第五百九十話 引き金を引く
それからヴィエイユは約三十分、部屋に居座った。別に反論したり、交渉しようとしたりしたわけではない。ただ、オロオロとした様子を見せて、時おり俺に何か話そうとする……。そんなことを繰り返していたのだ。
いつもの余裕たっぷりで、自信満々に振舞う様子は微塵もなく、これがあの、クリミアーナ教国を率いる教皇かと思われる程の姿だった。そこには、単なる少女がいるだけだった。
結果的にヴィエイユは、しばらく考えさせてくださいと言って、その場を去ろうとした。俺は敢えて何も言わなかった。ヴィエイユに残された道は二つしかない。俺の条件を受け入れるか、自力で友好の花を駆除する方法を確立するかだ。だが、後者を選択するには、あまりにも時間がなさすぎる。駆除方法を確立したときには、すでにアフロディーテが花で埋まっている。
遷都……という方法もないわけではないだろうが、それをすると、確実に彼女の求心力は低下する。激しい権力争いがクリミアーナの中で起こるだろう。花と権力闘争……。内に二つの敵を抱えてしまっては、いかにヴィエイユとはいえ、今の地位に留まるのは難しいだろう。
彼女は呆然とした状態のまま、力なく、傍に控えていたポーセハイに向かって何かを呟いた。すぐに彼女の姿は消えた。アフロディーテに帰ったのだ。
俺は念のため、ポーセハイの棟梁であるチワンに念話を送り、ヴィエイユを連れて帰ったポーセハイをフォローするように伝えた。彼は心配いりませんと言って笑っていた。
誰も居なくなった部屋を見廻す。見慣れた光景だが、何だか、部屋の雰囲気が変わったような気がした。
「何だかな、全く」
俺は思わずフッと笑みを漏らすと、ゆっくりと立ち上がって、いつもの執務室に帰った。
◆ ◆ ◆
「……やっぱり、心が痛みますの?」
小さな声で呟いているのは、リコだった。彼女は一糸まとわぬ姿で、俺の腕の中にいた。俺は図星を突かれてしまい、何も言うことができずにただ、リコの体を撫で続ける。
いつもながら、本当に美しい肌だ。こうして背中を撫でていると、心が落ち着いてくる。
「でも、後戻りは、できませんわ。リノスも、覚悟を決めませんと」
「そうだな」
そう言って俺は、抱きしめている腕に少し力を籠める。
……俺の心の内は、完全にリコに読まれていた。今回のことで、もしかすると、いや、高い確率でヴィエイユは命の危険にさらされるだろう。その上、クリミアーナ教国内では、多くの人の命が危機に晒されるかもしれない。また、多くの人の命が失われるような事態を、その引き金を引いたかもしれないのだ。ふと、冷静になって考えたとき、やはり、俺の心の中は迷いと戸惑いが渦巻いた。
しかし、ヴィエイユのやったことは、到底許されることではない。これが一番の方法なのだ。そう何度も自分に言い聞かせた。
帝都の屋敷に帰り、家族に今日のことを伝える。俺としては、そうした迷いを一切見せずに説明したつもりだった。極めて冷静に、端的に、だ。
メイ、シディー、ソレイユ、マトカル……。皆、俺の決断に全幅の信頼を置いてくれているのがよくわかった。マトカルなどは、アフロディーテに内乱が起こったときのことを想定して、兵士の訓練をしておこうとまで言ってくれたのだ。マトにはそうしたことは一切言っていなかったのに、彼女はちゃんと俺の心底を理解してくれていた。
正直言って、うれしかった。言葉には出さないが、他の妻たちの優しさも伝わって、俺は救われた気持ちになったのだ。
そして夜、ベッドに入ると、リコがやってきた。イデアを連れているかと思ったが、今夜は一人だった。いつもはイデアと共にやって来て、川の字になって寝る。そして、色々なお話をしてやりながら、彼を寝かしつけるのがいつものパターンなのだが、この日はイデアを先にシディーの部屋で寝かせたのだそうだ。
シディーも快く迎えてくれたし、何より、妹のピアトリスが喜んだのだと言う。彼女はイデアお兄ちゃんが大好きで、いつもベッタリしている。リコや他の妻たちにも懐いていて、その愛くるしい笑顔も相まって、我が家のムードメーカになりつつあるのだ。
そんな話をしながらリコは、ブラシで髪の毛をとき、寝る準備を始める。てっきりそのままベッドに入ってくるかと思ったが、リコはそんな他愛のない話をしながら、着ているパジャマをゆっくりと脱いで、一糸まとわぬ姿になったのだ。
いつもとは違う展開に、少し動揺してしまった。ここ最近は、年齢を重ねてしまったという理由で、自分から服を脱ぐことはなかったので、余計にリコの体が、いつもよりも美しく見えた。心臓の鼓動が高鳴るのを、止めることができなかった。
確かに、いつものように、優しく唇を重ね合い、色々な言葉をささやき合いながら、優しく彼女を愛していく段取りとは違っていたのかもしれない。今から考えると、少し乱暴に、性急にコトを運んでしまったのかもしれない。すまなかった……そんな言葉を口にしようとしたとき、不意にリコが顔を上げて、じっと俺の顔を見つめた。
「……たとえ、世界中が敵に回ったとしても、私は、リノス、あなたの味方ですわ」
「……リコ」
「あなたが悪魔に魂を売ったとしても、私は、あなたの許を離れることはありませんわ。だからリノス、迷わずに……」
リコはそれ以上言葉を発しなかった。俺が、キスで彼女の唇を塞いだからだ。
◆ ◆ ◆
同じ頃、新・クリミアーナ教国の教都アフロディーテでは、枢機卿たちが戸惑いの表情を浮かべていた。教皇であるヴィエイユが、部屋から出てこないのだ。
クリミアーナ教国は、すべての決済を教皇が行うシステムとなっていた。そのため、ヴィエイユが執務室に現れない限り、決済が行われることはない。彼女の机の上には、朝から積まれた書類が山となっている有様だった。
「教皇聖下にあらせられては、本日はご不快か何かで?」
穏やかな笑みを浮かべながら、若い枢機卿たちに話しかけているのは、ロン・エスロテルだった。彼は、教皇神殿の執務室で途方に暮れる枢機卿たちに向かって、まるで労をねぎらうように、優し気な口調で話しかける。
「体調が悪いわけではないのですか? ではどうして? ……まあ、教皇聖下もお疲れなのでしょう。たまには、休息も必要です。あなた方も大変ですね。今日はずっと教皇聖下のお出ましを待っておいでだったのでしょう?」
「ハッ……。何度もお出ましいただけるようにお願いに上がったのですが……」
「ほう、珍しいこともあるものだ。今までなかったのではないですか? それだけお願いに上がったにもかかわらず、教皇聖下が一度も執務室においでにならなかったのは」
「ハッ……」
「まあ、そういうこともあるでしょう。このような珍しい場面に遭遇できたのです。あなた方は、大変に運がいい」
「そのような……」
「あなた方も、今日はおやすみなさい。お疲れでしょう。ここまで待っても教皇聖下はおいでにならないのです。もう、今日はおいでにならないと見てよいでしょう。もし、咎められたのであれば、私の名前を出していただいて結構ですから」
若い枢機卿を下がらせたロン・エスロテルは、部屋の中をぐるりと見廻すと、懐から一枚の紙を取り出して、じっと眺めた。そこには、マタカ枢機卿をアガルタに派遣するための内容が記されていた。
彼はフッと笑みを漏らすと、手に持っていた紙を再び懐にしまうと、ゆっくりと部屋を後にしていった……。




