本当の名前は
「馬鹿な!あの男、腹を貫かれて動けるというのか!?」
信じられん、と続いたエルデの言葉にハエンもフウも同意せざるを得ない。だがそれ以外にも信じ難いことがもう一つ――今度はハエンの口から驚愕に染まった声が出る。
「どうして、あんなところにいて平気なんだ!?」
カルハはいる場所は氷扇の近く。その力が漂う地のど真ん中。そんな場所にいながら、その影響を全く受けている様子がない。
あまりに不可思議な光景にエルデとハエンが言葉を失うなか、興味深そうに状況を観察をしていたフウがカルハのいる場所を指差す。
「あそこだけ力が避けていってるんだよ。ほら、あいつの足元見てよ」
ハエンは言われた通りに目を凝らす。
地面を覆い尽くしているはずの氷がどういう訳かカルハの足元にだけ無い。白い霧状になって見える冷気の力も不自然に歪曲し、一切カルハに触れないように漂っている。まるで、彼のいる場所だけが透明な何かに包まれて守られているかのように見えた。
「何らかの魔法具とやらを使っているのか?それとも技能か……?」
「そんなものカルハは持ってなかったと思うが……。一体どうなってるんだ?」
そうこう言っているうちにカルハが動き出す。
倒れそうになる身体を必死に踏ん張って支え、生まれたての小鹿のように全身を震わせながら歩き、傷口を押さえる手は真っ赤に染まっている。
満身創痍――その言葉以外に思い浮かばないようなボロボロの身体にも関わらず強い輝きを秘めたその瞳は、真っ直ぐ目の前の魔族に向いていた。
「…………氷……扇……」
そして、その魔族の名を口にした。
「……分かるのかよ、あの魔族が氷扇だって……」
ただの一従騎士であるカルハは精霊の存在すら知らないだろう。当然古代遺物と精霊、魔族の関係性など知るよしもないはず。
だが――そんなことなど知らずとも氷扇という古代遺物を想い、大切にしてきたカルハにしか分からないものがあるのだろう。言葉では言い表せない、心で感じる何かが。
『………………』
そんなカルハを、さっきまで暴れていたのが嘘のように静かに氷扇は見つめる。感情のない能面のような顔に成り果てたにも関わらず、そこには穏やかさと親愛――そして悲しさが入り交じった複雑な表情が刻まれているように見えた。
それを見てハエンは思い至る。
氷扇の力が不自然にカルハを避けているのは、彼女自身の意思であると。愛する者を傷つけたくないという強い意思が、魔族と化してもなお残り続けているのだと。
どのような姿に成り果てようと、互いの存在を認識できる――それ程までに二人の想いは強いのだと。
「氷扇……お前、なのだろう?」
カルハは氷扇を見上げる。対する返事はないが、氷扇は否定の意を込めて顔を背けたように見えた。
「……はは、しらを切ろうとしてもとしても無駄だぞ……。某には……分かるのだからな」
血に濡れた顔を微笑ませ、カルハは続ける。
「お前と出会ったあの日から……某は……ずっとお前の存在を感じていた。ただの扇に見える……あの側の内に秘められた意思を……。言葉は聞こえずとも確かに感じていた……」
語りながらカルハはふらふらと氷扇へ近寄っていく。
本当ならば止めるべきなのだろう。近づくのは危険だと声を張り上げるべきなのだろうが――ハエンも、エルデも、フウも、誰もが固唾を呑んで見守っていた。
本来動けるはずのない大怪我にも関わらず歩み寄る男の姿――変わり果てた相棒への強い想いが起こす奇跡に等しい光景に、口を挟む余地など無かった。
「……正直に言えばそれに気づいた時……最初は気味悪く思ったものだった……。だが長い時を共に過ごしていくうちに……お前は某にとってなくてはならない存在になった……。語りかけるたびに……言葉ではなく心で反応を示してくれたお前が……愛おしくて仕方なくなった。だから……誰に何と言われようと、道具に語りかける変人だと思われようと……お前と共に生きたいと思った……!」
足がもつれ、カルハの身体が大きく揺れる。倒れるすんでのところで踏みとどまり、歯を食い縛る。
氷扇は、そんな彼が来るのを待ち望むかのように静かに目を向けていた。
「ハァ、ハァ……いや、思ったのではない。思っているのだ……!お前がどんな存在であろうと……某は……っ!」
更に数歩、何とか歩を進めたカルハだったがそこで力尽き、膝を折る。
――いや、力尽きたのか最初からその場所が目的だったのか分からないが、そこはもう氷扇は目と鼻の先だった。
もたれ掛かるように触れたカルハの手が巨大な氷の身体に赤い線を描く。そして、カルハは力強くこう言い放った。
「氷扇……案ずるな。某は、ここにいる……!」
――――
――どこまでも続く暗闇の空間。
何もないそこにたった一つ浮かぶのは、ぼんやりとした輝きを放つ光。
そんな場所にいつの間にかいたハエンは、これが魔族化したエルデと対峙した時と同じだと理解するのに時間はかからなかった。
『カルハ様は……私にとっての光でした』
魔族に堕ち、かたちを失いつつある精霊の魂が揺らめく。もうこれが最後の輝きだと悟っているかのように。
