第五百九十四話 君の名は
「農場に行く馬車は、これでしょうか?」
見慣れない男が話しかけてきた。馭者の男は、ジロリと睨みつける。
……冒険者時代からの癖だった。そうしないと、命にかかわることになる可能性があるのだ。特に、冒険者同士では、パーティーを組む相手のスキルや人間性を正確に把握しておかなければ、いざというときに命を落とすことになる。
その男は、見た瞬間に、関わってはならぬ者だと、馭者の男は判断した。彼が最も嫌う人種だった。
目の前の男は、にこやかな笑みを浮かべている。一見すると、人懐っこそうな、優し気な笑みだ。だが、それは作られたものであり、人格が自然に表情に滲み出たそれとはまったく異なるものであることを、馭者の男は正確に見抜いていた。
珍しい、な。
男は心の中で唸っていた。このアガルタ大学に通う学生は、貧富の差はあれど、その人間性については皆、それなりの者が多かった。学生全員を見たわけではないが、毎朝通ってくる学生は皆、行儀がよく、そして、優しかった。彼らは心の底に、自分たちは世界中の人々から注目されている存在であること、その視線や期待に応えられる人材にならねばならないこと、そうした人々の見本となるのだという意識を持っていることが、よく伝わってきた。
しかし、目の前の男はどうだ。明らかに、その柔和な笑みの奥では、この年老いた猫獣人の馭者を値踏みしようとしている。そして、己の目の前にいる男は、何の役にも立たないと踏んでいる。失礼を通り越して、呆れるばかりの、自分中心の考えを持った男だ。こんな男とは、付き合うべきではない。
馭者の男は、そんなことを考えながら、ゆっくりと頷く。優男は、大きく頷くと、懐から何かを取り出して、それを差し出した。
「これで、よろしくお願いします」
男が差し出したのは、金貨だった。三枚の金貨が、男の掌の上で、鈍い光を放っていた。
馭者の男はそれに目もくれず、体を引きずるようにして、馬車に向かった。優男は、相変わらず柔和な笑みを浮かべたまま、手に持っていた金貨を懐に仕舞い、後を付いてきた。
馬車を操りながら、馭者の男はチラリと、席に座る男に視線を向ける。腕を組み、足を組んで、顎をクイッと上げながら、車窓の景色を眺めている。
アガルタの都を楽しんでいる様子ではなかった。優しげな笑みを浮かべているが、その気配からは、何かを観察するような、何かを探しているようなものを感じた。
「ここには、初めてきましたが、元々ジュカ王国の王都だったのですよね。一度は大魔王に滅ぼされ、その上、ラマロン皇国に侵攻されて、この都は一度、廃墟のようになったと聞きます。それがここまで復興し、発展を遂げているのです。アガルタ王の手腕は、見事なものですね」
突然、男が誰に言うともなく呟いた。馭者の男は、それに対して、何の反応も示さなかった。優男はそれ以来、一言も話をしなかった。
馬車は程なくして、農場に着いた。馬車が停まると、優男はゆっくりと立ち上がって車から降り、目の前に広がる広大な景色にしばし見とれた。馭者の男は、こんな男とは早く離れたい一心で、馬車を都に帰そうと手綱を握った。
そのとき、女性の短い悲鳴が耳に入った。ふと見ると、優男が女性の前に立ちはだかっていた。
◆ ◆ ◆
信じられなかった。どうしてあの人がここにいるのかが、わからなかった。セルロイトの体はすくみ、そこから動くことができなかった。思わず、小さな叫び声を出すことが、精いっぱいだった。
彼女の目の前にいたのは、マタカだった。彼は、優しげな笑みを浮かべながら、ゆっくりと近づいてきた。そして、彼女の体を引き寄せ、強い力で抱きしめた。
「いっ……いや……」
「イヤだ? 何を言っているんだ」
マタカが耳元でささやいている。彼の息が耳に当たって、少しくすぐったい。彼は、セルロイトにだけ聞こえるような小さな声で、言葉を続けた。
「お前は私の奴隷となったのだ。まさか、忘れたとは言わせないぞ?」
「うっ……うっ……」
「来い。お前には聞きたいことがあるのだ。心配するな。手荒な真似をするつもりはない」
