第五百六十話 化かし合い
それからしばらくして、フォーアル大公国内において、リルレイン侍従長の妻であるパッソのことが話題になった。理由は、彼女が纏っている香りだった。
彼女とすれ違うとき、わずかだが鼻腔に、何とも言えぬ上品な香りがする。人々は思わず足を停め、その香りが一体どこから来ているのかを探す。そして、振り返ると、意気揚々と廊下を歩くパッソの姿を見て、彼女が醸し出す香りであると気付くのだ。
「奥様、今、お付けになっている香水は、どちらのものでございましょう?」
パッソはここ数日、大公国の要人の妻たちが日々開くお茶会に呼ばれるたびに、そんな質問をされていた。彼女はそれに対して、香水などは付けておりませんと笑顔で否定する。あら、ご謙遜を。いえいえ、本当に何も付けておりませんの。そんな会話があちこちで、まるで判で押したように繰り返されたのだ。確かに彼女は香水をつけていたわけではない。ただ、お茶会に着て行く衣装を、あらかじめ『友好の花』の傍において、その香りを移していただけだった。にもかかわらず、それはまるで、高価な香水であるかのような香りを、いつまでも醸し出し続けたのだった。
……やっぱり、思った通りになったわ。
貴婦人たちの称賛の言葉を聞きながら、パッソは心の中でほくそ笑む。夫は侍従長という、大公様の傍近くに仕える身分だが、その内実は火の車だった。貴族とはいいながらも、所有する領地は狭く、そこから上がってくる税だけでは、食べていくのがやっとという有様だったのだ。貴族の典型のような性格である夫は、万事にわたって鷹揚で世情に疎く、自身の収入を上げる取り組みについては、ほとんど関心を示さなかった。夫はそれでよいかもしれないが、貴族たちと付き合いのある妻のパッソにとっては何かと物入りのことも多く、さらに、元々から贅沢で華やかなことを好む彼女にとって、夫の収入は到底、その欲望を満足させるものではなかった。
パッソは、目の前で笑みを浮かべながら楽しそうにおしゃべりをする貴婦人たちを見て、この香りは売れると確信した。この上品な香りに加えて、クリミアーナ教国が秘蔵している花というブランド力……。これらを巧みに利用すれば、リルレイン家には巨万の富が転がり込むに違いなかった。
「それでは、ごめんあそばせ」
パッソはお茶会が終わるとすぐに席を立ち、外に待たせてあった馬車に乗り込む。馭者には、自宅ではなく、ファンタジック公爵の屋敷に向かうよう、指示を出した。この公爵夫人とパッソは無二の親友だった。親友……と言っても、それはパッソが一方的にそう思っているだけで、実際は、公爵夫人にパッソが強いあこがれを持っているだけの関係だった。
ファンタジック公爵は、フォーアル大公国随一の蓄財家であり、その生活は豪勢を極めていた。広い屋敷に美しい庭。そこには四季折々の花が咲き乱れ、その中で公爵夫婦は絢爛豪華な衣装を常に纏いながら生活していた。一見すると、このファンタジック公爵家こそがこの国の主であるかのように見える豪華さだった。
パッソを乗せた馬車は、そのファンタジック公爵家の屋敷に滑り込んだ。
「突然押しかけまして、申し訳ございません」
笑みを浮かべながら頭を下げるパッソに、公爵夫人は鷹揚に頷く。
「いいえ。私も退屈していたところなのです。よく訪ねてくれました」
「ありがとうございます。本日は奥様に折り入ってご相談申し上げたいことがございまして……」
「ほう、相談?」
「はい。実は……」
パッソはまるで、内緒話をするように、夫人に顔を近づけて、小さな声で話を切り出した。それは、今、彼女が纏っている香りを、夫人に渡したい、というものだった。
「……あなたの香り、を?」
「左様でございます」
パッソは力強く頷きながら、夫人の眼をじっと見つめる。
