第四話(2)
上映後、僕たちはモールを出てすぐのベイサイドウォークに訪れていた。
すっかり日の沈んだ真っ暗な夜の海に、繁華街の人工的な光の粒がきらきらと輝いている。フィリピンでは九月に入るとクリスマスの準備が始まるが、そのせいもあって街明かりは一段と明るく、建物の縁からシャンパンゴールドの煌めきが滲み溢れていた。
押し寄せる波の砕ける音が、穏やかな夜の静けさを際立たせる。幻想的な風情もあって、そこはとても美しかった。「良いところに連れてってやる」と、仁科が太鼓判を押すだけのことはある。
「映画、わりと面白かったな」
生温い夜風に当たりながら、沿岸に従って延々と続く遊歩道を歩いていく。何気なくかけられた仁科の言葉に、僕はうんと同意を示してみせるが、思いがけず「本当か?」と首を捻られてしまった。
「さっきからずっと、心ここにあらずって感じだぞ」
「なんだそれ」
とぼけてみるがいまいち決まらない。実際、僕はあの後映画に集中できず、どんな話だったのかさっぱり覚えていないほどだった。頭の中にあったのは、今もすぐそばにいる仁科のことばかり。しかし正直に「君のことが気になってて」とは、小っ恥ずかしくて言えるはずもなかった。
「そんなことないよ。面白い映画は、やっぱりのっけから面白いんだなって再確認できた」
「でも途中だれてたろ。それに、タイムトラベルがキーのくせに、時系列ずれてなかったか?」
「え、まじで? 気づかなかった」
「ちなみにそれ、話のオチだったけど。やっぱちゃんと見てねえな?」
「…………」
しまった、裏を掻かれたと思った時にはもう遅い。僕は歩くつま先を見下ろしながら、「ちょっと、ぼーっとしてて」と正直に認めることにする。
「ごめん。せっかく映画誘ってくれたのに」
「……つまらなかったか?」
「それはない! うん、そうじゃなくて……」
言葉を探そうとして口籠もる。僕はどうしたものか、と内心で頭を抱えた。
(なんで、こんな風に思うんだろ)
原因はわからなかった。でも事実として、仁科を見ると胸がドキドキするし、話しかけられれば声がくすぐったいのだ。ただ隣にいるだけで気分が上がって、こうして出かける時間が楽しい。それはこれまで出会った人たちに抱いた気持ちと似ているようで、どこか少しだけ違っていた。
(何が違うんだろ?)
そう考えた時、ふとあの映像が頭をよぎる。まるで穴が空いたように真っ黒に塗り潰された顔──あれのせい、なのだろうか。あの異様な光景を、仁科の秘密を知ってしまったから、僕は彼を気にしてしまうのだろうか。だが、それではこの恥ずかしさの説明がつかない。おそらくそれは関係すらない。
いつからか、僕の視界には仁科がいるのが当たり前になっていた。思えば転入初日の時点から彼と一緒にいることが多かったわけだが、その時間も今になってうんと長くなったように感じられる。教室にいる時も、放課後の時間も、隣にいるのはいつだって彼だ。そしてそのせいか、僕の感情が揺さぶられる瞬間には、いつも彼の姿があって。
今日、仁科が僕の好きなものを覚えていてくれた時、気持ちが舞い上がるほど嬉しかった。反対に、以前彼が自分の「好き」を否定した時は、ひどく悔しくてたまらなかったのを覚えている。……彼といると、不思議と胸がざわついて、気持ちが落ち着かなくなってしまう。けれど図書室で顔を見られなくなったのも、映画館で音が遠のいたのも、上手く説明することはできなかった。どう言語化するのが正しいかわからなかった。
(仁科が、大事な友達だから?)
