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第五話(2)


「それじゃあ、仁科。また明日ね」

「おう。またな」


 いつものように学校を終え、下校を共にした僕たちは、そのまま駅前で別れを告げた。

 ここから先はそれぞれ家路が分かれる。彼は僕とはまったく別方向へ足を向けると、夕暮れに染まる街の中へと消えていった。


「…………」


 僕はしばらくその姿を目で追い、同じように帰り道に付こうとする。が、それは見せかけで、すぐに振り返っては街路樹の陰に身を隠すと、遠く離れていく仁科の背中をじっと観察した。息を詰め、よくよく機会を窺っては、気配を殺して後を追う。


 ──帰ったら、仁科は何をする予定なの?

 ──今日は……「ウェストサイド」の集まりに行くかな。


 仁科を尾行しようと思ったのは、昼間のやりとりがあったからだろうか。僕はその日、初めて「パサイ・ウェストサイド」という組織の存在に興味が湧いた。そこでリーダーを務める彼の姿を、自分の目で確かめたいと思ったのだ。

 バレないように細心の注意を払いつつ、その背中に付いていく。夕陽が燃えて炭になり、空は橙から濃紺へと次第にその色を塗り替える中、仁科の歩く道は駅前の明るい通りから、徐々に場末へと外れていった。

 人通りが減るにつれ、代わりに古ぼけた建物や錆びた看板が目につくようになる。舗装の甘く、土が露出した道路。煤けた壁にベニヤ板を打ち付けた家。無数の布が蜘蛛の巣のように垂れ下がる路地──空気はじっとりとした湿り気を帯び、どこかほこり臭さが漂う。賑わう中心地から離れ、人通りの少ない路地に入れば、不穏なムードに足が竦んだ。それはこの辺りのほの暗い雰囲気が、僕の知らない彼の側面をそこはかとなく象徴しているように思わせてくるからだろう。濁った水たまりを足元に、耳元をぶんと蠅の羽音が響けば、僕はスマートフォンの入ったサブバッグをぎゅっと胸に抱えた。

 さらに進むと、辺りはより殺伐さを増していった。薄暗い道にはどこを見るでもない人々が蹲り、遠くでは誰かが叫び声を上げているのが聞こえる。が、まるでこの空気が当然だと言わんばかりに、すれ違う人々がそれらを気にする様子は見られなかった。仁科もまた、迷うことなくその歩みを進めていくものの、当の僕はただ付いていくことにすら必死で、心臓はまったく落ち着かない。

 やがて、仁科は一つの建物の前で立ち止まる。金属板に合板、廃材。あり合わせの材料で建てられたそこには、数人の少年たちがたむろしており、彼はその中心へ自然と溶け込むように歩み寄っていった。……おそらくここが、彼がリーダーを務める「パサイ・ウェストサイド」のアジトなのだろう。隠れ家のようなその場所には、彼とその少年たちを除いて人は見られなかった。


(ん? あの人……)


 家屋の影に隠れながら目を凝らす僕は、そこに仁科ともう一人、見知った顔があることに気づく。半袖の腕から覗く、ベリーの枝のタトゥーを見るに間違いない。それは以前、仁科と雨宿りした教会で会った人物──名前はそう、ジョンさんだ。

 彼は仁科の荷物を預かると、同時に周りの少年たちに何かを指示し、その場からどこかへ走らせる。そうして仁科と二人きりになったのを見計らうと、ひどく真剣な面持ちで口火を切った。


「昨日、ここら近辺まで警察の捜査が入った。東の方のやつらが、海外マフィアと手を組んだらしい」

「耳に入れてる。今日もその件だろ」

「ああ。内部に裏切り者(ラット)がいてな。ウチがそこに関わってるってデマ流しやがった。介入されるのも時間の問題だと思うが……」


 それより、とジョンさんは話を一度中断する。用心深くを周囲を見渡しては、声を潜めて仁科に何かを囁いた。その声は小さく、とても僕には聞き取れない。が、当の仁科はそれを耳にするや否や、カッと目を見開くと、勢い任せにジョンさんの胸倉を乱暴に掴みかかった。睨めつける眼差しには鈍い光が宿り、殺意にも近い激情が溢れかえる。


