堕ちた氷扇
その瞬間だけ、あらゆる時が止まったように思えた。
横たわったカルハから血が流れ、地面に真っ赤な円を作っていく。
死んだのか、生きているのか、遠目からでは分からない。
ハエンもエルデも言葉を出せず、瞠目しながらただ動かないカルハを見ているしかなかった。
『カルハ……様……?……ぁ、え……?カ……ル……?』
届かない声を必死に絞り出す氷扇を手に、アスタルは冷酷な眼差しを向ける。
「いい加減に目障りだ。さっさと俺の前から消えろ」
『……い……や…………!』
――ピシッと、何かが割れるような音が聞こえた気がした。
悪寒がして身体が震える。冷気のせいではない。心の底がざわめくような不快な感覚。この場にいてはいけないような強烈な警告をハエン自身の本能が発している。
『私の……力、で……あの人を………っ!わ、私のせい……で……?あ……ぁあ……!』
今度は本物の冷気がハエンの肌を刺す。その発生源は紛れもなく氷扇だが、その声を聞くことのできないアスタルは何が起こっているのか分からないといった表情をしていた。
「これは一体……!?何だ、どういうことだ!?力が勝手に……溢れて……!?」
アスタルは腕に力を込めて溢れる冷気を鎮めようとするが、止まらない。それどころか立ち込める冷気は更に強くなり、空気中の水分が霧となって辺り一面を白く染めていく
「……っ!?いかん!まさか限界か!」
身を乗りだし、エルデは叫ぶ。その言葉の意味をハエンは瞬時に理解できた。
「氷扇!しっかりするんだ!正気を保て!自分を見失うんじゃない!!」
ハエンは叫ぶ。これ以上ないくらい、必死に声をかける。
しかし――
『あ……いや……あぁ……ぁああ……ああああああ……!!』
――その言葉が、氷扇に届くことはなかった。
『あああぁあああああああああぁァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァアアアアァアアアアァ!!』
粟立つような叫喚に呼応し、冷気を含んだ霧が爆発したかのように拡散した。
「ぐっ!」
ハエンは思わず顔を腕で防護する。視界が真っ白に染め上げられ、アスタルも氷扇も姿が見えなくなってしまった。
「……駄目、だったか……」
エルデの視線が力無く下がっていくのが視界の端に映った。一度魔族化を経験している彼女は、誰よりもその辛さを知っている。たとえ声が聞こえなくとも、その苦痛と絶望を肌で感じ取れてしまうのかもしれない。
ハエンは腕を下ろし、霧の中心部に向かって目を凝らす。
徐々に薄くなっていく白の中に浮かぶ影。最初に見えたそれの正体を捉えたハエンは絶句した。
「兄……上……」
それは氷漬けになったアスタルの哀れな姿だった。
最も氷扇の近くにいたアスタルは、何が起こったのか理解する間も無かったのだろう。動かなくなったその顔には唖然とした表情が張り付いていた。
「ハエン、見ろ!」
エルデが霧の中を指差す。氷像と化したアスタルの方ではない。その隣である。
影がもう一つ。ヒトのような形をしている。だが、明らかに大きい。高さだけで三メートルはあるだろうか。
霧が晴れ、姿を見せたのは、大きなヒトの形をした氷の彫像だった。
荒削りされた氷の身体は女性を象ったようにも見え、頭部では折れ曲がった氷柱が重なりあい、長い髪のようになっていた。
顔部分に口や鼻はなく、目にあたる場所には青白い光を宿した氷塊がはめ込まれている。手足の先端は鋭く尖り、鋭利な突撃槍を思わせた。
向こう側の景色が透けて見えるほど透き通った身体の胸元には、それを魔族たらしめる刻印――魔紋が浮かび上がっていた。
もはやハエンが見た氷扇本来の姿とはかけ離れすぎて、本当に彼女自身なのかと疑ってしまいそうになる。だがエルデが魔族化した姿もまた、現在の人間の少女のような姿とはかけ離れたものだったことを思い出す。
受け入れたくないことだが、これは事実だ。正面にいる氷像の化け物こそ、紛れもなく氷扇である。
『オオオオォォォォォオオオオォォ!』
魔族の咆哮が大気を揺らす。同時に彼女の力が奔流し、地面を凄まじい勢いで凍らせながらこちらに向かってくる。
扇状に拡散するそれを避けるのは不可能。ならば防ごうと咄嗟に【大地の支配者】で防壁を作ろうとしたハエンだが、すぐにエルデに止められた。
「無駄だ!あれは壁でどうにかなるものじゃない!掴まっていろ!」
「は?掴まるって何に……うぉおおお!?」
突然地面が揺れたと思えば強い重力が全身にかかり、口を開いていたハエンは舌を噛みそうになりながらエルデの肩に掴まる。地面が二人を持ち上げるように、二人が立っている場所だけが上に円柱状に伸び上がり台座となったのだ。
一瞬にして五メートルほど上がっただろうか。魔物が放った冷気は二人の下を通り抜け、一面を氷の海へと変えてしまった。
しかしそれだけでは終わらない。エルデが伸ばした台座もまた、根元から凍りついていく。それは、まるで氷が意思を持って獲物を食らい尽くそうと這い上がってきているようにも見えた。
「まずい!跳べ!」
「と、跳ぶってどこに!?」
「こっちだ!」
そう言い残し、なんとエルデは台座から飛び降りた。