たぶん、違う。彼はたしかに大切な友達だし、何がどう違うのかは言えないが、それだけははっきりしている。だから今は「仁科が仁科だから」とでしか表せなくて、けれどそれが一番しっくりきた。
「……仁科」
そっと彼を呼び止めれば、彼の横顔をライトアップが照らし出す。身長差の分、少しだけ先を歩いた彼が振り向こうとする手前で、僕は腕を伸ばすと彼の手を掴んだ。
明らかに驚いた様子の彼を、優しく海風が撫でては前髪を散らす。仁科の手は温かくて、そして少しだけ汗ばんでいた。
「どうした?」
「あ、あのさ……僕、君に言いたいことがあって!」
が、そう言って引き止めておいて、僕はすぐにその口を閉ざした。何かを言うつもりはあったものの、まだ言葉がまとまっていなかったからだ。「えっと、その……」とごにょごにょ言い淀んでは目瞬き。不意に視界に入った、僕と仁科の繋がった手を意識すれば、顔がかっと赤らむのを感じた。
「……お前」
「あっ、ごめん! そういうつもりじゃなくて……って、どんなつもりだって話だよな。あは、あはは……」
「…………」
良くない流れだ、と本能が警鐘を鳴らす。自分としても望んでいない展開に、僕は繋いだ手を離そうと腕を引く。が、その手指は予想外にも、仁科の手に強く握られて。
彼は決して、離してはくれなくて。
「言って」
「……え?」
「言え」
命令口調とともに、仁科の眼差しが僕を真っ直ぐ貫く。それは強引さを感じさせながらも、同時に彼の、物事へ真面目に向き合おうとする真摯さが表われているようだった。だから僕はかえってごまかせない。きちんと口にするまで離してもらえないことをわかっていたから。
「おかしなこと言ってたらごめん」と前置く。そのうえで、僕は思ったことにそのまま、言葉を当てはめてみることにした。
「僕は、ずっと君の味方だからな」
「…………」
「ヘ、ヘンな意味じゃない! ただ……もし困ったことがあったら、いつでも僕に言ってくれよ」
「……は? なんだよ、急に」
仁科はおどけつつも眉をひそめ、怪訝な目を向けてくる。反応はもっともだった。誰だって、前触れもなく「味方だ」なんて言われたら、どう返せばいいか困るに決まっている。それでも僕は今すぐにでも伝えたかった。彼の存在が、僕の気持ちの真ん中にいることに気づいたから──それくらい、彼は僕にとって特別な存在だったから。
繋いだ手が温かくて、ほっとした。この体温が今ここにあることが、ただ嬉しかった。仁科のこれまでに何があったのかはわからない。一度失われた命だと思えば、空恐ろしくなる。だからこそ……嫌なのだ。もし彼が傷つくようなことがあったら。もし何かが起きて、遠くへ行ってしまうようなことがあったら。怖いのだ。本気で、怖かった。
だから、なるべく一緒にいたいと思う。
「僕、仁科より馬鹿だし、喧嘩とかできないけど……それでも、何かの役には立つと思う。だから、仁科の方こそ、何かあったら言ってよ」
絶対に、力になるから。
ぎゅっと握った手に、もう片方の手を重ねる。これ以上ないほど真剣に見つめると、彼はその気概に押されたようだった。言葉を失って、表情がわずかに歪んで──ふわりと、はにかんで。
「……恥ずかしいやつ」
フッと笑みをこぼす仁科に、僕は「なっ!」と声を上げる。しかし、あれだけ格好つけた手前、この状況はどう考えても気まずかった。それも同性相手に、熱烈に手を繋いでいる始末だ。自覚してしまえば最後、顔から火が出そうになれば、僕はその手を離そうとする。しかしその瞬間、彼の指が、はぐれそうになった僕の指先を掴んだ。
「離すなよ」
呆気に取られた僕の耳に、仁科の声が入ってくる。小さく、けれどたしかにそう言った。普段の鮮明な声ではない。どこか震えていて、その響きが胸の奥にじんと染みた。
「なんで……?」