「てめえには関係ねえって言ったよな……?」


 襟元を掴む拳にはぎりぎりと力が篭もり、甲には血管の脈が浮き出る。しかしそんな仁科に対し、ジョンさんは「関係なくないだろ!」とあくまで強気な姿勢に出ると、その手をぴしゃりと払ってみせた。


「ルカ、あんたもわかってんだろ。()()が表に出たらどうする? バレたらただじゃ済まないんだぞ!」

「別に出たとこでかまわねえよ。もう過ぎたことだ」

「っ! だからそれが良くないって──」

「じゃあ、今さらどうするってんだよ。何をする? 何ができる?」


 言い争いが大きくなり、今や物理的な衝突にまで発展しそうになる。が、二人は熱くなりながらも、それ以上踏み込むような真似はしなかった。

 仁科の問いに、ジョンさんは悔しげに唇を噛んでは目を逸らす。「そんなものねえよ……」と吐き捨てると、彼は先ほど仁科を振り払った手を眺めた。


「そもそも……あれは()()()()()だった! ルカのせいじゃない。それだけは違う」


 ジョンさんの言葉に、仁科がひくりと眉間にしわを刻む。「おい、」と不快げな、怒気の染み出た声が彼の口端から漏れるが、面を上げたジョンさんが怯みの色は見せることはなかった。


「なぁ、オレらじゃダメだったか?」

「……何が?」

「オレらが何をしても、食い止められなかった?」


 そっと尋ねるジョンさんに、仁科は煩わしげに眉をひそめる。彼の態度はあくまで冷ややか、いや頑なだった。


「食い止めるって何だよ。俺は俺がしたいことをしただけだ。だからお前らが何しようと変わらねえよ」

「……あんたらしくもない」


「そうだろ?」とジョンさんは言う。


「そんな短絡的なことしないだろ、あんたは。本当に変わっちまった。オレの知ってるルカじゃない! あんた……」


 誰、だよ……?

 つっと喉が震える。それは目の前の緊迫した雰囲気のせいか。それとも、仁科の秘密が暴かれるかもしれない恐ろしさのせいか。

 マズい、と思った。このままでは仁科の正体がバレてしまう。だから今すぐ助けに行かねばならないというのに、頭はうまく回らず、体は怯えて動かない。ここに及んでどうするのが一番いいのか、必死に考えていれば、その一瞬の逡巡を「は?」と彼の白けた声が容赦なく断ち切った。


「俺は俺だろ。ここの、『パサイ・ウェストサイド』のリーダー」


 はっきりと断言する仁科に対し、ジョンさんは苦い顔をする。「……以前のあんたならそうだったな」と、その言い回しには納得の行っていない本心が表われていて。


「あんたは強くて、聡明で、『ウェストサイド』を一番に考えるやつだった。でも、今は違う」

「お前たちの思い通りにならなくなったって? たしかにな。今の俺は間違いなく上に立つ器じゃない」

「っ、そうじゃなくて!」


 押し黙るジョンさんに、仁科は不遜な微笑とともに腕を組む。相手の内心を見事に見透かしたような仕草は、しかしすぐに仏頂面に帰結した。ジョンさんの訴えを聞いてもなお、彼はそのスタンスを崩すつもりはないらしい。俺が決めたことだと、そう言って譲らなかった。


「だからお前らに何て言われようとかまわないし、お前らはそもそも関係ない」


 仁科はそう言うと、一度ゆっくり息を吐く。「心配かけて悪かったな」と、彼の口からぽつりと漏れた謝罪に、ジョンさんはその目を剥くように見開き、何か言いかけて──しかし、すぐに視線を落とした。


「……オレもすまなかった」


 そう呟いては、頭を深く下げてみせた。


「でも、せめてあの時、オレがあんたを──」

「おい、ジョン。話はここで一旦終わりだ。ラットが来たぞ」


 仁科が話を遮ると、先ほどジョンさんが指示を寄越した少年たちが戻ってくる。よく見ると、彼らは何かを引き摺るように連れていた。両手首を縄で縛り、頭に麻袋を被せたそれは、おそらく仁科たちがラットと呼称する人物。「前に出ろ」と少年の一人に臀部を蹴られると、ラットは仁科とジョンさんの前に弾き出される。


