第五百九十九話 ソレイユ編~女神~
時が止まった。少年は、呼吸をすることを忘れた。
深い森の中、目の前では、美しい女性が微笑んでいた。あらぬ方向に視線を泳がせながら、右手を差し出していた。彼女が何をしようとしているのかは全くわからなかったが、少年にとっては、どうでもいいことだった。
その女性には、背中に白い羽が生えていた。木漏れ日から差し込む日の光が反射して、キラキラと輝いていた。その女性を中心として、周囲の雰囲気が研ぎ澄まされていて、そこだけがまるで、別世界のような様相を呈していた。
真っ白い肌、金色に輝く髪の毛。それが風に揺れている。白い服を纏っているが、まるで体に吸い付いているかのようなデザインであるために、体のラインが丸見えだった。形のよい大きな胸、キュッとしまった腰回り……。少年の心臓の鼓動は早くなり、その眼は女性にくぎ付けとなった。
彼女は口元を小刻みに動かしている。何かと会話をしているようにも見えるが、その形のよい、真っ赤な唇が小刻みに動く様子は、少年の心臓の鼓動と連動しているかのような感覚を覚えた。
……ふと、女性が少年の存在に気付いた。彼女は少し驚いた表情を浮かべたが、やがて、にっこりと微笑んだ。その瞬間、少年の体は無意識のうちに震えた。
女性はゆっくりと踵を返すと、そのまま森の奥に消えていった。
ふと、我に返る。呼吸をしていないことに気が付く。少年は、鼻からゆっくりと空気を吸った。森の香りが鼻腔をくすぐる。
……空気とは、こんなにも美味しいものだったのか。少年は思わず心の中で呟く。肺いっぱいに吸い込んだ空気をゆっくりと吐き出す。そして、あの女性が立っていた場所に、恐る恐る近づく。
そこは、何の変哲もない場所だった。ただただ鬱蒼とした森が広がるだけの景色だった。
少年が見たのは、リノスの妻であるソレイユが、森の精霊たちに神龍様のパワーを与えていた場面だった。彼女は折に触れてアガルタ国内の森を訪ね、精霊たちと交流を持っていた。そうすることで、アガルタ国内の天変地異や異常事態を、森の精霊たちが知らせてくれることになっていたのだった。
だが、少年にはそんなことはわからない。今、目の前にいた美女の行方を捜して、彼は日が暮れるまで森の中を歩き続けた。
「まあ、どこに行っていたの、こんな夜になるまで! 山菜はどうしたんだい!」
森の中を歩き疲れ、クタクタになって帰宅した少年に、母親はそんな言葉を投げかけた。しかし、彼は母親の言葉には見向きもせずに、食事も摂らず、そのままベッドに入ってしまったのだった。
翌日から、少年の生活は一変した。
毎日彼は森の中に入って、日暮れまで散策するようになった。しばらく経つと彼は、部屋から一歩も出ない日々を送るようになった。母親からの問いかけには上の空で答え、ただ、紙に向かって鉛筆でカリカリと何かを書き、それを破るという行為を繰り返した。そんな息子を母親は気持ち悪がり、挙句の果てには、息子は気が狂れたのだと周囲に言いまわる始末だった。
ソレイユとの出会いから三ヶ月後、少年は母親に何も告げずに、忽然と姿を消した。母親は息子を探さなかった。こうなることは想定していたし、来るべき時が来たのだと、母親自身も納得したのだった。
少年は、山を一つ越えた町に向かっていた。そこに、看板絵師がいることを耳にしていたからだ。彼は人に尋ね歩いて、その看板絵師のいる工房に辿り着いた。
絵師であるミヨールは、そのときの光景を死ぬまで忘れなかった。真っ青な顔をした、ガリガリにやせ細った少年が、工房の前に立っていた。それはさながら、死神のようだった。
ミヨールは即座に少年の申し出を断った。だが、彼は引き下がらなかった。ミヨールからどれだけ罵声を投げかけられても頑としてそこを動かず、ただひたすらに、絵の勉強をさせてほしいと言い続けた。
