第五百九十六話 絶対
同じ頃、セルロイトは、ヤンノーリの腕の中にいた。
一体どのくらい泣き続けたのだろうか。いつまでも泣いている状況ではないことはわかっていた。だが、自然に涙が溢れてきて、止まらなかったのだ。
ちゃんと周囲の状況は把握できていた。アガルタ王様が転移してきて、マタカをどこかに連れて行ったことも、わかっていた。あの、温厚なアガルタ王様が大声を出していた。話をしている内容は皆目見当がつかなかったが、きっとあれは、何かの詠唱に違いない。聞いたことのない詠唱だとすると、もしかしたら、マタカを連れて地獄に転移したのかもしれない。
きっと、彼はもう、二度と現れないだろう……。
そう考えたとき、セルロイトは心から安堵した。そして、さらに涙が溢れて止まらなかった。
そんな彼女の背中を、ヤンノーリは優しく撫で続けた。そして、耳元で何度も何度も、「大丈夫です。絶対に大丈夫です」という言葉を繰り返した。一生にそう、何度も使うべきではないと教えられてきた「絶対」という言葉……。その言葉は、ヤンノーリを介して囁かれることで、セルロイトにさらなる安心感を与えた。きっと、大丈夫だ。絶対に、大丈夫だ……。彼女は心の中で、そう念じていた。
「まあ、仲良くやんな」
そんな二人の様子を見ていた馭者の男は、誰に言うともなく呟いて、その場を去っていった。あのオジさんにも礼を言わなければ。セルロイトは頭の中でそう考えていたが、しゃくりあげる息を押さえることで精いっぱいで、口を開くことができなかった。
やがて、ヤンノーリはセルロイトを自分の背に背負った。そして、ゆっくりと歩き出した。
……広い、そして、温かい背中だった。いつまでも、この背中に背負われていたいと思わせるほどに、心地のいいものだった。
一体、どのくらい歩いただろうか。突然、周囲が暗くなった。ゆっくり目を開けて見ると、どうやら建物の中に入ったらしい。階段を上っているようだった。
やがて、どこかの部屋の中にいるような景色に変わった。そのとき、セルロイトはベッドの上にゆっくりと寝かせられた。
ぼんやりと周囲を見廻す。周囲は本棚に囲まれているようだった。見たことのある書名もちらほら見える。興味をそそられる題名の本もいくつか見えた。本棚はとても整頓されていて、セルロイトは好感を持った。
「セルロイトさん……」
突然、彼女の視界に、ヤンノーリの顔が見えた。彼は、真剣な表情を浮かべていたが、それでも、その体からは柔和な雰囲気が醸し出されていた。
「私は、あなたを……幸せにしたい……」
彼の言葉に、セルロイトはゆっくりと頷く。根拠はないが、この男は、自分を幸せにするだろうという確信めいたものが、彼女の中にあった。
彼はゆっくりとセルロイトの唇を奪った。そして、彼女の服のボタンに手をかけた。
セルロイトは全く抵抗することなく、ただ成り行きにその身を任せていた。ヤンノーリの手は震えていた。その震える手で、セルロイトの衣服をぎこちなく脱がせていった。
一糸まとわぬ姿となったセルロイトは、ゆっくりと目を閉じた。ヤンノーリの息遣いが聞こえてくる。どうやら、彼も裸になっているようだ。
「……」
ヤンノーリが何もしてこない。不思議に思ったセルロイトがゆっくりと目を開けると、彼はじっと彼女の顔を見つめていた。
「……きれいだ」
不意にそんな言葉が聞こえた。一体誰のことを言っているのか? セルロイトは、まさか自分に向けられている言葉とは思わず、不思議な表情を浮かべる。
「本当に、きれいだ。何としても……何としても、あなたを、幸せに、したい」
そう言ってヤンノーリは優しくセルロイトを抱きしめた。
彼のたどたどしい、しかし、優しい愛撫は、セルロイトを戸惑わせた。
彼女にとって、男女の営みというのは、男が命じることを、その通りに動くというものだった。脱げと言われれば脱ぎ、命じられる姿態をそのまま取るというものだった。ひたすら耐えることこそが愛であり、そうしなければ男は満足せず、それができなければ、価値のない女性と見なされると考えていた。
しかし、ヤンノーリは違った。マタカのような服従を強要しなかったばかりか、必死でセルロイトに不快感を与えまいとしていた。その振る舞いは、彼の、何としても幸せにしたいという思いが伝わるものだったし、その覚悟のほどがよく見て取れた。
