第五百九十七話 絶望
広いホールの中に、人々がひしめき合っている。全員が白い衣装を纏い、片膝をついて頭を垂れていた。彼らの前には、金の玉座に座り、満足そうな笑みを浮かべている一人の女性の姿があった。言うまでもなく、それは、ヴィエイユだった。
「……教皇聖下」
初老の男性が恭しく彼女の前に進み出る。ロン・エスロテルだ。彼は、ヴィエイユに深々とお辞儀をすると、ゆっくりとした口調で報告を始めた。
「懸念されておりました、友好の花の問題でございますが、教皇聖下がお力添えいただいたおかげをもちまして、ここ、アフロディーテにおける花の問題はすべて解決致してございます」
ヴィエイユは鷹揚に頷き、にっこりと笑みを浮かべる。肌の色艶もよく、全身から精気が満ち溢れていた。
「そうですか。それはよかったですね」
「はっ」
「今回の件で、私は何も致しておりません。むしろ、昼夜を問わず研究に没頭していた、医療研究所の方々に、我々は礼を言うべきです。医療研究所の主だった方々には、永久的にこの、アフロディーテに留まっていただき、さらなる研鑽を積んでいただきたいと思いますが、いかがでしょうか」
ヴィエイユの言葉に、全員がさらに頭を下げる。どこからか、すすり泣く声が聞こえる。きっと、医療研究所の者が、むせび泣いているのだ。
ここ、教都・アフロディーテに永久に居住できるということは、クリミアーナ教徒にとって、一生の悲願と言えた。それが許されたものは、長い歴史の中でも、数えるほどしかいない。彼らが喜びのためにむせび泣くのは、当然と言えた。
「教皇聖下、もう一つ、報告がございます」
ロン・エスロテルがさらに言葉を続ける。ヴィエイユは、ゆっくりと彼に視線を向ける。
「アガルタ王、バーサーム・ダーケ・リノス様より書簡が届き、以前、教皇聖下に提示しました、友好の花に関する条項につきまして、それを白紙撤回したいとの旨、申してまいりました」
その言葉を聞いて、ヴィエイユは少し驚いた表情を浮かべた。
「あの、アガルタ王様がそのようなことを……。お支払する金銭のことでしたら、何の問題もありませんでしたのに……。そうですか。アガルタ王様には、承知したとお伝えください。あと……近日中に、二人でゆっくりとお話がしたいとお伝えください」
「ははっ」
ヴィエイユは、平伏する教徒たちを見廻しながら、ゆっくりと玉座から立ち上がる。ふと、窓の外に視線を向けると、燦々と太陽の光に照らされた大海原が広がっていた。彼女はゆっくりと窓辺に足を進める。
視界の先には、白で統一された美しい街並みが見える。それらが太陽の光を反射して、まぶしく輝いている。その先に広がる大海原との景色が絶妙だ。まるで、絵画の世界に足を踏み入れた感覚を覚える。
……再び、戻ってきた、この場所に。何としても、世界の王となるのだ。
アガルタは、先の条約の白紙撤回を申し入れてきた。これで、クリミアーナとアガルタは対等関係に戻った。世界は近いうちに、クリミアーナとアガルタ、どちらかに属することを迫られるだろう。二極化となったこの世界を、どう動かしていくか……。アガルタと歩調を合わせていくことも悪くはない。この世界の秩序を破壊する動きをしなければ、あのアガルタ王が攻撃を仕掛けてくることはない。今回の一件で、その確証が得られたことは、大きな成果だった。
これまで何度も修羅場を潜り抜けてきたが、今回ほど、戦慄を覚えたことはなかった。
フォーアル大公国を傘下に組み込むために開発した友好の花が、まさか、己の首を絞めることになるとは、想像すらしていなかった。そしてまさか、その花を用いて、アガルタが教皇である自分を、クリミアーナを臣従させる動きに出るとは、考えてもいなかった。
だが、その危機は去ったのだ。友好の花の駆除方法が確立されたのだ。わかってみれば簡単なことだった。あの花を駆除する方法は……。
「教皇聖下」
