第五百八十二話 香り
俺は、ため息をつきながら、手に持っていた分厚い報告書を机の上に置いた。書いてある内容に関しては、半分も理解できないが、要は、友好の花を撲滅させる目途がついたということなのだろう。
ふと、執務室の窓に視線を向ける。そこには、フェアリードラゴンのサダキチの姿があった。俺は窓を開けて、彼を室内に入れる。
『で、どうだった?』
『あらゆるところを見ましたが、それらしきものは見当たりませんでした』
俺はほう、と声を漏らしながら、顎の下に手をやる。サダキチの返答が予想した通りだったからだ。
彼に命じていたのは、新・クリミアーナ教国の教都であるアフロディーテをつぶさに観察しろというものだった。言うまでもなく、あの都における友好の花の状況を調べさせたのだ。サダキチの報告によれば、あの都にはそうした花は全くと言っていいほど生えていなかった。念のため、クリミアーナに属する国々も調べさせたが、そこにも、友好の花らしき花は見当たらなかったのだという。
『ご苦労だった。ところでサダキチ』
『はい』
『あの、友好の花の香りはどうなんだ?』
『どう、と言われますと?』
『いや、いい香りなのか?』
『いいえ、全く』
『お前たちフェアリードラゴンは花を食べるんだろ? 友好の花は食べないのか?』
『……食べませんね』
『なんで?』
『何で……と言われましても……。あまりいい香りではありませんから、食欲がわきません』
『あまりいい香りではない? どういうことだ?』
『いい香りと言えばいい香りなのですが、香りが強すぎるのです』
『なるほど』
『美味しそうな香りとはまた違います。ただ、とても特徴のある香りですので、見つけるのは簡単です』
『特徴ある香り、か』
『そうですね……。リコレット様の香りに似ています』
『リコの?』
『はい。リコレット様の香りを、とてもとても濃くしたような香りなのです』
『そうなんだ……。わかった。ご苦労だった』
俺の言葉を聞いた瞬間、サダキチの姿は消えた。そのとき、執務室の扉がノックされた。入室を促すと、アガルタ大学の職員が部屋に入ってきた。この男は、大学の副学長だ。
「失礼いたします。メイ様からのご伝言です。友好の花の駆除方法について、目途が立ちました。その最終実験を行うために、本日は研究室に泊まり込むとのことでございます」
「そうか……。ということは、シディーとセルロイトちゃんも一緒かな?」
「左様でございます」
「わかった。ご苦労だけれども、セルロイトちゃんのお母さんにも、そのことを伝えてくれないかな」
「畏まりました」
男はそう言って恭しく一礼して、その場を後にしていった。
帝都の屋敷に帰ると、ちょうど夕食ができたところだった。子供たちの出迎えに笑顔になりつつも食卓に着く。今日はメイとシディーはお仕事だと言うと、ペーリスとソレイユが彼女らの分をお弁当にして作ってくれる。それをマトカルが持って行こうと言ってくれる。その言葉を受けて、エリルが私も一緒に行くと言って、二人は連れ立って出て行った。
マトカルとエリルは、十分ほどで帰ってきた。二人が帰って来るまで、俺たちはもちろん、子供たちも、食事には手をつけずに和やかに談笑していた。その光景を見ながら俺は、感動していた。本来ならば、先に食事に手をつける子供がいてもおかしくないのだ。場合によっては、泣いたり騒いだりすることもあるだろう。だが、ウチの子供たちはそうしたことが全くない……あ、アリリアがからあげをつまみ食いしている。……どうやら、俺以外は気づいていないようだし、これはノーカン。見なかったことにしよう。
皆が揃って、いただきます、となる。今日のメニューは、ビーフシチューだ。カースシャロレーの肉をじっくりコトコト煮込んでいるので、コクがあって実に美味い。パン、サラダ、そして、何故かオムレツが付いている。
