第四話(1)
「──というわけで、今日はこれで終業とする。最近は未成年の薬物犯罪が頻発しているらしいから、みんな気をつけるように」
「や、薬物って……」
授業を終えて帰りの準備を進める。毎度耳にする教師の注意は、最近になっては恐怖より慣れが先行して、初日の教室で他の生徒が平然としていた理由が何となく察せられていた。
「薬物注意だってよ。ヤンキーくん」
からかってやろうと前の席に声をかければ、こちらを振り向いた仁科は予想外にもの鬱げな顔を見せる。話によれば、少年ギャングを仕切る立場の都合上、その手の話がたびたび耳に入ってくるのだという。麻薬の売買が原因でグループ同士の抗争に発展することもあるようで、彼にとってはかなり深刻めな問題のようだった。
「去年のクリスマス頃にもデカいのがあってな、それは死人が出たくらいだ」
「ええ……何それ、怖……」
「お前もせいぜい気をつけておけよ。おかしなやつに捕まんないようにな」
「ふん、こっちのセリフだっつの!」
子ども扱いが気に食わず、イーッと歯を見せて威嚇してみせれば、仁科はやんわり目を細める。生温かくも思える眼差しは、ちょっぴり気恥ずかしくて居心地が悪い。「いや、今のは……」と慌ててごまかそうとしたその時、「あ、そうだ」と仁科は思い出したように声を上げた。
僕の目の前に、一枚のチケットが差し出される。券面には大きく「MOVIE」の文字。
「知人から映画鑑賞券をもらってな。好きって言ってたし……これから一緒に見に行かないか」
「え、いいの!? でも、なんで僕……? 親御さんとかは?」
「前も言ったろ。仲悪いって」
よく見れば、この鑑賞券にはペアチケットであることが記されている。一人の鑑賞でもかまわないが、せっかくならと、つまりは仁科なりの親切心らしかった。
「い、行く! 仁科と映画見たい!」
胸がじんわり温かくなる。興奮のまま誘いを受ければ、彼はほっとしたように口角を緩めてみせた。
デイパックを背中に学校を出る。そのまま僕たちは、パサイ・シティ西部──マニラ湾を一望するショッピングモールへ向かった。
「──こ、ここが……」
辺りを見渡しては嘆息を吐く。異国の地で映画を見るという体験は、僕にとって特別な感覚だった。シアター内に入った瞬間から、そこにはどこか日本とは違う空気が漂っていたからだ。照明の色も、ポスターの並び方も、そして人々が話す外国語も、僕の知る「映画館」とはまるで異なる。
右往左往に視線を巡らせては、僕は再び大きく息を吐いた。
「何。緊張してんの?」
「いやぁ、そういうつもりじゃないんだけど……」
強いて言えば、高揚していたのかもしれない。映画館なのだから、映画を見る場所に違いはないのだが、それでもこの場の雰囲気というものがある。それが僕にとっては新鮮で、胸がときめいていて。
気分はまるでアミューズメントパークにでも訪れたよう。つまり僕ははしゃいでいた。
「どれがいいんだ?」
仁科に差し出したパンフレットへ目を通す。邦訳ではないタイトルは見慣れず、また馴染みのない作品もいくつかあるのが興味深かった。一本だけだが、日本の作品も上映されているようだ。
「仁科は何が見たいの?」
「お前が好きなのでいい」
「一緒に決めようよ」
「俺は何でも楽しめるから。それにこういうの、詳しいお前が選んだ方が良いだろ。映画オタクのススメなら確実だ」
「げ。責任重大じゃん」
しれっとミッションを課せられていたことに気づけば、彼はやいばをひけらかした意地悪な表情を浮かべてみせる。……さすが不良、この悪ガキめ。
「じゃあ、この恋愛映画かな。アカデミー賞候補筆頭作」
「は? 馬鹿。さすがに男二人でロマンスはない」
「でも仁科は何でもいいんだろ?」
「お前はどっちかっつーと、これだろ」
彼が目星を付けた作品に、僕はその目を丸くする。……タイムトラベルもののアクション映画。それはラインナップの中で最初に僕の目に止まった作品だったからだ。図らずも口元がニヤけてしまう。
「なんでわかるの?」
「好きだろ、時間もの」
「前言ったの、覚えてたんだ」
「……んだよ。何か文句あんのか」
「ないよ、ちっとも」
「ただ嬉しかっただけ」という言葉は、この際胸に仕舞っておくことにする。それは本心だったが、仁科の性格的に額縁通り受け取ってくれることは期待できなかったからだ。