ほどなくして、少年は工房の前でヘナヘナと座り込んだ。明らかに衰弱していて、ほとんど飲まず食わずの状態が長く続いていることは明らかだった。このままではこの少年は死んでしまう。ミヨールはその熱意に負ける形で彼を工房に迎え入れた。
工房に入った少年は、がむしゃらに働き始めた。どんな仕事でも一言の文句も言わず、ただひたすらに絵の修行に打ち込んだ。ミヨールや兄弟子たちの手元をじっと観察し、夜更けまで絵を描き続けた。そのせいもあって彼はメキメキとその腕を上げ、工房に来てから三年後には、彼は押しも押されもせぬ看板職人となっていたのだった。
子供のいなかったミヨール夫妻は、この少年を養子に迎え、この工房を継がせようと考えた。自身の生い立ちについてはほとんど語らないどころか、絵のこと以外では極端に口数の少ない男ではあったが、仕事に対する情熱と姿勢は、他の職人とは群を抜いていたし、当然、その腕前はミヨールと引けを取らないでいた。彼をこの工房の跡取りに据えたところで、職人たちから反対意見が出ることはないと言ってよかった。ミヨールは少年を呼び出し、自らの考えを伝えた。
しかし、少年は翌日、工房から姿を消した。親方のミヨールに感謝の手紙を残して。
それから数十年後、一枚の絵が競売にかけられた。『女神』と題されたその絵は、何とも言えぬ迫力に満ちていた。
森の中に佇む一人の美女。その背中には白い羽が生えていた。まるで、その美女が絵の中から浮き出てくるような作風は、集まった人々に強い印象を与えた。だが、評価は芳しくなかった。世間の流行が写実的な絵を求めていたのに対し、この『女神』は、奇をてらった絵であるとの評価が下されたのだった。
結局、絵は二束三文の値段で買われていった。ただ、絵の購入者は、フラディメ王国の者だった。
その男は、国王であるメインティア王から命令を受けて、世界中を旅しながら美しい絵画を購入していたのだった。
男はその絵を見て、純粋に美しいと思った。値段は二束三文だったが、絵の価値はどうでもよかった。要は、メインティア王が気に入るか、気に入らないかが重要だったのだ。
すぐさま帰国した男は、王にこの絵を見せた。メインティア王はしばらくこの絵を眺めていたが、やがて、その瞳から一筋の涙が溢れ出た。彼はすぐさま家来に命じて、この絵の作者をフラディメ王国に迎えようとしたのだった。
しかし、絵の作者はすでにこの世を去っていた。
齢わずか三十歳という若さだった。その枕元に飾られていたのがこの『女神』だった。
作者は身寄りがなく、近所づきあいも悪く、一日のほとんどを家にこもっていた。男は絵を描いて糊口をしのいでいたが、筆が遅く、生涯の中で描いた絵はわずか数十点しかなかった。それらも高値が付くことはなく、男は生涯を貧苦に喘ぎながら過ごしていたのだった。
だが、その死に顔は美しく、実に満たされた笑みを浮かべていたのだという。
「きっと、この作者は己の頭の中にある景色を、完璧に描くことができたのだ。さぞ、満足であったろう。通常ならば、頭の中に描かれた景色を描けずに、いかに妥協するかで苦しむものなのだが、この作者は、この絵に関してはそれが全くなかったのだろう。同じ芸術を愛する身として、その領域に行けたこの作者を、羨ましく思うよ」
メインティア王は家来に命じて、この作者の絵を高額で集めさせた。それが噂となり、数年後、この作者の絵は、天井知らずの値段で、巷で取引されることとなった。
メインティア王は、フラディメ王国内にこの作者の墓を建て、彼の描いた絵を国宝として大切に保管し、未来永劫にいたるまで、その偉業を讃えたのだった……。




