第五百九十二話 馭者目線
雲一つない昼下がり、セルロイトは一人、馬車に揺られていた。
アガルタ大学から農場に向かうための馬車……。相変わらずそこには、セルロイト一人しか乗っていない。その馬車を操る馭者の男は、ここ最近、この女性の雰囲気が変わったことを感じていた。
正直、初めてこの女性を見たときは、亡霊か何かと思った。げっそりとやつれた顔、針金のように細い体躯、そして、猫背……。およそこの女性からは生気というものは感じられなかった。あのときも、今日と同じ、よく晴れた昼下がりだった。
アガルタ大学から農場に向かう馬車は、ほとんど出ないと言ってよかった。農業を研究する学生は、農場近くの寮で生活しているため、このキャンバスから農場に向かう人は、一日でも数えるほどしかいない。しかも、そうした人たちの大抵は、朝か夕方に乗り込んでくることが多かった。言ってみれば、大学関係者が差し入れや郵便物の受け渡しのために利用するくらいだった。
男はこの仕事を気に入っていた。今の自分の体に合った仕事だと思っていた。
若い頃、男は冒険者として、世界中を旅していた。冒険者ランクBを所有する、それなりの腕を持っていたのだった。
だが、寄る年波には勝てなかった。仲間が次々と抜けたり、この世を去ったりした。彼は一人になった。そのとき、若い冒険者のパーティーから声がかかった。自分の経験を若い彼らに伝えようと参加したが、それが仇となった。不覚にも、魔物の攻撃をまともに受けて、右足にマヒが残った。
こうなってはもう、冒険者としては活動できない。彼は引退を決意した。
危険と隣り合わせの生活から足を洗ったとはいえ、日々の生活は送らねばならない。しかし、冒険者しかやったことのない彼は、この先どんな仕事をするべきか、決めることができなかった。
剣の腕には自信があるが、それは、体が自由に動いたからこそできるもので、今となっては、立って若者に剣を教えることは難しい。その上、彼の剣は我流で磨いたもので、その剣には、流麗さも迫力にも欠けるものだった。
魔法も使えなくはないが、魔法使いには到底及ばない。つまりは、どれもが中途半端なスキルだったのだ。これでは、人に教えることはできない。
悩んでいる間に、冒険者時代に稼いだ蓄えはどんどん減っていく。そんなとき、ギルドで紹介されたのが、この仕事だった。
足が不自由であるために、頻繁に馬車に乗り降りすることはできない。だが、雇い主であるアガルタから示された条件は、一日数回、馬を操るだけでいいとあり、しかも、提示されている金額は、何とか生きていけるだけのものだった。彼は、物は試しにとその仕事をやってみることにした。
単調な仕事だった。朝に一度、昼に二度、大学と農場を往復するだけでよかった。しかも、馬車はほぼ無人だった。こんなことをしていて、この大学は大丈夫だろうか。馬を操りながら、彼は不思議で仕方がなかった。聞いた話では、アガルタ王のお妃の一人が、この馬車の運航を勧めたのだという。アガルタという世界に冠たる大国だ。金は無尽層にあるのだろう。だからこそ、こんなルートでも廃止されずに運行されているのだ。彼はそう思っていた。
セルロイトが現れたのは、そんなときだった。
昼からの便は、まず、人が乗ることはない。彼は大儀そうに馭者台に乗り込むと、馬を走らせようと手綱を握った。そのとき、何かの声が彼の耳に入った。よく見ると、すぐ傍に、一人の女性が立ち尽くしていた。
女性は帽子をかぶり、俯いている。その表情を窺い知ることはできない。スカートをはいているので、女性だとわかったくらいだ。何か小さい声で呟いている。彼はじっとその声に耳を傾ける。
「……の……の……農場に……農場に……いっ……いっ、いきたいの、です、けれ、ど」
農場に行きたい。確かに女性はそう言った。彼女はスッと顔を上げる。それを見て、男は言葉を失った。冗談でもなんでもなく、亡霊が出たと思ったのだ。
