第五百八十八話 動き出す
それから一ヶ月後、新・クリミアーナ教国の教都、アフロディーテは閑散としていた。
いつもは、白い衣装を纏った者が多く行き交い、賑わいを見せているこの街が、今では一人の姿も見当たらなくなっていた。
これは、教皇・ヴィエイユの命令で、教都には厳しい外出制限を設けているためだった。言わば、この都には戒厳令が敷かれ、住民は自由に外出することができなくなっていた。
その理由は言うまでもなく、この都のあちこちに生えている友好の花だった。数十カ所に生えたこの花は繁殖し、その範囲を確実に拡げていたのだ。
これに対して、ヴィエイユも手をこまねいていたわけではなかった。LV5の火魔法を使うことができる魔導士を惜しげもなくつぎ込み、花の駆除に当たらせていた。加えて、クリミアーナ医学研究所にも、花の駆除方法を早急に確立するように命令していた。だが、当初は有効とされた火魔法での駆除は早々に失敗し、駆除方法についても暗礁に乗り上げていた。ここに至って、教国内では万策尽く、の感情が湧き上がり、一部の枢機卿からはこの教都を捨てて、別の地への遷都を進言するものまで出る有様だった。
しかし、ヴィエイユにこの教都を捨てる考えは微塵もなかった。彼女は花の駆除に全力を注ぐ一方で、これ以上花が拡散しないよう、最大限の手を打った。その最たるものが、教都に住む者たちへの外出禁止令だった。
ヴィエイユが恐れたのは、人々の好奇心から花が持ち去られ、それが別の場所で根付いていくことだった。人々の往来を最小限にとどめ、生えてきた花を焼却し続けることで、何とか拡大を抑えることに成功していたのだった。
ただ、聡明なヴィエイユにはわかっていた。この手段がいつまでも効果を発揮する物ではないことを。この問題を解決するためには、一刻も早く、花の駆除方法を確立することだった。
一方で彼女は、フォーアル大公国の動向にも注意を払っていた。これまで沈黙を貫いてきたあの国が、突然掌を返したかのように、クリミアーナに対して強硬な姿勢に出たのだ。その最たる者が、クリミアーナ教の信者の国外追放だった。枢機卿を追放するのであれば、まだわかる。だが、己の国民を追放するのだ。大公がクリミアーナとの決別を考えているのは、火を見るよりも明らかだった。
この姿勢はおそらく、友好の花の駆除方法が確立されたからであるとヴィエイユは考えていた。そこには、アガルタの支援があることは容易に想像がつく。一体、どんな手段を使ったのか。妃であるメイリアスをはじめとして、このクリミアーナに勝るとも劣らない学者がアガルタにはいる。それらの英知を結集させて、魔法以外の駆除方法を確立したのだとヴィエイユは確信していた。ただ、それが一体、どんな方法であるのかは、さすがの彼女の頭脳をもってしても、想像することすらできなかった。
日々刻々と彼女の許には、友好の花の状況が報告されてくる。そのどれもが芳しいものではなく、彼女はイライラを募らせていった。
「教皇聖下、お願いがございます」
突然、男の声が聞こえた。彼女の前に立ったのは、枢機卿のロン・エスロテルだった。彼は相変わらずヴィエイユの眼をじっと見つめてくる。そんな彼に心の動揺や葛藤を悟られまいと、彼女はできるだけ余裕のある雰囲気を醸し出しながら、ゆったりと話しかける。
「何でしょうか?」
「誠に恐れ入りますが、マタカ枢機卿をアガルタに派遣いただきたく、お願い申し上げます」
ロン・エスロテルの言葉の意味がいまいち理解できずに、ヴィエイユは返答に窮した。
マタカ枢機卿は、フォーアル大公国の大公であるテイストの姪であるセルロイトを篭絡し、己の意のままに操ろうとしたものの失敗し、這う這うの体でこのアフロディーテに逃げ帰っていた。今は、次の任地が決まるまで自宅において待機している状態だった。そんな彼を、こともあろうにアガルタに向かわせるというのだ。ヴィエイユが理解に苦しむのは、自然なことと言えた。