『言葉は届かなくても、カルハ様は私の心を感じ取ってくれていた。永遠の暗闇の中にいる私に笑顔をくれた。……精霊とか人間とか、そんなの関係ない。私は……カルハ様のことをお慕いしています』
吹けば消えてしまいそうな輝きは、更に勢いを弱めていく。
『そんなあの人に拒絶されるのが怖くて……私は自由を得ることを拒んでしまった……。私が臆病だったから、心が弱かったから……』
「…………」
『……私は……カルハ様に大怪我を負わせてしまった……』
涙をすすり上げる音が聞こえてきそうな嘆き。
ハエンは黙ってそれを聞く。
彼女の心を内に耳を傾ける――それが精霊と会話できる自分のやるべき事であると悟ったからだ。
『……だけどカルハ様は、こんな私と共に生きたいと言ってくれた。姿も素性も分からない……危険な存在かもしれない私の側に、こうやってまた来てくれた。私も、もっとあの人の側にいたい……!』
魂の輝きが灯火のように周囲を照らしていく。今にも吹き消されそうだった光が、そのかたちを失うまいと燃え上がる。
そしてそのまま近寄ってきたその光の奥に、ハエンはツグハナダの本来の姿を見た。
ツグハナダは綺麗な姿勢で頭を下げる。
『……ごめんなさい。以前、あなたの協力を拒んでおいてこんなことを言うのは自分勝手だと分かっています。ですが今度こそ、あなたの力を貸してほしいのです』
そう言って頭を上げた彼女の泣き腫らした眼の奥に宿るのは不安感と恐怖心――それ以上に美しく、力強い光が宿っていた。
『本音を言ってしまえば……まだ怖いという気持ちも、不安で胸が張り裂けそうなのも変わりません。ですがそれでも私は……本当は――』
――――
――そして元の場所に意識が戻ってきたハエンは、静かに口を開く。
「フウ」
「……うん」
何も言わずとも察したフウは人指し指を立ててくるんと円を描く。
その場に上昇気流が発生し、それにあおられてハエンとフウの身体が浮かび上がった。
「ハエン、大丈夫なんだな?」
こちらを見上げながらやや心配気味にそう声をかけてきたエルデにハエンは頷きで返すと、エルデはそれ以上は何も言わなかった。
フウの風に身を任せて飛んでいく。
その途中、氷扇が動いた。鋭く尖った腕を動かし、カルハの方へ近づけていく。だが、それを見てもハエンが焦ることはなかった。
『…………ァ……』
傷つけないようにゆっくりと、氷扇はカルハの背に手を回した。
――魔族と人間が支え合う光景を見たことがある者は今だかつていないのではないだろうか。
しかし、それも長くは続かないだろう。氷扇はカルハを見たことで一時的にわずかな心を取り戻しているにすぎない。次の瞬間には暴走を始めても何らおかしくはないのだから。
ハエンとフウは氷扇の側、彼女の力が及んでいない高さにまで降りる。
そして――ハエンは氷の身体に触れ、技能を発動させた。
「――〈精霊回帰〉!」
***
冬が明け春が訪れたように、地下空間を覆い尽くしていた氷が溶けていく。漂う冷気は嘘のように消え去り、その余韻がほんの少しだけひんやりとした空気を残していた。
――膝をつく血濡れの戦士の手に抱かれながら眠る、それはそれは美しい雪のような純白の姫。
おとぎ話の一場面のような光景をハエンとフウ、エルデの三人は少し離れた場所から眺めていた。
「…………ん……」
艶っぽい声を漏らしながら意識を取り戻したツグハナダは、まぶたをゆっくり開く。周辺の様子を探るように瞳を動かし、やがて焦点が自分を抱き支える男の顔へ合わせられていく。
「……カルハ……様……」
「それがお前の本当の姿か……氷扇」
カルハはツグハナダの透き通るような白い頬に触れる。
一瞬ピクッと身体を跳ねさせ驚いた顔を見せたツグハナダだったが、すぐに状況を理解し、落ち着いた柔らかな表情を見せる。そして、壊れ物を扱うような優しさで撫でてくるその手に、彼女の瞳からこぼれた光の粒が頬をつたって滑り落ちた。
「……シ……ユキ」
少し間を開けて発せられたその声は、目覚めたばかりなせいか掠れていた。「ん?」とカルハが聞き返したカルハの顔にツグハナダはそっと細い指で触れ、もう一度口を開く。
「私の本当の名前は……シラユキと申します」
確かな記録は何も残っていない古代遺物は、その名前を決める権利は発見者にある。氷扇という名前も発見者であるカルハが名付けたものだ。
古代遺物でなくなり精霊に戻った今、彼女にも本来の名前がある。長い間を共に過ごしてきた二人だが――それを直接口で伝えられる瞬間が、ようやくやってきたのだ。
「そうか……良い名だな。お前に似合う……美しい名だ」
そう言ってカルハは微笑む。ツグハナダ――シラユキは名残惜しそうにカルハの頬から指を離すと、今度は自分の頬に触れているカルハの手を、血に濡れることも厭わず包み込むように握る。
「本当は……本当はずっと――」
そして涙に震える唇を動かし、涙に濡れた笑顔でこう言った。
「――この手であなたに触れたいと思っておりました、カルハ様……!」