――と思いきや跳んだ先に新たな台座が飛び出し、そこにエルデは着地した。
「早くこっちに来い!」
こちらに振り返り、手を招くエルデ。
こちらと向こう、二つの足場はそこまで離れていない。〈風神〉を使わずとも全力でジャンプすれば渡れる距離だ。
しかし視界の下の方にちらつく凍てついた地面がハエンの恐怖心を煽る。
高いからではない。ただ高いだけなら足を踏み外したとしても【風神】でフォローできる。恐ろしいのは、地面を凍てつかせている絶対零度の魔族の力だ。もし触れたならば、たちまち全身が凍りついてしまうだろう。
そう考えてしまうと足がすくんでうまく動かせなかった。
「ハエンッ!」
焦燥感を孕んだことでもう一回り大きくなったエルデの叫ぶ声が、ハエンの目に現実を映させる。
ハエンが立つ台座を包み込もうとする氷の勢いが増していく。もはや一刻の猶予もなかった。焦りが恐怖を凌駕し、ハエンは勢いをつけて跳ぶ。その直後に台座は完全に凍りつき、ガラスのように崩れていった。
「あっ、ぶ……!」
慌ててエルデのいる台座に跳んだせいか、うまく勢いを殺しきれなかったハエンは着地時に転びそうになったところを、エルデに抱き寄せられるよに支えられた。
「大丈夫か?」
「あ、あぁ。悪い、ありがとう」
「平気ならばよし。だが、こうやって足場を作るのにもそれなりに体力が必要でな。流石にずっとこのままというわけにはいかん。どこか降りられる場所まで――」
その時、ふと辺りが暗くなった。エルデは言葉を切り、正面を見上げる。ハエンもそれに続いた。
地面から高さ五メートルはある石柱のてっぺんを見下ろす魔族の姿がそこにはあった。
「……っ!?」
身体の大きさが変わっているわけではない。ただ足が異様に伸びている。上に逃げた獲物を追いかけるため、氷柱を成長させるように足だけを伸ばしたのだろうか。
『オオオオォォォ!』
再び大気を揺らす咆哮。同時に魔族の力が額部分に集約され、白銀の光を放ち始める。
狭い足場では逃げ場がない。万事休すかと思われたその瞬間、右側から飛んできた何かが魔族に直撃。炸裂し、荒々しい風が吹き荒れてその巨体を傾けさせた。
それにより額に溜めていた力はあらぬ方向に光線として放たれ、それらが当たった床、壁、天井に氷の軌跡を描き上げた。
「ほら、今のうちに!向こうの方はまだ凍ってないよ」
そう言って魔族が倒れた向こう側を指差したのは、自分の精霊術で浮いているフウだった。
「助かった……。ありがとうな、フウ」
フウは微笑んで頷くと、人差し指を立ててくるりと動かす。彼女の精霊術がハエンとエルデを浮かび上がらせ、そのまま三人は魔族を飛び越えた。
「……っと。最初は風で飛ばされるのは不安だったが慣れてきたな。それで、これからどうする?」
最初に地に足をつけたエルデは魔族を見上げる。
「エルデの時のように〈精霊回帰〉を使えば元の精霊に戻せるはずだ。今すぐにでも元に戻してやりたいんだが……」
「それ、直接触らないと使えないんだっけ?」
フウの言葉にハエンは頷く。
「そっか。今は近づくのも危険だからね。例え近づけても、触った瞬間に氷漬けにされるかもしれない。まずは何とかして大人しくさせないと」
「……大人しくさせる、か。それはやはり弱らせるしかないのだろうか。ただでさえ苦しんでいる相手に攻撃するのは気がひけるが……」
そこまで口にして、エルデは小さく首を振った。
「……いや、何でもない。彼女を絶望から解放するためにはそれもやむなしか。現実的な方法はそれくらいしかないのだからな」
「イヤならボク一人でやるよ。というか、最初からそのつもりだったし」
「魔族相手に一人で戦うというのか!?」
「魔族化してたキミを止めたのは誰だと思ってるのさ」
さらりと言われ、エルデはまだ何か言いたそうな顔をしながらも口をつぐむ。
魔族となっていた時の記憶が曖昧だというエルデは、フウと戦ったことを覚えていない。信じていないわけではないが実際に見たわけでもない。それ故にまだ不安があるのだろう。
実を言うとハエンも同じ気持ちだ。もちろん親友を信じる気持ちはある。フウが強いのも知っている。しかし危険な相手と分かっていて送り出せるほど、彼女の実力を測りきれてはいなかった。
そんな二人の視線を受け、フウはいつもと変わらぬ笑顔を浮かべる。
「だーいじょうぶだって。それにこれは半分ボクのせいでもあるんだから、自分の責任は自分で取らなきゃ。……ん?あれ、おんなじようなセリフさっきも言ったっけ?」
フウは小首を傾げ、「まあいいか」と緊張感の無いことを言った後、少しだけ真剣な表情を浮かべて更に続ける。
「……それにボク、何かを護る戦いっていうのが苦手なんだ。だからエルデがハエンを護ってあげてよ。んで、ハエンはいつでも技能を使えるようにしといてね」
ハエンが倒れれば氷扇は救えない。だがハエン一人では魔族の攻撃に巻き込まれれば耐えられない。ならば護衛としてエルデがつくのは理にかなっている。
状況を考えれば、それが最善手なのかもしれない。
「……分かった」
ハエン、続いてエルデが了承の意を込めて頷くとフウもまた頷き返し、風を纏って飛んでいった。




