと耳に入ってきたのは、話題の中心が僕のよく知る人物だったからだろう。あえて席を外している時を狙っているあたり、それはどう見ても噂話の類いだった。
「ね。ルカの話、聞いた?」
「あー、あれね。結構ガチっぽいよ。グルチャとかも荒れてる」
僕としては「ああ、いつもの」とスルーするつもりでいた。彼がこういった世間話のネタになるのは、これまでも何度かあったことだからだ。
この教室において、仁科の存在は比較的特異な立ち位置にあった。そもそもが日本人とのハーフで、同じアジア人といえどルーツに差があることが一つ挙げられる。が、やはり最たる理由は、彼が不良グループのトップであることだろう。異質な肩書きを背負っているだけあり、その振る舞いは常に耳目を集めていた。
(それにしたって、今日はやけに賑やかだな)
仁科はいったい何をしでかしたというのか。彼の方からめったに話を聞くことがない分、僕は耳をゾウのように大きくして盗み聞こうとするが、女子生徒たちの話しぶりは、これまでよりもやや緊張気味なもので。
「ルカのとこ、クスリ関わってるんだって。それで近隣のギャングと揉めてるって話」
「昨日も喧嘩してるの流れてきた~。警察噛んでるらしいし、マジでヤバいって」
いつにも増して過激な内容に、僕は肌が粟立つのを覚える。それは茶飲み話よろしく、僕にとっては遠いことのように思えて現実感がない。が、薬物が原因の抗争については、以前彼が口にしていたこともあり、わりと真実味のある話なのではないかと思った。
とはいえ、当時の彼は件に直接関係している、とまでは言っていなかったはずだが……。
「普通に怖くない? 最近のルカ、ヤバい話かなり聞くし」
「こっちの学校きてるのも、地元のは入らせてもらえないかららしいよ? そんなことある?」
「去年いきなり学校来なくなったのも、そういう喧嘩やってたせいだって」
「そうなんだ。……なんかヤダね。私たち巻き込まれないといいけど」
「ねー、ホント。怖いよねえ」
わいわいとお喋りが盛り上がっているところ、彼が教室に戻ってくる。すると女子生徒たちは目敏く気づき、ぴたりと今の話を止めた。そうしていそいそと彼から距離を取っては、チラチラこちらを窺いつつ、また別の件を話し始める。今度の話題は、隣クラスのヒエラルキー上位同士のカップルについて。女の話とはつくづく底をつかないものだった。
特に気にする様子もなく、さっさと席をつく仁科に声をかける。「噂されてたぞ」とリークすれば、彼はどうでもいいとばかりに本を開いた。
「気にすんな。だいたい盛られた話だから」
「でも……」
火のないところに煙は立たぬ、と言いたいわけではないが、仁科の立場上、大なり小なり危険なことには相違ない。「本当に、危ないことには関わってないんだな?」と心配に声が震えれば、彼の目線がゆらりと僕を捉えた。「危ないことね……」としばらく考える素振りをみせると、彼は「いや、」と首を横に振る。
「してることにはしてるんじゃねえか?」
「は!?」
「一応、不良グループだからな。余所のグループとの喧嘩なり、抗争なりはザラだろ」
ある種の縄張り争いみたいなものだ、と仁科は言う。「パサイ・ウェストサイド」を始め、少年ギャングはそれぞれの地域に番を張っており、日夜、勢力拡大を目的に対立し合っているというのだ。が、それを聞いてなお、僕はあまりしっくりこない。そもそもそんなことをする必要性が思い当たらなかった。
「必要性、か……」
仁科は小声をこぼすと、読もうとしていた本を閉じた。重ねて「それはそうだ」と僕に同意する。「無い方が良いに決まっている」、と。
「必要性なんてあってたまるか。……でも、あってしまったからあるんだろうな」
「ある」というのは、例えば貧困、不安定な家庭環境といった要因だ。都会的と言われるマニラですら、少し歩けばスラムに入ってしまうような環境で、不健全ながら同じ立場を分かち合えるコミュニティは形成されざるをえなかったのかもしれない。自分を守るため、仲間を守るため、戦うために拳を振りかざす。生きるために罪を犯す──そういったことがまかり通ってしまうことが、仁科のいる世界にはあってしまったのだ。