「こいつの名前は──」

「どうでもいい。さっさと済ますぞ」


 そう言い放つと、仁科は手慣れた様子で麻袋を脱がす。覆いが床に落ちたその瞬間、現われたラットの顔に、僕ははくりと息を呑んだ。殴られた痕なのか、頬は潰れたように腫れ上がり、口元にはべっとりと乾いた血がこびりついていたからだ。しかしそれでも男は、睨みつけるようにその荒んだ顔を持ち上げてみせる。


「よお、ルカ。今日も相変わらずおキレイなツラしてんな」


 この場を揶揄するような物言いは、相手を焚きつけるような刺々しさを感じさせる。だがその声は震えており、恐怖にしろ強がりにしろ、男が尋常ではないことは容易に見て取れた。

 仁科は表情ひとつ変えず、男の前に立つ。その姿だけで、周囲の空気はいっそ息苦しいまでに張り詰めた。


「まだ口は回るみてえだな。なら話は早え」


 男とは対照的な、淡々とした声が響く。怒鳴りもせず、罵りもしない仁科の周りには、彼以外の自由を許さない威圧感だけがあった。


「てめえが流したデマのせいで、どうやらここは警察(ファイヴオー)から目をつけられたらしい」

「はっ、ざまあねえな」

「説明が欲しい。何が目的だ」


 男は「知るかよ」と鼻で笑う。


「勝手に怖じ気づいてんのはそっちだろ、ルカ!」


 向こう見ずとしか言えない男の振る舞いに、周囲の少年たちがざわつく。が、仁科本人はさして動じず、むしろその目をわずかに細めただけだった。睥睨とはまた違う、それは相手を憐れむような視線。


「まだ強がる気か。状況がわかってねえのは、てめえの方だろ」


 低く落とされた声に空気が震える。そのトーンは怒りよりも冷静さが勝り、そしてその冷ややかさがかえって男の肩を震わせた。仁科は暴れるつもりも、脅す気もないのだ。単にその迫力を以て対するだけ。しかしそれがどれだけ恐ろしいことなのか、僕は今日まで知らなかった。


「俺はお前をどうするつもりもない。ただワケが知りたいんだ。なぜなのか、何があったのか。それだけでいい……答えろ」

「……っ」


 言葉だけで、男の虚勢がたちまち崩れていく。仁科の声にはそんな、暴力よりもずっと絶対的な重さがあった。……と、その時だった。仁科の視線が不意に横へ流れ、暗がりの奥──僕の潜んでいる場所へと向けられたのは。


(……え?)


 視線がかち合う。程なく、どくりと心臓が嫌な音を立てれば、僕は息の仕方を忘れてしまった。固まる表情、足元が抜け落ちるような感覚。僕は茫然と立ち尽くす。が、それは仁科も同じだった。


「……誰だ」


 探るような声色には、先ほどラットを追い詰めた冷たさとは異なる、光を浴びた猫の瞳孔のようにか細い緊張感が混じっている。「……おい、ルカ?」とジョンさんが声をかけても、仁科は聞く耳を持たず、真っ直ぐこちらを見据えた。


「……吾妻?」


 仁科の唇が、明確に僕の名前を刻む。それはこの状況で最も関係のないはずの言葉なのに、彼はたしかにそう口にしたのだ。驚きなのか、呆れなのか、あるいは別の感情なのか──その声に込められた色は読み取れない。ただ、肌に感じた後ろめたさに押されるようにして、僕はその場から一歩後退っていた。


(に、逃げないと……)


 咄嗟にそう思った。このまま仁科に捕まれば、尾行していたことも、盗み見ていたことも全部バレてしまう。それは嫌だった。きっと彼は、そんなことをしでかした僕を軽蔑するからだ。だが、それなら初めから、彼の跡をつけようなんて思わなければよかったわけで。


 ──僕は、君を一人にはしないよ。


 そう、誓ったはずなのに。そしてそれは、そんな顔をさせるような意味ではなかったのに。どうして知ろうとしてしまっただろう。ここまで来たことの、今さら何を後悔しているのだろう。勝手に他人の領域に踏み込んだのは、友達を裏切るような真似をしたのは、僕の方だ。それなのにどうしてか、胸が苦しくて泣きそうだった。胸の奥でつっかえるものに、今にも反吐が出そうだった。