シチュー、パン、サラダはお代わり自由だ。主に、フェリスとラース姉弟がよく食べるために自然と作る量が多くなる。特に夜はよく食べるために、いつの間にか好きなだけ食べられるようなシステムが出来上がった。意外に思われるかもしれないが、これまで料理が余るというのはなかった。リコを筆頭とする妻たちとペーリスの腕がいいのだろう。
今日の食事は特に美味しいために、子供たちもドンドンお代わりをしている。リコもビーフシチューをお代わりしている。一番食べているのはアリリアだが、彼女は肉ばかりを食べようとしている。コラコラ、ジャガイモやにんじんも食べなきゃいけない。
そんなこんなで食事が終わり、お風呂タイムになる。子供たちがドヤドヤとバスルームに向かう。その後ろを俺も付いて行く。
風呂場はまるで戦場のような騒ぎだ。そんな中、俺は子供たちを片っ端から洗っていく。とはいっても、エリルはもう、自分でちゃんと全部ひとりでできる。少し寂しいが、娘の成長ぶりが頼もしく思える。一方でアリリアは、いつまで経っても俺に甘えてくる。これはこれで、よしとする。
子供たちが上がって、やっと一人の時間になる。俺は湯船からお湯を抜く。その間に、自分の体を洗う。そのときちょうど、リコが入ってきた。
相変わらず、彼女の肌は美しい。ちょっとドキドキしていると、リコは俺の隣に座って、自分の体を洗い始めた。
いつも不思議に思うが、彼女は風呂のマナーも見事に洗練されている。そうした教育を受けたのだろうか?
「入浴の所作? いいえ、そんなものはありませんわ」
「そうなの? てっきり、そういうものがあると思っていた」
「そもそも、入浴など人に見せるものではありませんわ。ただ……お風呂とはいえ、常にだれかに見られていると意識して入浴する……。そんなことくらいですわね」
「で、あれば、リコの入浴の所作が美しいのは、才能かな」
「ご冗談を」
そんなことを言いながら、俺は浴槽に湯を張る。我ながら見事な温度調整だ。
リコと二人、ゆっくりと湯船につかる。体の疲れが溶けていくようだ。ふと、昼間のサダキチの会話を思い出す。俺はゆっくりとリコの髪の毛に鼻を近づける。
「何ですの? どうかしたのですか?」
「……いや。あの友好の花が、サダキチたちフェアリードラゴンには、リコの香りがするらしいんだ」
「私の?」
「ああ。で、ちょっと香りを……」
「やめてくださいな」
リコは照れた笑みを浮かべながら俺から離れ、そのまま風呂から上がってしまった。仕方がないので、俺も上がることにする。
寝室で寛いでいると、リコが入ってきた。イデアも一緒にいるかと思ったが、彼女一人であるらしい。
「あれ? イデアは?」
「マトの部屋で寝てしまいましたわ」
「じゃあ、マトはエリルとイデアと……?」
「ええ。三人で寝ると」
「ファルコもいるのに、大変じゃないか?」
「ファルコはエリルが面倒を見てくれるので、問題ないとマトが……」
「何と……いい娘だ……」
「泣いているのですか?」
「……いや。そんなことはない。断じてない。大丈夫です」
リコは優しげな笑みを浮かべながらベッドに入ってきた。自然と、彼女を抱きしめる。
「……今更だけれど、確かにリコは独特の香りがするな。上品な香りだ」
「……先ほどの話ですの?」
「ああ。いつものことなので気に留めなかったけれど、これはリコの体臭かな?」
「どうでしょうか……」
リコは俺の腕からすり抜けると、じっと俺に視線を向けた。
「リノス」
「何だい?」
「友好の花のことです」
「ああ」
「メイとシディー、そして、セルロイトさんのお蔭で、あの花の繁殖は何とか食い止められそうですが、リノスはあの花を、ヴィエイユさんをどうするおつもりなのですか?」
「ああ、その話だけれど、一応は考えてあるんだ。……ちょうどいい機会だ。リコ、相談に乗ってくれないか」
俺の言葉に、リコは真剣な表情で頷いた。