仁科という男はまったく卑屈だった。今も態度は反抗的だというのに、律儀に僕の「好き」は守ろうとしてくれている。他の場面にしろそうだ。いつも僕を気遣って、顔にも言葉にも出にくい不器用な優しさを、代わりに行動へと表わしてみせる。それくらい僕のことを考えてくれているのだ。……本人は絶対に認めないだろうが。
「じゃあ、これ見るってことで」
「わかった」
窓口で鑑賞券を引き換え、売店へ向かう。そこでは日本と同じように、ポップコーンを初めとする軽食やスナック、ソフトドリンクが販売されていた。見慣れないのはブランケットくらいだろうか。
「何か食う?」
「僕は良いかな。映画に集中したいから。仁科は?」
「飲みもん買う」
そう言って、彼はコーラのLサイズとブランケットを買う。「なぜブランケット……?」と思っていたものの、それはスクリーンに向かえばすぐにわかった。
「え! ここの席、風強っ!」
「空調あんましよくねえんだよな。いつも冷房ガンガン」
巨大なスクリーンを前に所狭しと並べられた座席。劇場内は外の気温に合わせてかなり冷たく設定されており、場所によってはエアコンが直接当たるようになっていた。だからブランケットが必要だったのだ。周囲を見渡せば、わざわざ上着を着込んでいる人も見える。
「使うか? これ」
「いやいや、さすがにいいよ。だって仁科が買ったやつじゃん」
「かまわねえよ。俺はほら、長袖だし」
ひらひらと腕を振ってみせる彼に、僕はふと、この際だからとこれまで疑問に思っていたことを尋ねることにする。それは彼がなぜいつも長袖なのか。すると彼は意味深に顔を顰め、「ここだけの話な」とその声を潜めてみせた。
「ギャングのタトゥーが入ってんだよ。それが先公にウケが悪くて。ほら、あいつら不良にうるせえから」
「えっと……つまり?」
「不良やってるってバレないようにしてる」
「いや、バレバレだよ。全然意味ないよ」
冷静にツッコむ僕とはうらはらに、仁科は首を傾げてしらばっくれる。どうやら「学校での評判が悪くなるから」という理由らしいが、普段の態度を見ればその努力は無に等しかった。しかも長袖のせいで暑いことには変わりないらしく、いよいよ本当に意味がない。なのに、なぜかその無駄さがひどく愉快だった。
「仁科もそんな馬鹿するんだな」
周りの迷惑にならないよう声を押し殺して笑うと、彼もつられて表情を緩める。「お前よか頭良いし」、「そういうことじゃないよ」と、そんなふうにコソコソ言い合っているうちに、気づけば上映時間が近づいていた。
会場が暗くなり、スクリーンが独擅場を迎える。物語は開幕からオーディエンスの注目を掴むと、それから先は固唾を飲む音さえも効果音の一つのようだった。めまぐるしいストーリー展開、明かされていくキャラクター相関、鮮やかでパワフルな視覚効果。そのどれもが作品としての映像を引き立て、心弾む爽やかな感動を生む。「面白い」と、ただそのひと言だった。時間も場所も忘れて、僕は映画の世界に飲み込まれる。
「……吾妻」
それは僕が、ふいと身じろぎをした時のこと。隣から小さな声がかかれば、続けざまに膝の上へふわりと温もりが落ちた。それは仁科が買ったブランケット。寒がっていると思われたのか、彼は気を利かせてくれたようだった。僕は「悪いよ、大丈夫だよ」と言おうとして横を向くが、当の仁科は何事もなかったようにスクリーンを見つめていて。
暗がりの中、頬杖をついた横顔が、スクリーンのちらつく光に照らされる。アーモンドブラウンの瞳は長い睫毛に縁取られ、通った鼻筋が影を落とす。……なんて、整った顔立ちなんだろう。思いがけず見入ってしまいそうになり、しかし彼が気づく前に慌てて視線を逸らす。
「…………」
罪悪感みたいなものを覚える。そのせいか、胸の奥がツキりと痛んだ。心臓がやけに大きく鼓動すれば、それとは反対に映画のサウンドが遠ざかっていくようで、頭には欠けらも内容が入ってこない。いつもなら胸が沸き立つようなアクションも、網膜がチリチリするような派手な演出も、まるで上の空。あくまでスクリーンのむこう側、別世界のことだとどうしても集中できなかった。
だって今、僕は隣が気になって仕方がないのだ。
(あ。そういえば字幕……)
全編英語音声のこの映画には、日本で鑑賞する時のようなサブタイトルがない。公用語の一つが英語であるこの国で、そんな当たり前のことに僕は今さら気づく。
映画一本がこれほど長く感じたのは、これが初めてだった。




