第五百九十一話 自信満々
ヴィエイユから返答があったのは、それから三日後のことだった。
彼女はたった一人で俺の前に現れた。そして、アガルタ王様からのご提案をすべて受け入れます、と敢然と言い切った。その顔に笑顔はなかった。
俺はあらかじめ用意させていた書簡を持ってこさせ、ヴィエイユにサインをするように命じた。そこには、先日俺が提案した内容が書かれていて、言ってみれば、契約書というわけだ。
ヴィエイユは、何のためらいもなく、そこにサラサラとサインを書き入れ、懐からスポイトのようなものを取りだして、自身の親指に当てた。すると、みるみる親指が赤く染まっていく。どうやら、あの器具で血を吸い出しているようだ。
彼女は赤く染まった親指を契約書に押し当てた。契約書は複数枚用意してあったのだが、ヴィエイユはまるで、流れ作業のごときスムーズさで、次々と血判を押していった。
その後、俺も契約書にサインをして、血判を押す。結果的に判を押した契約書は六枚になった。
それらの契約書は、それぞれが三枚ずつ持ち合うこととした。俺は、一枚はアガルタで管理し、あとの二枚は、ヒーデータ帝国とニザ公国で管理してもらおうと考えている。ヴィエイユは何も言わず、ただ大切そうに、製本されたその契約書を自分のわきに抱えていた。
「ヴィエイユ」
「はい」
「困ったことがあれば、言ってくるといい」
「心強いお言葉、感謝申し上げます。承知しました」
聡いこの娘のことだ。俺の言わんとしていることは、ちゃんと理解してくれているはずだ。
俺とヴィエイユは、淡々と事務手続きを済ませる形で、すべての調印を終えた。そして、隣室に控えていたリコとメイを呼び出し、その場でメイにネズミを百匹、アフロディーテに送るように命じた。
「ご厚情、感謝申し上げます」
ヴィエイユはその場で片膝をつき、見事な所作で俺たちに頭を下げた。リコもメイも、無言でゆっくりと頭を下げた。
クリミアーナ教国の教皇が俺に対して臣下の礼を取ったのだ。この瞬間から、クリミアーナ教国はアガルタの属国となった。
それと同じ頃、クリミアーナ教国の教都・アフロディーテでは、一人の男が出港しようとしていた。
「それでは、健闘を祈ります」
柔和な笑みを浮かべながら口を開いているのは、枢機卿の一人である、ロン・エスロテルだった。その彼の視線の先には、悲壮感を漂わせた男が両手を握り締めていた。
「お任せください。必ず、やり遂げて御覧に入れます」
口を開いているのは、マタカ枢機卿だった。
現在の彼は、教皇・ヴィエイユの命令で自宅待機の状態にあった。だが、昨夜遅くにロン・エスロテルが直々に訪ねてきて、明朝出港する商船に乗ってアフロディーテを出発し、そのままアガルタに向かうようにと伝えてきたのだった。
それは教皇聖下も承知しているのだという。マタカは心の中で狂喜した。
……絶対の自信があった。セルロイトの心をもう一度奪うのは、簡単なことだと思った。
風の噂で、セルロイトがアガルタに留学し、そこで友好の花を撲滅するための研究に携わっていることは聞いていた。教国としては、その進捗状況を確認しなければならない。それがもし、確立されてしまっていたのならば、教国は今後の戦略を一からやり直す必要に迫られる。
マタカは他の枢機卿たちと同様に、アガルタが花を撲滅する方法を確立するためには、何十年の時が必要だろうと考えていた。LV5の火魔法で焼き切らねば亡ぼすことのできぬ花なのだ。いかにアガルタとはいえ、LV5の火魔法を扱うことのできる魔導士を育成するためには、時がかかる。その間に教国は、アガルタを含めた全世界の国々を膝下に抑え込むのだ。そう考えていた。
