第五百八十五話 今すぐに!
フラディメ王国の首都、オービッゼ。アリスン城の一角に建てられた屋敷では、リボーン大上王が目を閉じながら天を仰いでいた。
いつもは、鋭い眼光で周囲を威圧し続けるこの大上王が、このような表情を浮かべることは珍しい。幸いにして、部屋には彼の他には誰もいない。だが、部屋の外では、家来たちが緊張した面持ちで控えていた。それもそのはずで、大上王は丸一日、自室から出ていないのだ。
食事もとらず、水も飲まず、トイレにも行かずに自室にこもり続ける大上王。いつもは、忙しそうに動き回り、家来たちを怒鳴りつけることもしばしばであった彼が、こんな状態になっているのは、極めて珍しいことだった。すでに夜は更けて、深夜の時間帯だ。家来たちは心配を通り越して、不気味ささえ感じていたのだった。
当然、家来たちも、折に触れて大上王の様子を確認していた。だが、彼はわかったような、わからないような返事を返すのみで、さらに何かを言おうものならば、その鋭い眼光を家来たちに向けて威圧するのだ。そのために、大上王には誰も、何も言えない状態となっていたのだ。
部屋の中で大上王はひたすら書簡に目を通していた。眉間に皺を寄せながら、分厚い書簡を睨みつけるその姿は、怒りさえ感じさせた。
その書簡の送り主は、アガルタ王リノスだった。家来たちは最初、その書簡の分厚さを目の当たりにしたとき、イヤな予感がしたのだが、それが当たった形となった。一体、あそこには何が書かれているのか、家来たちはただ、固唾を飲んで見守るほかはなかった。
大上王はゆっくりと目を開ける。そして、再び書簡に手を伸ばすと、パラパラとそれをめくり始めた。あるところまで来ると彼は手を止めて、書簡に見入る。それを繰り返すこと数度、彼は再び天を仰ぎながら大きく息を吐き出した。
彼の心は満たされていた。これまでの人生の中で、初めて味わう程の満足感だった。
大上王が目を通していたのは、メイがリノスに提出した報告書だった。友好の花を駆除する実験結果と、それに関する考察が記されていた。その内容は実に明快であり、そこには、折に触れて絵図が記されていて、それがさらに、この報告書の内容を充実させていた。
見事だった。全く、疑問も反論も挟む余地がなかった。これほどの証拠を揃えられていては、納得するしか術がなかった。
加えて、その報告書には、大上王が知らない技法までも記されていた。フェリーラットが友好の花を駆除する最適な手段である点を見つけ出したことに感嘆すると同時に、酸化した土や水を中和する術は、大上王の知的好奇心を刺激してやまなかった。さらには、汚れた水を、ある程度まできれいにする方法までも記されており、若い頃、汚水の問題で散々苦労した彼にとっては、目からウロコの方法がそこに記されていたのだった。
メイが導き出した手法は、汚れた水に空気を送り込み、しばらくそれを放置すると、汚れた物質は沈殿していく。そして、その上澄みの水からさらに不純物を取り除いて、再利用可能なものにするというものだった。大上王は、液体をしばらく放置すれば、成分が分離して沈殿していくということは知っていたが、それをさらに進化させて、水自体を再生するという手法を確立したことに、驚きとある種の悔しさを感じたのだった。
およそ千ページにもわたる報告書は、一言一句丁寧な字で書かれている。折に触れて字体が変わっているのは、書き手が変わったからだろう。そのメイリアスではない者も、見事な字でこれを書いている。その字体からは、何の邪念も、悪意も持たず、大いなる自信が横溢していた。
「ううむ……」
大上王は思わずうなり声を上げる。こんな報告書を、こんな論文を書いてみたい。そんな強烈な欲求が彼の心の中に湧き出していた。
「うむっ!」
彼は立ち上がると、勢いよく自室の扉を開けた。
「うわわっ!」
家来たちが戦慄の表情を浮かべている。だが、大上王はそんな彼らを一顧だにせずに、スタスタと廊下を足早に歩いて行く。
「あっ、あのっ、大上王様、どちらへ? 大上王様、大上王様!?」
