第五百八十三話 前進
「ヴィエイユには、お仕置きをするつもりでいる」
リコは真っすぐな視線を向けながら、俺の手を握る。
「いや、別に、妻にするつもりはない」
「……奴隷か何かになさるの?」
「いや、そのつもりもない」
「まさか……命を……?」
「それをするつもりもない」
「では……どんなお仕置きを?」
リコの手に込められていた力が徐々に緩んでいく。まだ、彼女の中では、俺があの小娘に手を出す可能性があると思っているようだ。
「うん、できるかどうかはわからないけれど……」
俺の話を聞いた直後、リコが跳ね上がるようにして飛び起きた。
「それでは、クリミアーナ教国は内乱になりますわっ!」
「……そうなるかも、しれないな」
「ヴィエイユさんに対する罰ならばまだしも、それでは、あの国に住まう者たちにまで類が及びますわ。私は反対ですわ」
「そうならないように、ヴィエイユには条件を出すつもりだ。それに……最悪、内乱になった場合は、俺が助けに出ようと思う」
「……」
リコはじっと俺を見つめていたが、やがて、ゆっくり息を吐いて俺の腕に体を預けた。俺は彼女の背中を撫でながら、言葉を続ける。
「あの小娘は、フォーアル大公国を実験台に使った。あの国が受けた被害は甚大だ。下手をすると、国が亡びる可能性すらあった。メイとシディー、そしてセルロイトがあの花の駆除方法を確立しなければ、多くの人が餓死したかもしれないんだ。そんなものを拵えるなんて、正気の沙汰じゃない」
「きっと、そこまでしてでも、リノス、あなたの興味を引きたかったのですわ」
「そうだな。おそらくあの小娘の狙いは、抑止力だろう」
「抑止力……?」
「ああ。世界を滅ぼすかもしれない花を所有していると俺たちに思わせることによって、俺たちが、アガルタが敵に回らないようにしたいのだろう。あわよくば、俺たちを膝下に取り込もうとする目論見なのだろう」
「……」
「その目論見は外れようとしている。それだけでも、あの小娘はショックを受けるだろうが、俺はそれだけで終わらせる気はない。ただ……。このお仕置きは、ヴィエイユにダメージを与えると同時に、俺たちも憎まれる可能性があるってことだ」
「そう、ですわね」
「ちょっとまた、厄介ごとを引き寄せる可能性もある」
「きっと、大丈夫ですわ」
「そうかい?」
「確かに今まで厄介なことがありましたけれども……。それを乗り越えたときは必ず幸せが訪れました。今回も、きっと、そうなりますわ」
「……ありがとう」
「……」
「頑張るよ、リコ」
「何があっても、私は、あなたの味方ですわ」
俺は再びリコの体を優しく抱きしめた。彼女の体から立ち昇る上品な香りが、俺たちの未来は大丈夫だと思わせた。
◆ ◆ ◆
同じ頃、フォーアル大公国では、メイたちによる最後の実験が行われようとしていた。ライトの魔法が煌々とファンタジック公爵邸の庭を照らし出している。そこには、友好の花が所狭しと生えていて、とてつもない濃厚な香気が立ち込めていた。
通常であれば卒倒してもおかしくない香気だが、リノスの張った結界のお蔭で、メイたちは何の問題もなくその場所で作業することができていた。
「それでは、始めましょうか」
メイの言葉を合図に、シディーとセルロイトは、背後に置かれた木箱の許に向かう。
「メイちゃん」
シディーの声と共に、メイが飛びのくようにしてその場を離れる。それと同時に、二人は木箱のふたを開けた。
ゴトゴトと、何か硬いものが転がるような音がする。よく見ると、木箱の中から夥しい数の小さな生き物が飛び出してくるのが見えた。フェリーラットだ。
メイの指揮で、アガルタ大学の研究チームは、フェリーラットの嗅覚を減退させる薬品を開発していた。ここに運ばれたフェリーラットは、その薬品を投与されていたのだった。
ネズミたちは一目散に、友好の花に向かっていっている。黒い塊が庭に向けてものすごい速さで移動していく姿は、ある種の異様さを感じさせた。