マタカの手がセルロイトの胸を掴んでいる。彼女は身をよじって、そこから逃げようとする。
「フフフ。お前の体は全て知っているぞ」
マタカの手がセルロイトの下腹に伸びていた。そのとき、セルロイトの体がフッと軽くなった。
「ガハッ!」
見ると、マタカが胸を押さえて蹲っていた。視線を移すと、そこには、馭者の男が木の棒を右手に持ち、その先をマタカに向けていた。目が吊り上がっている。全身の毛が逆立っていて、ものすごい迫力だ。
「お……おじさん?」
「クッ……何を、する……」
「セルロイトさん!」
声のする方向に視線を向ける。そこには、ヤンノーリが肩で息をしながら、立ち尽くしていた。
「あ……あ……あ……」
蹲りながら、セルロイトは精いっぱいヤンノーリに向かって右手を伸ばす。体がすくんで動かない。唯一動かすことができるのが、右手だったのだ。
ヤンノーリは足早にセルロイトに近づくと、彼女の体をギュッと抱きしめた。
……とても温かい体だった。優しかった。セルロイトから滂沱の涙が流れ、彼の胸を濡らした。
「な……何だ、貴様たちは……」
「それは、こちらのセリフだ。何をするのだ、貴様は」
「お前には関係のないことだ。手を出さないでもらいたい」
マタカはゆっくり立ち上がると、再びセルロイトに視線を向ける。
「来い、セルロイト。来るんだ」
しかし、彼女はヤンノーリの胸に顔をうずめたまま、ずっと泣き続けている。その様子を見ながら、馭者の男は、落ち着いた声で口を開く。
「見ての通り、彼女は嫌がっている。ここは……」
「黙れ!」
優男の表情から笑みが消えている。冷たい、鋭利さを感じさせる顔に変わっていた。
「あの女は、私の奴隷だ。私と私の奴隷との話しだ。お前には関係ない。来い! 来るんだセルロイト! 忘れたとは言わせんぞ。お前は私の奴隷となると誓ったのだ。お前は、私の奴隷なのだ!」
「黙れ!」
野太い男の声が響いた。何と声の主は、ヤンノーリだった。
「この方は、素晴らしい方だ! 学問を愛し、作物を愛し、謙虚で、優しい素晴らしい女性だ! その方を冒とくするのは、許さないぞ!」
マタカは一瞬、怯んだ表情を浮かべたが、やがてニヤリと下卑た笑みを浮かべた。
「その素晴らしい女性は、私の奴隷なのだ。教えてやろうか、その女がどんな姿態を取っていたのか? おい、セルロイト、その男に教えてやらないか? お前がどうやって私に仕えていたのか?」
セルロイトはヤンノーリの胸をギュッと握りながら泣き続けている。だが、マタカはその様子を見ながら、さらに言葉を続ける。
「さあどうした! 脱げ、セルロイト! 下着を脱ぐんだ。そして、スカートをまくり上げろ!」
「やめろ! 何を言い出すんだ貴様! ……えっ?」
ヤンノーリが突然、ポカンとした表情に変わった。一体なんだ? マタカがそう思った瞬間、彼の体が、ズシンと重くなった。
「あんまり、行儀の悪いことをするんじゃないよ、お兄ちゃん」
突然、耳元で声がした。驚いて振り向くと、そこには、見たことのない男が、マタカの肩を組んでいた。
「だっ、誰だ……」
「まったく……。シディーに言われてきてみれば、何ちゅうゲスい話をしているんだ。恥ずかしくないのか、お前はっ」
マタカは必死で男の腕から逃れようとしているが、全く体が動かない。マタカの顔が真っ赤に紅潮している。
「あ、すみませんね、皆さん。ええと、この男は私の方で預かりますから。皆さん、お仕事に戻って下さい」
男はにっこり笑いながら、口を開いている。そして、ヤンノーリに視線を向けると、さらに言葉を続けた。
「すみません、セルロイトちゃんのこと、よろしくお願いします」
「きっ、貴様、誰だ……」
マタカが必死に声を絞り出している。男はキッとマタカを睨むと、突然、大声で口を開いた。
「わっちの名を知らねぇのかい? 知らざぁ、言って聞かせやしょう……」
その瞬間、二人の男の姿が消えた。ヤンノーリと馭者の男は、呆然とした表情で顔を見合わせた。
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あ、あと、メリークリスマス。
片岡直太郎。




