第五百六十九話 花の香り
馬車に揺られながら、セルロイトは、まだ手に残るヤンノーリの温もりを感じていた。彼女にとって、男性の手は冷たいもので、まさか、あんなに温かいものだとは思わなかった。実際、彼女を抱いたマタカは、事あるごとに、セルロイトの体が温かいと褒めた。彼の冷たい手が、自分の体温によって温められていくその行為こそが、セルロイトにとっての愛情だった。
「どうしました?」
メイリアスが優し気に話しかけてくる。セルロイトは、オドオドと俯く。この立派な女性の前で異性のことを考えていた自分が、恥ずかしかった。そんな彼女の心を見透かしたかのように、メイリアスは口を開く。
「ご安心ください。きっと、大丈夫ですよ」
何が大丈夫なのか、セルロイトは理解することができなかったが、メイリアスの話を聞いていると、不思議に大丈夫だと思えてきた。彼女は再び顔を上げる。
「あの……。私へのお客様と……うっ、伺いましたが……」
「そのようですね。私も、どなたがお見えなのか、知らないのです」
「そっ……そうですか……」
不安そうな表情浮かべるセルロイトに、メイリアスは、そっと手を添える。
「大丈夫です。私たちを呼んでいるのは、アガルタ王・リノスです。ご主人様が呼んでいらっしゃるのでしたら、大丈夫です。そもそも、悪しき者をご主人様は我々に引き合わせたりはしません」
メイリアスの言葉を聞いても、セルロイトはなおも不安だった。おそらく、これから会う人は、初めて会う人なのだろう。上手くしゃべることができる自信がなかった。きっと、言葉が出てこずに、相手に不快な思いをさせるのだろう。そんなことを考えると、彼女の心は鬱蒼としたものになった。
「大丈夫ですよ。私が、ついていますから」
メイリアスは優しくセルロイトの手を握った。彼女の手は、ヤンノーリと同じで、とても温かかった。その温もりは、心の不安を少し軽くしてくれるように感じた。
◆ ◆ ◆
迎賓館に到着すると、そこでは、館長であるミンシが待っていた。
「ささ、どうぞ。お客様がお待ちです」
「あっ、あっ、あっ、あの……きっ、着替えを……」
「そのままで結構です」
「でっ、でも……おっ、お客様……。それに……汚れ……」
「問題ございません」
ミンシは笑顔のまま、スタスタと廊下を歩き始めた。戸惑うセルロイトに、メイリアスが優しく微笑みかけて、一緒にいきましょうと促した。
「やあ、突然呼び出して、申し訳ありませんでした」
扉を開けると、そこには、ソファーに腰かけて、満面の笑みを浮かべた、アガルタ王・リノスの姿があった。その隣には、小柄な女性が控えていた。確かこの方は、アガルタ王様のお妃さまの一人だ……。そう思ったとき、セルロイトの目の前に、一組の老夫婦が座っているのが見えた。
小柄な白髪の男性と、同じく小柄な白髪の女性。その女性から漂う香りに、セルロイトは覚えがあった。
「お……お母様!? お父様!?」
セルロイトの声に振り向いた老夫婦は、まさしく両親だった。母はいつもの通り、落ち着いた表情で彼女を眺めている。一方の父は、彼女の姿を見て、今にも泣きだしそうな表情を浮かべている。もしかすると、二度と会えないかもしれないと思っていた両親に、こんなに早く再会できるとは思わなかった……。自然と、セルロイトの両目から涙が溢れた。
「おい、こっ、こんなところで、なっ、泣くヤツが、あっ、あるか……。げっ、元気そうで、あっ、安心……したっ……」
父の声が涙声に変わっている。セルロイトは言葉が出てこずに、何度も頷く。
「さ、セルロイトさん……」
メイリアスが両手で彼女の肩を抱きながら、両親の間に座らせる。セルロイトが座ると、母は何も言わずに、彼女の手を握ってくれた。その手もまた温かく、そして、母は握るその手に力を込めていた。それだけで、この母がどれほど心配していたのかが十分に伝わってきた。セルロイトは、何も言うことができず、ただ、涙を流すしかなかった。