全ての行為が終わった後、セルロイトは彼の胸に抱かれながら眠りについた。
◆ ◆ ◆
「……」
翌朝、セルロイトは馬車に揺られながら、都の家路についていた。いつもと同じ時間に、馬車は農場にやって来ていた。乗る人がいないと発車しないこともあるのにもかかわらず、馬車はいつもの場所にちゃんと止まっていた。
部屋まで送っていくというヤンノーリを止めて、セルロイトは彼の部屋を出た。そうしないと、彼から離れる自信がなかった。今日は、部屋に帰らねばならない。母に報告せねばならない。
いつもの馭者の男は、セルロイトに一瞥もすることなく、じっと彼女が乗り込むのを待っていた。そして、彼女が席に着くと、無言のまま馬車を走らせた。
馭者の男は都に着くまで、一切言葉を発しなかった。だが、彼の背中からは何となく嬉しそうな雰囲気が漂ってきていた。セルロイトはその背中を見ながら、ゆっくりと頭を下げた。
「ありがとう、ございました」
深々と頭を下げるセルロイトを、馭者の男はチラリと一瞥すると、ゆっくり馬車を走らせた。彼女はその馬車が見えなくなるまで、頭を下げ続けた。
いそいそと自分の部屋に向かう。人の流れに逆行しながら歩く風景に新鮮さを覚えながら、都の石畳の上を歩く。
「……ただ今帰りました」
部屋に帰ると、母は、彼女が帰るのを見通していたかのように、テーブルの上に朝食を並べていた。温かいスープと料理の香りが、鼻をくすぐる。
母は何も言わなかった。朝帰りした娘に怒りもしなければ、心配していた素振りすらも見せなかった。母の性格では、きっと昨晩は心配で一睡もしていなかったはずなのだ。にもかかわらず、淡々と朝食の準備を整えて待っていた姿は、少し、拍子抜けするものだった。
きっと、ものすごい質問攻めにあうだろう、そして、相当に叱られるのだろうと覚悟していた。だが、母はただ、「おかえりなさい」と言ったのみで、朝食をテーブルに並べ終わると、セルロイトに着席を促して、食事を摂り始めた。
「……お母様」
突然、口を開いたセルロイトにスッと視線を向けた母は、手に持っていたパンを皿において、姿勢を正した。それをみた彼女は、一気に口を開いた。
「明日から、ここには、戻らないと思います。好きな人ができたのです。私を、幸せにしてくれると思うのです。いえ、絶対に、幸せになると思うのです」
「そう……」
「お母様……」
「好きになさい」
「おっ、お母様……」
予想外の言葉に、セルロイトは絶句する。母は全く表情を変えず、淡々と口を開いた。
「あなたが自分で見つけてきた幸せです。自分で、そう決めたのでしょう。絶対に幸せにしてくれると感じた人なのでしょう。その方と、添い遂げなさい。お母様は、反対しません」
「……」
「セルロイト」
「はい」
「二つ、お願いがあるの。聞いてくれるかしら?」
「は……はい」
「これから、何か困ったこと、辛いことがあれば、必ずお母様に相談してちょうだい」
「はっ、はい……」
「娘が苦しんでいる姿を見るのは、親として辛いものです。お母様とお父様は、どんなことがあっても、あなたの味方です。遠慮せずに、頼ってちょうだい」
「……」
目を丸くして驚いているセルロイトに向かって、母はフッと笑みを漏らしながら、言葉を続ける。
「ようやく、幸せを掴んだのね。安心しました。あなたを何としても幸せにしたくて、子供の頃から喧しく言ってきましたが……。正直、あなたにはつらい思いをさせたのではと、申し訳なく思っていたのです。それが、やっと……。よかったわね、セルロイト」
「あっ、ありがとうございます……」
セルロイトの眼から涙が溢れてくる。その様子を見ながら、母も涙を流している。二人は手を握りながら、声を殺して泣き合った。
「あの……お母様……」
「なに?」
「もう一つのお願いとは、何でしょうか?」
「いいわ、もう。別に……」
「……気になります」
「できたら、週に何回かは、この部屋に帰って来てほしかったの。もう少し……私の娘でいてほしかったのよ」
「お母様……」
セルロイトと母親は再び抱き合いながら、しばらくの間泣き続けたのだった……。