ロン・エスロテルは、そんな彼女の心情を十分に察しているかのように、まるで噛んで含めるような言い回しで、言葉を続ける。
「私が調べたところによりますと、アガルタには、セルロイトがいるとのことです」
「そのような情報は、どこから入手されたのでしょう?」
「それは申し上げられません」
「では、その情報を信じることはできません。お下がりください」
「お待ちください、教皇聖下。……わかりました。申し上げます。アガルタのボンイサオ男爵でございます」
「ボンイサオ男爵?」
「左様でございます。あの、ジレットが領内で諜報活動を行っておりました、あのボンイサオ男爵でございます」
「なぜ、ボンイサオ男爵がそのような情報を?」
「フリーマン支部長が、かねてから連絡を取り合っておりました。彼には、フリーマンを介して、アガルタの情報を可能な限り報告するよう求めておりました。男爵はわざわざ都に出向いて情報収集を行いまして、そこで、アガルタ大学において、アガルタ王の妃であるメイリアスが、何かの研究に没頭しているとの話を入手しました。そこには、セルロイトの容姿に酷似した女性が傍についているとのことでございました」
「わかりました。しかし、どうして、ボンイサオ男爵からの情報を私に秘匿する必要があったのでしょう? 疑問ですね」
「失礼しました。ボンイサオ男爵につきましては、ジレットが担当しておりました。その彼の許可なしにフリーマン支部長と私は、男爵に対して指示を出しておりました。言わば越権行為をしたのでございます。その罰は甘んじて受ける所存でございます」
ロン・エスロテルは涼やかな目でヴィエイユを眺めている。彼女は腹の中で食えぬ男だと呆れていた。今、彼を罰すれば、貴重な情報を報告した者を罰すれば、信徒たちにどのような影響を与えるのか、考えるまでもなかった。
……この情報の信ぴょう性如何で、この男の処分はどうとでもできる。
ヴィエイユはそんなことを考えながら、白髪の男と対峙する。
「マタカ枢機卿をアガルタに派遣する件については、一度、検討します」
彼女の言葉に、ロン・エスロテルは恭しく頭を下げた。男が下がり、執務室に誰も居なくなったのを確認すると、ヴィエイユはゆっくりと手を二回鳴らした。
「お呼びでございますか」
ヴィエイユの秘書を務める女性が現れる。その女性に、彼女は凛とした声で命じる。
「着替えを用意してください。出かけます」
「お出かけ……でございますか? あの……どちらへ?」
「取り急ぎ、着替えを用意してください。それと……研究所から、アロン様を呼んでください」
「アロン様?」
「医学研究所で勤務している、ポーセハイのアロン様です」
「し……承知いたしました」
女性は恭しく頭を下げてその場を後にした。
◆ ◆ ◆
「今、かい?」
「はい」
俺はため息をつきながら兵士の顔を見る。彼は真剣な眼差しを俺に向けている。それはそうだろう。ヴィエイユが突然、アガルタ軍本部の入り口に現れたのだから。兵士たちがいるのもお構いなしに転移してきたようだ。小娘の傍には、困った表情を浮かべたポーセハイがいたらしい。おそらく、ぶりっ子全開でヴィエイユから無茶なお願いをされたのだろう。彼には休暇と癒しの時間を与えるようチワンに言っておくことにしよう。
ヴィエイユは戸惑う兵士たちに堂々と名を名乗り、緊急のことだと言って、俺に面会を求めているのだという。俺は兵士に応接室に通すよう命じて、ゆっくりと立ち上がった。
「さて、お仕置きの時間、だな」
空は曇っていて、今にも雨が降り出しそうな天気だった……。