冒険者時代に彼は、亡霊を見たことがあった。倒れた仲間を介抱していたとき、不意にすぐ近くに、人の姿を見かけた。それは、ガリガリに痩せこけ、髭を生やし、杖をついた老人がニタニタと笑っていたのだった。男はその老人に何者だと問いかけようとしたとき、まるで、霞のように消えてしまったのだった。後にそれは、死んだ者の魂が浮かばれずにさまよっている姿だと別の仲間から聞かされたのだった。
今、目の前にいるのは、女性で若くはあるが、見た目と雰囲気が、そのときに見た亡霊とよく似ていた。男は思わず息を呑んだ。
「あの……っ。のっ、のう、じょう、に、いっいっいっ、いきたいの、です、けれ、ど」
必死で声を振り絞っているのがわかった。本能的に、ここで怯えを出してはいけないと悟った。彼は無言で顎をしゃくる。女性は、安心したような表情を浮かべて、そそくさと馬車に乗り込んできた。
それ以来、女性はほぼ毎日のように馬車を利用するようになった。当然、会話は全くない。時おり、席に座る女性に視線を向けてみるが、彼女はただ、ぼんやりと車窓から見える景色を眺めているだけだった。
……まあ、アガルタの大学には優秀な人材が世界中から集まっていると聞く。あれだけ大きな大学なのだ。色んな者がいるのだろう。
男はそう思いながら、ただ黙々と日々の仕事を淡々とこなしていった。
そんな彼女は、最近、窓の外に目を向けなくなった。いつもノートを広げ、カリカリと何かを書いているのだ。
別にこの、名も知らぬ女性が何を書いているのか、といったことには興味がない。見てもわからないだろうし、見たいとも思わない。それよりも、馬車に乗るときと降りるときに、シャンと背を伸ばして、足早に歩いて行く様は、今までの彼女とは別人のようにすら思えるのだ。一体、なにがあったのか。馭者の男は、その女性に、少しだけ興味を持った。
この日も彼女は、カリカリと一心不乱にノートに何かを書いている。馬車はいつものように、農場の停留所に滑り込む。いつもは、たどたどしい声で、「あっ、ありがとう、ございます」と言って女性は馬車を降りる。すぐに帰るときには、少し待っていてくださいと言って降りるのだ。その言葉がないと、次の便で帰るというのが、暗黙の了解となっていた。
しかし、この日は、馬車が着いても、女性の声は聞こえなかった。ふと見ると、女性は一心不乱に、何かをノートに書いている。男は声をかけようかどうか、少し迷った。
「着いたよ」
男の声に驚いたのか、女性の肩が上下に揺れた。そして、まるで飛び上がるようにして立ち上がり、いそいそと荷物をまとめると、足早に馬車を降りていった。
……やれやれ。
男はゆっくりとため息をつく。都の中ならばいざ知らず、北門を出ると道は極端に悪くなる。大きく揺れもするし、場合によっては跳ねるような衝撃を受けることもある。そんな中で、何を書いているのか。そこまでして、書かねばならぬものは、何だろうか。
そんなことをぼんやりと考えていたそのとき、彼の耳に、女性の声が聞こえた。
「あ……あ……あのっ」
ふと見ると、先ほど馬車を降りたはずの女性が、そこに立ち尽くしていた。男はじっと彼女に視線を向ける。
「きっ、きっ、今日は……かっ、かっ、帰りませんから……」
そう言うと、女性はスッと俯いてしまった。よく見ると、彼女の首筋にほのかな赤みが差している。そうしているうちに、彼女はクルリと踵を返して、農場の方向に走っていってしまった。
……なるほど、男ができたのか。
男はニヤリと笑いながら天を仰いだ。相変わらず、いい天気だ。そんなことを考えながら、男は手綱を握り、馬を走らせた。不快な気持ちは微塵もなかった。むしろ、あの女性が幸せになるように、応援したいとさえ思った。男の心に、何か、温かいものが流れていた……。