不意に呼びかけられて、ヴィエイユは声の方向に視線を向ける。相変わらず、そこではロン・エスロテルが片膝をついて控えている。
「お目通りを希望している者がおります」
「そうですか。お通しください」
ヴィエイユの言葉に、目の前で控えていた者たちがスッと下がった。
「お久しぶりですね」
「……!」
ヴィエイユは声にならない声を出して固まる。その表情は凍りついていた。目の前に現れたのは、祖父であるジュヴァンセル・セインと従兄弟のカッセルだった。
「姉さま。ようやくですね。さあ、僕のものにッ!」
何のためらいもなくカッセルがツカツカとヴィエイユの許に近づき、彼女の首を締めあげた。彼にはちゃんと両手がついていた。
「グッ……なっ……」
「姉さま、ボクは姉さまを逃がしませんよ? 姉さま、姉さまッ!」
カッセルは残った手でヴィエイユの胸ぐらをつかむと、凄まじい力で彼女の服を切り裂いた。形の良い乳房が露わになる。カッセルはそれを荒々しく掴みしめた。
「いっ、いたっ……やっ……やめ……」
ふと、目が覚めた。気が付くとそこはヴィエイユの自室だった。彼女は右手で自分の首を絞め、左手で自分の乳房を握り締めていた。なぜかパジャマは着ておらず、一糸まとわぬ裸体でベッドに横たわっていた。
慌てて体を起こすと、ベッドの下には彼女のパジャマが脱ぎ捨てられていた。
「ゆっ、夢……」
心の中から安堵感が湧き上がってくる。だがその直後、彼女の怜悧な頭脳は、現実を認識し始めた。
……臨時枢機卿会議。
前日にアフロディーテにおいて召集された臨時枢機卿会議。そこでヴィエイユはアガルタと結んだ条約について説明を行った。当然、会議は大荒れとなった。呆然とする者、悔し涙に暮れる者、アガルタとの決戦を主張する者……三者三様の反応が見られたが、そこに参加した全員が、言葉には出さないものの、ヴィエイユの責任を問うているのは、誰の目から見ても明らかだった。その彼女を、ロン・エスロテルは最前列で、涼しい眼差しで見つめ続けていた。ヴィエイユは本能的にこの男は背くと感じていた。
会議は今日も行われる。ヴィエイユにとって、教皇という地位にとどまることができるか、できないかの瀬戸際でもあった。彼女は重い体を引きずるようにして、ベッドから降りた。
◆ ◆ ◆
「そんな簡単なこと、他の者にやらせればよいではないか」
リノスの前で訝しげな表情を浮かべているのは、黒龍のシャリオだった。彼女は、兄のツネと共にルノアの森の奥深くに住んでいた。その近くにはサイリュースの里があり、今の二人には里を守る役割を担っていた。
「う~ん。そうなんだけれどな」
リノスはポリポリと頬を掻いている。その様子をツネは無言のままじっと見守っている。
「これは妻のシディーの推薦でな。シャリオ、お前は神龍様に能力を奪われたとはいえ、頭脳は相変わらず抜群だろう。計算も早い。そこで、お前に頼むんだ」
「そんなことは、子供でもできる話だろう」
「まあ、そうなんだけれどな。その……何て言うか、お前は情に左右されないだろう?」
「情? なんだそれは?」
「相手を可哀そうだと思う心だよ」
「何だそれは? 食べねば生きて行けぬ。強いから食べる。弱いから食われる。それだけではないのか?」
「そう。そうなんだけれどね……。どうしても、俺たちじゃそう割り切れない部分もあってな……」
シャリオは不思議そうな表情を浮かべる。そのとき、兄のツネが口を開いた。
「やってみるがいい。面白そうではないか」
「兄さま」
「面白くなければ、帰ってくるがいい」
「……わかった」
シャリオの言葉にリノスは満足げに頷き、龍王には話を通しておくと言って、その場を後にした。
後日、アガルタから、クリミアーナ教国に対する担当者が発表された。その名をシャリオと言い、一切の憐憫の情を挟まず、教国が維持できるギリギリの命令を出し続け、教国内で「鉄の女」の異名を取ることになるのだった。
クリミアーナ教国の長い受難が、始まろうとしていた……。