薄暗い闇の中、不気味な音が響き渡った。言うまでもなく、ネズミたちが友好の花をかじり始めたのだ。ある者は花の茎に歯を立て、ある者は土を掘り返していく……。そんな光景がこの庭中で行われているのだ。
そんな中、シディーは庭を見ながら、小さく拳を握り締めていた。彼女にはわかっていた。この実験が成功に終わることを。
「大丈夫よ。絶対、大丈夫」
シディーは、隣で不安げな表情を浮かべているセルロイトに向けて口を開いた。彼女は両手を胸の前で組んで、まるで祈るようなポーズを取っていた。
「……ゼッタイ?」
シディーの言葉に、セルロイトは驚いたような表情を浮かべる。その様子に、シディーは満面の笑みで頷いた。
子供の頃から、セルロイトは母から言葉遣いについて厳しい躾けを受けていた。特に母が嫌ったのは、「絶対」という言葉だった。
「絶対、などという言葉は、生涯の内で何度も使う言葉ではありません」
そう言って諭した母の厳しい表情は、今でも彼女の脳裏に鮮明に残っている。母が最も嫌った絶対という言葉。それを、コンシディー様は何のためらいもなく、そして、自信満々に言ってのけた。コンシディー様は、母のように言葉について厳しく諭されたことは、おそらくないであろうことは想像できる。だが、それでも、彼女の雰囲気からは、生涯何度も使う言葉ではない言葉を今、使うべきなのだということを、セルロイトに教えてくれているような気がした。
「そ……そうですね。ぜ……絶対、絶対、絶対、大丈夫ですよね!」
生涯で初めてではないかと思われるくらいに、セルロイトは声を張った。その様子に、シディーは一瞬、驚きの表情を浮かべたが、やがて、元の笑顔に戻り、大きく頷いたのだった。
「さて、結果が出るまで、しばらく時間がかかります。夕食にしましょうか」
メイが庭の様子を気にしながら、二人に向かって話しかけてきた。そう言えば、朝から何も食べていなかった……。二人はふと顔を見合わせる。
「私、お腹がすいてきちゃった」
「じっ、実は、私も……」
「朝から何も食べていなかったものね!」
そう言いながら二人はケラケラと笑い合った。メイはそんな二人に優し気な眼差しを向けていたが、やがて、一旦研究室に戻りましょうと言って二人を促した。
「うわぁ、美味しそう!」
研究室に戻って、早速食事の準備にかかると、シディーが思わず声を上げた。まだ温かいビーフシチューとパン、サラダ、そして、ふかふかのオムレツがマトカルの手によって届けられていたのだ。メイも空腹だったのだろう。三人はしばらく無言で、用意された食事を味わった。
シディーはふと、目の前に座るセルロイトに視線を向けた。さすがに公爵家の娘らしく、食事の所作がとても上品だ。
「なっ、何か?」
視線に気づいたセルロイトが驚いた表情を浮かべながら話しかけてきた。シディーはスプーンを置いて彼女に向き直る。
「とっても食事マナーがいいって思っていたのよ」
「そっ……そんな……」
「いいえ、セルロイトさんの所作はとても優雅ですよ。私たちも見習わなければいけませんね」
メイが笑顔で話しかける。セルロイトは顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「いいの、いいの、気にしないで。私、子供の頃から母や乳母のミンシによくマナーが悪いって怒られていたのよ。だから、他の人のマナーが気になっちゃって……」
「こっ、コンシディー様でも……おっ、怒られることが……?」
「あるわよ~。子供の頃なんかしょっちゅうだったわ。ミンシには、今でも怒られるのよ。そんなはしたないことをして、お子様が真似をしたらどうするのですって、ね」
「そっ、そうなの、ですか……。いっ、意外です……」
セルロイトは、食事を味わいながら、誰でも簡単に優雅に見えるスプーンとフォークの使い方を、シディーに教えていった。彼女はそれを興味深そうに聞き、目を輝かせながら丁寧に礼を言った。コンシディーとセルロイトはこの瞬間から、大親友になったのだった。そして、セルロイトの運命も、大きく動き始めた瞬間でもあった……。