思わず問い返すと、仁科はそろりと視線を逸らした。「……お前が言ったんだろ」というその声音は、まるで僕を責めているようにも聞こえた。それでも、繋いだ手だけは離そうとしない。
「何かあったら言えって。だから今、離されたら困るっていうか……」
「えっ! 困ってるの!?」
ぼそぼそとした声を、しかし僕は耳聡く拾う。だから叫んだのはほとんど反射で、すると場の空気は見る間に、まるでガラスが割れるかのように一気に吹き飛んだ。残されたのは、やる気満々で鼻息を荒くする僕と、そんな僕を解せない目で見つめる仁科。
「お前って……」
「……うん」
「……ホント、馬鹿だよなぁ」
「……え? 困ってるんじゃないの……?」
お手上げとばかりに仁科がため息をつく。が、まもなく彼は失笑すると、やがて腹を抱えて笑い出した。それは今まで見たことのないくらいの爆笑。何がそんなにおかしいのか、僕にはさっぱりわからない。しかしちんぷんかんぷんに戸惑う中で、ふと彼の笑顔が目に入れば、僕はそっと顎を引いた。……どうやら、僕の心配は無用だったようなので。
「仁科、困ってないの? それならいい」
念を押すように尋ねる僕に、彼はひとしきり笑い終えては呼吸を落ち着かせる。問いに頷く彼が、「何も困ってねえよ」と言いきるのを聞けば、僕はようやくその胸を撫で下ろした。では、なぜ僕を呼び止めたのか──それは僕が尋ねる前に、仁科の方から答えを口にする。
「……お前が味方だって言ってくれたのが、嬉しかっただけ」
それだけだ、と言うように、仁科の握る手にかすかな力がこもる。ひどく笑った後のせいか、その顔は血色よく赤らんで見え、それがまた彼の顔立ちの良さに花を添えていた。
(顔綺麗なんだよな、ホント)
羨ましいわけでも、憎たらしいわけではない。ちっとも悪い気持ちではなくて、上手く言えないが、それはどこか甘いジュースの炭酸が弾けるみたいだ。しゅわしゅわとほんのり刺激的で、飲み込むと胸の辺りが熱くなるような。
そっと手を握り返せば、仁科は驚いたように目を瞬き、それから眩しいものを眺めるように目を細める。
「に、仁科が……離すなって言ったから」
照れくささに言い訳めいたことを口にする。その弱腰が祟ったのか、狙ったように潮風が吹きつけてくれば、僕の髪は途端にかき乱された。挙げ句「うわっ」と情けない声を上げてしまえば、せっかくの面目は丸つぶれ。雰囲気も締まらず台無し。けれど彼は、そんな僕と繋いだ手を離そうとはしなかった。
(……ああ、そういえば)
遅まきにも、僕は当然のことに気づく。それは仁科がいつも僕の視界に入るということは、それだけ彼がずっとそばにいてくれていたということ。世間知らずでドジな僕に呆れたり、面倒くさそうに眉をひそめたりはしても、彼は一度も僕を拒絶して離れていったことはなかった。それは彼の面倒見の良さゆえなのか。それとも、僕を「友達」だと思ってくれているからなのか。
(「友達」、か……)
胸の奥が、ちくりと刺されたように痛む。それは不思議と、同じ音の別の言葉のように思えたから。
仁科の言う「友達」は、はたして僕の「友達」と同じなのだろうか。……いや、そもそも僕にとって、彼という友達は何なのだろう。
「……どうかしたか?」
「え? あ、ううん。なんでもない!」
「せっかくだし、露店でも見て行かないか」
「うん……いいね」
仁科に手を引かれ、僕たちは歩き出す。向かう先は暗い海とは反対側、光の賑わう街の方だ。けれど僕の胸の中には、言葉にできずモヤモヤとしたわだかまりが残っていて。
きっと、それがきっかけだった。まるで、いつもの距離に戻ろうとするみたいに……あるいは、普段のままでいようと心がけるみたいに──明るい通りに出た瞬間、僕たちの手が自然とはぐれてしまったのは。
(九月なのに、クリスマスか……)
真っ直ぐ目の前だけを見つめる。イルミネーションの輝きが、僕の黒い目にはいたく眩しく感じられた。