だが、ロン・エスロテルは違った。彼はアガルタが花を撲滅する手法を確立するのに、一年以内でやってのけるだろうと断言したのだ。
「アガルタには、聖女・メイリアスがおります。そのために、世界中から優秀な研究者があの国に集まっています。それだけではありません。ポーセハイをその支配下に置いているために、世界中から情報を入手することができるのです。加えて、ヒーデータ、ニザとは縁戚関係にあって、その関係は盤石。併せて、フラディメ、サンダンジといった、知的水準が極めて高い国々との交流も盛んです。それらの関係から、膨大な情報を集め、分析し、処理することがあの国では可能なのです。その力を使えば、一年以内に、花の撲滅方法を確立することは、ありうる話だと思います」
ロン・エスロテルのアガルタへの評価は、正鵠を射ていた。そのためにその言葉には説得力を帯び、マタカにも、彼の話が単なる大言壮語とは思えぬものを感じさせたのだった。
その研究の中心を担うのは、言うまでもなく、聖女・メイリアスだ。クリミアーナ教国にとっては、仇敵とも言える女だが、セルロイトはその聖女の許に留学しているのだという。マタカの心は躍った。
セルロイトを篭絡するのは、簡単だ。おそらく今頃は、無聊を囲っているに違いない。アガルタの都に入り、彼女の住まいを見つける。忍び込みさえすれば、あとは問題ない。最初はセルロイトを縛る。縛って、思いのたけあの体を弄ぶ。そして、犯す。セルロイトは声を立てる。好きという。あなたの奴隷になりますという。
マタカの脳裏に、セルロイトの裸体が描き出される。腕も体も細くて華奢な体……。胸も薄く、肉付きはほとんどないと言ってよかった。ゴツゴツと骨っぽい抱き心地で、マタカがこれまで相手をしてきた女性の中で、最も評価が低かった。だが、彼に対する従順さと奉仕精神は、どの女性よりも優れていた。そのため、彼女との逢瀬は、マタカの欲望を十分に満たすものだった。
セルロイトの体を蹂躙したら、今の研究の進捗状況を報告させる。場合によっては、メイリアスへ目通りするよう図らせてもよい。スキがあれば、メイリアスの心を奪いにいくのもよいかもしれない。
彼はそんなことを考えながら、船に乗り込んだ。岸壁では、相変わらずロン・エスロテルが柔和な笑みを浮かべながら手を振っている。
……もう一度、必ず、ここアフロディーテに帰ってくる。
彼の視線の先には、白く輝く美しい街並みがあった。そして、その最奥には、天に向かってそびえ立つ教皇神殿が見える。マタカの視線はそこにくぎ付けとなった。
友好の花の情報を持ち帰り、そして、私は、教皇聖下のお傍に控える身分となるのだ。教皇聖下のお傍近くに侍りながら、あのお方を、肉体的精神的に癒して差し上げるのだ。この自分なら、それが可能だ。可能なのだ……。
船は徐々に岸壁を離れていく。船頭たちの声が喧しい。ふと視線を元に戻すと、相変わらず、ロン・エスロテルが柔和な笑みを浮かべたまま、マタカに向かって手を振っていた。
……私の手柄はおそらく、ロン・エスロテル枢機卿、あなたのものとなるのでしょうね。まあ、今回はそれでよしとしましょう。ただ、私も、タダでこのまま終わるつもりはありません。あなたには、この恩は必ず返して貰いますからね。
そのとき、ロン・エスロテルが大きく頷いた。マタカは思わず顔を強張らせた。まさか、自分の心の内を、読まれたのだろうか。
……まあ、いい。私の心が伝わったのならば。
マタカは視線を空に向けた。これから向かう東の方角には、黒い雲が低く垂れこめていた。もしかすると、雨が降るかもしれない。
少し、イヤな予感がした。
彼は頭を小刻みに振って、その予感を頭から消し去ろうとした。そして、将来待っているであろう理想的な状況を頭に描きながら、船室へと向かった。