「私はこの香りをとても気に入っております。しかしながら、こうした上品な香りは、それにふさわしいお方が纏うべきだと思いますの。私ごときが申し上げるのは、甚だ恐縮ではございますが……」
彼女は、この上品な香りは、奥様のような方にふさわしいのです、とこれまでの柔和な表情を一変させて、真面目な顔でそう言い切った。公爵夫人は大テレに照れながら、その必要はないと言って微笑んだが、その瞳の奥がキラリと光っているのを、パッソは見逃さなかった。
「実は、私が纏っております香りは、先だってクリミアーナ教国から贈られた、『友好の花』の香りですの」
「ええっ!? クリミアーナ教国?」
公爵夫人は大仰に驚く。誰よりも噂好きなこのお方が、あの教国から大公に贈りものがなされたことを、知らぬわけはないのだ。だが、パッソはそんなことはおくびにも出さず、さらに言葉を続ける。
「はい。あの忌まわしき国から、大公様に贈られた花でございます。今は、私の屋敷で預かっておりますの。クリミアーナは、あの……セルロイト様を……した、我々にとりましては、敵とも言える国……。しかしながら、かの国は世界に冠たる大国でございます。さすが、と申しますか、まさか、このような香りのする花を贈ってくるとは、私も思いもよりませんでした」
「……」
パッソの言葉に、夫人はゆっくりと頷く。
「その花を、我が屋敷でお預かり申しております。いいえ、本来ならば、そのようなものを我が屋敷でお預かりするべきではないのでございます。しかるべきところで預かるのが筋だと思いますの。しかし、大公様からの命令で仕方なく……。とはいえ、このお花には、これだけの上品な香りが致しますの。ここ最近、いつもこの花の香りを服に付けて外出しておりますけれども、かなり評判がよろしいのです。ただ……私には合いませんの。ですから奥様、是非、この香りを、奥様だけのものになさってくださいまし」
公爵夫人の表情が、ゆっくりと柔和な笑みに変わっていく。パッソも、同じように相好を崩して、笑みを浮かべる。
「では、具体的に、どうしましょうか?」
公爵夫人の笑みの中、目の奥が鋭く光っている。彼女は乗り気のようだ。
「奥様のお衣装をいくつか拝借したく存じます。それに、私が、香りを移してまいります」
「……わかりました。ラナカ」
そう言って、公爵夫人は手を打った。すぐに、執事服に身を包んだ老紳士が現れ、彼女の傍で畏まった。
「私のパーティー用のドレスを十着、パッソさまに預けてちょうだい」
「畏まりました」
「それに、お菓子もお付けして」
「承知しました」
執事が下がると、公爵夫人は、懐から扇子を取り出して、パタパタと自分を仰ぎだした。
「『友好の花』とは、見たことがないのだけれど、どのような花かしら?」
「そうでございますわね……。薔薇の花によく似てございます」
「薔薇……。ホホホ、上品な香りがする理由が、わかる気がするわね。花……ということは、時期が来たら枯れて、種が残るのかしら?」
「そうでございますね。詳しく調べて見ねばわかりませんが、薔薇と同じであれば、挿し木ができるかもしれませんわ」
「挿し木……。まあ、事はどうあれ、花から種が出て、それがこの大公国に根付くというのは、自然なことよね」
「誠に、その通りかと存じます。花が増えますと、それらで香水が作れるかと存じます」
「まあ、あなたの付けている香りが、香水になるなんて、何て素敵なことでしょう」
公爵夫人の表情がぱああと明るくなる。彼女は両手を胸の前で合わせながら、ゆっくりと何度も頷く。
「そうなれば、この素晴らしい香りを、色々なお方に分けて差し上げることができるわね」
「左様でございます。まさしく、奥様にしか、できぬことかと存じます」
「ホホホホホ」
「オホホホホホ」
二人の女性の、機嫌のよさそうな笑い声が、長い間部屋中に響き渡った。
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