 退いた拍子に、泥を踏み抜いた靴に汚れが跳ねる。眼前の裏切り者には一瞥もくれず、仁科が真っ直ぐこちらへ歩み寄ってくるのを目の当たりにすると、僕は反射的に踵を返し、走り出した。今はただ、この場から離れなければ──いや、彼から逃げなければと思ったからだ。だって僕は……見つかってしまったのだから。

 日が暮れゆく街中、僕は来た道をひたすらに走り抜ける。入り組んだ路地はその薄暗さの濃度を増し、いっそ物々しいまでの暗澹たる雰囲気をまとい始めていた。が、それを恐れているほどの余裕は今の僕にはない。


「吾妻!」


 背中に鬼気迫る仁科の声が刺さる。背後を一瞬窺えば、彼はあの場を置いてまでして追いかけてきているようだった。僕は一歩でも先にと懸命に走るが、既に呼吸は乱れ、足元は縺れ始めている。もともとの体格、運動量からして、彼に追いつかれるのはもはや時間の問題だった。


「はぁ、はぁ……っ、はぁ……!」


 僕は辺りを見渡し、そして目に付いたものに閃く。道を二回折れて、滑り込んだのは崩れかけたブロック塀と路駐された大量の小型バイクの間。背筋を小さく丸め、影に入るように体を潜り込ませれば、夜闇を迎えつつある雑多な風景は僕の姿を隠してしまった。

 荒い息を押さえながら、車体同士のわずかな隙間から外の様子を覗く。しばらくすると仁科が通りに姿を見せ、右に左にと周囲にギラギラした視線を巡らせた。走ってきたところだからか、汗ばんだ顔には熱気がこもり、焦りがそのまま滲み出ている。そのせいか、僕がすぐ近くに身を潜めていることには気づいていないようだった。

「どこだ……」と掠れた声は、まるで狼狽がそのまま形になったかのよう。今の彼は何かの拍子に糸が切れてしまいそうに見えた。


「ルカ、」


 そこへ、後から追ってきたらしいジョンさんが合流する。彼は仁科の顔色を確かめようと手を伸ばしたが、その手はあっさりと振り払われた。僕が思っていた以上に、仁科は動転しているようだった。まるで、あのバクラランの教会で見た時のように。


「なんでだよ……」


 力の抜けた声を落とすと、仁科はそのまま膝を地面につける。頭を抱え、蹲った肩が小さく震えている。そんな彼の前で、ジョンさんはきつく奥歯を噛みしめながらも、そっと背中に手を添えた。


「ルカ、まずはゆっくり深呼吸しろ」


 優しく撫でるように背をさすりながら、落ち着かせようと声をかける。


「見間違えかもしれないだろ? だから今は落ち着け」

「でも……俺が……」

「大丈夫だから。しっかりしろ」


 仁科の喉から、うう、と押し殺したような唸り声が漏れる。まだ月も昇らない半端な空の下、ジジッと音を立てて点灯した街灯が、束になって絡まりあった電線もろとも二人の影を地面に落とした。


「俺がやったことだ……俺がすべて責任を取らないと……」


 仁科が何を言っているかわからない。僕は彼の多くを知っているわけではないからだ。だが無知は時に人を傷つけるもので、ゆえに僕の軽はずみな行いは、彼をこうして苦しめてしまっていた。


(なんで……なんで僕、こんなこと……)


 こんなことは望んでいなかった。こんな仁科の姿を見たいわけではなかった。僕はいったい、何をしでかしてしまったのだろう。

 仁科の驚いた顔が、頭の隅にこびりついて離れてくれない。僕の名前を呼んだ声が、耳に残って消えてくれない。胸が痛い。少し前まで怖かったはずなのに、今は同じくらい申し訳なくて、苦しくて。


(……ごめん。ごめん、仁科……)


 僕がここにいなければ、こんなことにはならなかったのに──その罪悪感も虚しく、涙が頬を伝って落ちていく。

 やがて二人がその場を去ると、僕もまた駅前の明るい通りに戻る。とぼとぼと力無い足取りとともに、僕はすんと鼻を啜った。


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