「シャバいことやってるところも当然ある。窃盗とか違法薬物の売買とかな。そうするしかねえやつらもいる。だから抗争とか起きんの」
「……仁科のところは?」
「『ウェストサイド』は緩衝材みたいなもんだ。マニラ一帯のギャングの衝突を予防する役。普段は金もらって緊張を和らげて、トラブルが起きた時には第三者として仲介する」
「それって……不良グループなの?」
「やる時はやるからな。それにメンバーの多くは、底辺層のストリートチルドレンだ。物乞い、家無し、被虐待児、前科者──居場所のないやつらが傷を舐め合うための集まり。それが『ウェストサイド』」
ふと彼が視線を遣る。その先を追えば、そこには先ほどまで噂話をしていた女子生徒たちの姿があり、こちらをこっそり盗み見ていた一人が狼狽えて顔を背けるのが見えた。
「まあ、良くないもんには違いねえ」
首を竦める仁科に、僕は静かに口を噤む。僕がどうこう言うまでもなく、彼は自身がどのように語られているのかをわかっていた。それは正邪の判断がついている一方で、自らその身を「悪」に置いていることからも察せられる。では、なぜ彼は少年ギャングのリーダーなんてものを務めているのか。
(……見捨てられないのか)
仁科とのこれまでを鑑みれば明白だった。彼は、とても優しいのだ。僕みたいなやつにも世話を焼いて、危険なことからは守ってくれる。しかしそれは言い換えれば、彼が自分より他人を優先してしまう人であることの表われなのかもしれなかった。
考えと行動とが矛盾していることに、仁科はちゃんと気づいている。だが仲間たちはそろって生活環境が悪く、行き場がない。そんな中、彼が上に立っていることで、かろうじて踏みとどまっていることがあるのだろう。だから非難も畏怖も受け入れる。蔑視すらも当然とする。……けれど、それはなんだかやるせなかった。
「……大変なのはわかった」
僕はそう言うと、改めて仁科に向き直る。が、真剣な顔つきはつかの間のことで、その後すぐに引き締まった空気を解いてはにっこりと笑ってみせた。
「前々から思ってたけど、仁科ってすごいね。同い年とは思えない」
「そりゃあ、お前よりかはすごいだろ。お前馬鹿だし、ドジだし」
「久しぶりに喧嘩売られた気がする! よーし、今度こそ買うからな~……って、そういうんじゃなくて」
こほんと咳払いし、話を元に戻す。僕は別に、彼を単に褒めたいわけではなかった。ただ寄り添いたかったのだ。彼が「良くないもの」だという、彼のあり方を。
「大変なこと、やっててすごいよ。誰にでもできることじゃない」
「……どうだか」
「マジで言ってるんだけど」
仁科はその言葉を素直に受け取ろうとはしない。が、それはそれでかまわなかった。きっと正しいことではないのは確かだし、彼にも様々な考えがあるからだ。
ただ、聞いてくれるだけでよかった。僕が彼に、「君を肯定したい」と言った時のように、「ずっと君の味方だ」と言った時のように。
「仁科だからできることだよ。僕はそれを良いとは言いきれないけど、悪いとも思えない」
あくまで僕の価値観における話だ。基準は一般的な善悪ではなく、僕がどう思ったかだけ。ゆえにそれはあてにならず、何にもならない意見だったが、今まさに僕が思っていることそのままだった。
「……へえ。吾妻クンって、意外とワルい子なのねぇ」
「仁科クンが友達だからなぁ。類は友を呼ぶってやつだよ」
他愛もない掛け合いに、僕たちはそろって笑う。まったく馬鹿らしいやり取りだった。これでは女子生徒らの世間話と何が違うかわからない。けれど、どんなに言葉を費やしたところで、そして危ないからと心配したところで、僕が彼のためにできることはそう多くなかったから。
(僕は、君を一人にはしないよ)
仁科の背後に見える窓の、そのむこうのマニラ湾のブルーがひどく美しい。九月も終わりに差し掛かってなお、湿った風がシャツにまとわりつくのが鬱陶しかった。