「まさか、セルロイトさんのご両親がお見えだったとは……私も驚きました」
リノスの隣に腰かけながら、メイリアスが笑顔で口を開く。リノスは少し小首を傾けながら、笑みを浮かべる。
「いや、少し驚かせようと思ってね。ただ……まさか、こんな感動の再会になるとは思わなかったな。少し、反省している」
「アガルタ王様、何とお礼を申してよいやら……」
ハーツ公爵夫人が恭しく一礼する。その様子に、リノスは手を振って答える。
「いやいや、こちらこそ、差し出がましいことをしました。お許しください」
「お母様、お父様……。どうしてアガルタに?」
セルロイトが目を真っ赤にしながら、二人に話しかける。父のハーツ公爵は、スッと彼女から視線をそらせて、そっぽを向いてしまう。
「あなた……。どこを向いているのです。ちゃんと説明しませんと……」
「わっ、わかっている。いっ、今、説明する……。なっ、涙が、止まらんのだ……」
そんな夫の様子に、夫人は呆れたように顔を左右に振っている。そして、さも申し訳ないと言わんばかりに、彼女は深々と腰を折った。
「お気になさらないでください」
口を開いたのは、メイリアスだった。公爵夫人は真っすぐな視線を彼女に向ける。
「我が夫、リノスも、よく泣いております。殿方はどうしても、娘のことになると涙腺が弱くなるようです」
「おいおい、俺がいつ娘のことで泣いた?」
「この間も、エリルちゃんが作った玉子焼きを食べて、泣いておいででした」
「あれは……本当に美味かったんだ。泣くくらいに、美味かったんだ……」
「ホホホ……」
メイとリノスのやり取りを見て、公爵夫人は思わず笑みを漏らした。その様子に、その場の空気が、とても和んだものになる。
「さっ、さて……。ほっ、本題に入ろう」
ハーツ公爵が涙を拭いながら、傍らに置いていたカバンを、いかにも大儀そうに持ち上げて、テーブルの上に置く。
「しょ、書簡でも申しましたが……」
「ああ。「友好の花」ですね?」
「さっ、左様です……」
公爵は鞄を開けようと手を添えた。そのとき、シディーが口を開いた。
「お待ちください。その前にリノス様、このカバンに結界を張って下さい」
リノスは、シディーに言われるがままに結界を張る。シディーの指示は、微に入り細を穿つもので、リノスは呻き声を上げながら、何とか結界を張り終えた。
「ふぅぅ……。では、どうぞ」
リノスに促されて、ハーツ公爵は戸惑いながらカバンを開いていく。それはとても厳重なもので、カバンの中には密閉された箱が入っていて、その中には、さらに何重にも布が巻かれていた。それを公爵は丁寧に丁寧に外していく。
「……こちらです」
「……邪悪な気配がする」
シディーの声が低くなる。彼女は、この花から放たれている禍々しい雰囲気を、敏感に感じ取っていた。彼女は、花をまるで舐めるようにして観察していく。それにつられて、メイも花に顔を近づけて観察し始めた。二人の美女が、一本の花にまるで、まとわりつくようになっている姿は、かなり異様と言えた。
「……これが、枯れることなく増え続ける花ですか。とてもいい香りがしますね」
リノスも遠目から花を眺めている。確かに、彼の言う通り、花からはすばらしい香気が立ち昇っている。
「メイちゃん」
不意にシディーが口を開く。彼女は眼を閉じて花の香りを嗅いでいる。
「この香り……ラサカの香りがしない?」
「……そうですね。確かに、少し香りますね」
二人は顔を見合わせながら頷いている。リノスはよくわからないという表情を浮かべながら、二人に向けて口を開く。
「二人とも、その、ラサカって何だい?」
リノスの質問に、二人は顔を見合わせていたが、やがて、シディーがゆっくりと口を開く。
「花、茎、種……全てに毒が含まれる花です。生命力が極めて強い花としても知られています」
シディーの目が、鋭さを増していく……。