後ろから追いかけてくる家来を完全に無視しながら、彼は歩みを進めていく。
◆ ◆ ◆
「……これはお珍しい」
大上王が向かった先は、息子であるメインティア王の居室だった。彼はガウンのようなラフな服を着て、何か、温かいものを飲んでいる様子だった。彼の手には小さなコップのような茶色い容器が握られていて、そこから湯気が立ち昇っていた。
その様子に、大上王は少し怯んだ。話に聞いていた事柄と、全く違っていたからだ。
大上王には、息子のメインティア王は、夜となく昼となく複数の女性が傍に侍り、ほとんどの時間を裸で過ごしていると報告されていた。そうしたことを極端に嫌う大上王はこれまで、息子の居室を訪れたことはなかった。だが、目の前にいる息子は、部屋着とはいえ、きちんと衣服に身を包み、それなりに整えられた髪と髭を蓄えた紳士然とした男性が座っていたのだ。そのあまりのギャップに、豪胆で鳴らした大上王もさすがに虚を衝かれた形となった。
そんな父を、メインティア王はノホホンとした表情で眺めている。彼は手に持っていた容器を口に近づけ、ズズズと音を立てて何かを飲んでいる。音を立てずに食事をするというのは、当たり前の常識だ。その行儀の悪さに大上王は思わず顔をしかめた。
「……何と行儀の悪いことだとお思いでしょう? しかし、これはアガルタ王から教えていただいた作法でしてね」
予想外の名前が出たことで、大上王はキョトンとした表情を浮かべる。そんな父の姿が可笑しいのか、彼は微笑を浮かべながら、さらに言葉を続ける。
「私も最初見たときは驚きましたが……。こうやって、空気と共にお茶を口に含めば、何とも言えぬ甘みと香気が口の中に広がるのです。父上も、お飲みになりますか?」
自分が応というわけはないことは百も承知のはずだ。それを知っていてそんなことを言う息子を、食えぬヤツだと思いながら、大上王は口を開く。
「このような夜更けだというのに……側室は侍っておらんのか」
「一旦、終わらせたのですよ」
「終わらせた? 何が終わったのだ」
「一回戦が」
メインティア王はニコリと微笑む。大上王の顔が強張り、この世のものとは思えぬほどの恐ろしい形相に変わった。
「……儂を、連れて行くのだ」
「連れて行く? どこへ?」
「アガルタじゃ」
「何をしにおいでです?」
「お前には関係ないことじゃ。説明したところで、そなたにはわからぬ話じゃ」
「お言葉ですが父上、アガルタに参るためには、相応の時間がかかります。船や馬車も……」
「転移できるであろうが!」
大上王の大音声が響き渡る。メインティア王は思わず顔をしかめ、周囲にいた従者たちは直立不動の姿勢を取った。
「どういう方法を取っているのかは知らぬが、お前が転移を使ってアガルタと往復していることは知っている。それを使って、儂をアガルタに転移させるのだ」
「今宵は遅うございます。また、明日にでもお話を承り……」
「今、すぐにじゃ!」
「父上……。今は夜更けです。今、アガルタに行ったとしても……」
「ならば、いつじゃ」
「ですから明日また、お話をお伺いしましょう」
「……明日、か。では、六時じゃな」
「は?」
「六時に出発する。それまでに、準備を整えい」
「父上?」
「ライスレイト! ライスレイトはおらぬか!」
「はっ、ここに……」
突然、扉が開き、一人の初老の男が入室してきた。彼は、恐ろしい速さで大上王の傍に駆け寄ると、見事な所作で彼の前に控えた。
「ライスレイト、お前はこの部屋の前で、王の動きを見張るのだ」
「はっ……」
「儂が朝、この部屋に来るまでに、王を一歩もこの部屋から外に出すな」
「……」
「ちょうどよい。時間まで、もう一度、あの報告書に目を通すこととしよう。うむ。聞いておかねばならぬことを、まとめておこうか。フッフッフ」
まるで悪魔のような笑みを浮かべながら、大上王は頷く。彼は踵を返すと、大股で部屋を後にしていった。その後ろ姿をメインティア王は呆然とした表情で見送るのだった。




