第五百五十六話 しばらく浸りたい
「失敗は、失敗のままで終わらせるから失敗なのです。その失敗を成功に導けば、それは失敗ではなく、成功となるのです」
祖父、ジュヴァンセル・セインが事あるごとに口にしていた言葉だ。この言葉のお蔭で、彼の部下は無理難題を押し付けられ、多くの者が命を落としていた。
ヴィエイユの脳裏に、笑顔でその言葉を口にする祖父の光景が、鮮やかに蘇っていた。彼女は眼を開けて、大きなため息をつく。
祖父の言うことは確かに一理ある。だが、お爺様の考え方は半分は合っているが、半分は間違っている。現在は失敗に見えても、将来的にそれは成功であるかもしれないのだ。今、現在の状況が彼の思い通りでなかったとしても、それを失敗と決定づけるべきではない。
そう考えたとき、彼女の脳裏に一つのアイデアが浮かんだ。
「ウフフ……ウフフ……」
ヴィエイユはいたずらっぽい笑みを浮かべながら、笑いをかみ殺す。今、自分が考え付いたアイデアが、まさに、祖父そのものだったからだ。
やはり、私はお爺様の孫なのね……。
そんなことを思いつつ、彼女は手に持っていた報告書を机に置き、両手を鳴らした。すぐに秘書を務める女性が現れる。
「お呼びでございましょうか」
「ロン・エスロテル枢機卿を呼んでください」
「畏まりました」
恭しく一礼して女性は下がっていった。ヴィエイユは再び目を閉じて、椅子にその体を預けた。
◆ ◆ ◆
「お召しにより、罷り越しました」
しばらくすると、ヴィエイユの前に、白髪の男が現れた。その後ろには、女性の枢機卿が控えていた。男はヴィエイユの前で畏まると、じっと彼女の眼を眺めている。これは、数多いクリミアーナ教徒の中でも、かなり珍しいことであると言えた。
信徒の大半は、ヴィエイユの前に出ると、彼女から視線を逸らせる。場合によっては、俯いたまま一切視線を合わせない者もいるほどだ。彼ら、彼女らにとって生き神に等しいヴィエイユは、目を合わせるだけで不敬と感じる。そのため、ヴィエイユに真正面から目を合わせて話をすることができるのは、枢機卿の中でもわずか数人と限られていた。
ロン・エスロテルは、何の邪心も感じさせないキラキラした瞳を、真っすぐに向けている。ヴィエイユはその瞳を眺めながら、ゆっくりと口を開く。
「フォーアル大公国に派遣しているマタカ枢機卿、および、南グレダフル支部の支部長であるフリーマン枢機卿からこのような書簡が届きました」
「はい。私も読みましたが、言葉がございません」
男はさも気の毒、と言わんばかりの表情を浮かべている。そんな彼にヴィエイユはさらに言葉を続ける。
「南グレダフル地域の管理をお任せしているのは、あなたです。ご意見を伺おうと思います」
「……」
男は、ヴィエイユの問いに応えない。しばらくの間、沈黙が流れたが、やがて彼は、姿勢を正して、再びヴィエイユに視線を向けた。
「書簡からは、支部長のフリーマンは、己が最大限の力を尽くしたという感情がよく見て取れます。また、マタカにつきましては、責任を追及されることを恐れている……そんな感情が見て取れます」
ロン・エスロテルの言葉に、ヴィエイユは表情を変えずに彼を眺め続けている。
「私としましては、とりわけマタカにつきまして、挽回の機会を与えたく存じます」
「挽回の機会?」
「はい。このままですと、マタカらフォーアル大公国に派遣しました者たちは、遠からずかの国を追われることになりましょう。とはいえ、かの国は我が教国にとりまして、西の要となるところ……。このまま態度を硬化されては、我が国にとってもよろしくはございません。そこで、マタカらには時機を見て再度、フォーアル大公国に向かわせ、挽回の機会を与えたく存じます」
ロン・エスロテルの言葉がいまいちよくわからないといった表情を浮かべながら、ヴィエイユは少しだけ首を傾げる。
「教皇聖下のご懸念はごもっともでございます。しかしながら、マタカ枢機卿は、主神様の加護をいただいております。二度の失敗はないと心得ます」
「……そこまで言われるのならば、よいでしょう。では、具体的に、どのようにするつもりなのでしょう?」
「まず、最も大切なことは、フォーアル大公国から退去を命じられる前に、マタカらをかの国から引き揚げさせることかと愚考します。退去を命じられる、もしくは、軍勢を向けられてマタカらが討たれるようなことになれば、彼らに挽回の機会を与えることは難しくなります。もっとも、彼らが、かの国で討たれれば、それを口実に我らは軍を向けることができます。我々としましては、その方がありがたくはありますが」
ロン・エスロテルは、真顔のままゆっくりと頷く。その様子をヴィエイユは、無表情のまま眺め続けている。
「まずは、教皇聖下におかれましては、フォーアル大公国に、派遣している枢機卿を引き揚げさせる旨の、親書を送っていただきたく、お願い申し上げます」
「それは吝かではありませんが、具体的に、マタカ枢機卿には何をなさるおつもりなのでしょうか?」
「それにつきましては、彼自らの口から説明させるのがよいかと考えます。ご懸念には及びません。あの男ならば、必ず教皇聖下の御意を適えて御覧に入れます」
「ロン・エスロテル枢機卿」
「はっ」
「私の質問に、お答えください」
ロン・エスロテルは、しばらく沈黙していたが、やがて、仕方がないという表情を浮かべたかと思うと、小さな声で口を開いた。
「恐れ入りますが、お人払いを」
「この部屋には、私とあなたしかおりませんが?」
「いいえ。扉の後ろに一人おります」
ヴィエイユの眼が少し開かれる。彼女は小さなため息を一つつくと、扉の向こうに向かって声をかける。
「オーレリーさん。下がって結構です。用があれば、呼びます」
秘書のオーレリーは、忠誠心の塊のような女性だった。敬虔なクリミアーナ教の信徒らしく、ヴィエイユを神と崇め、彼女をサポートすることに無上の喜びを感じていたのだ。そのために、ヴィエイユの声が聞こえる位置に控えているのが常だったのだ。今回も、彼女が手を鳴らしたときに、すぐに応対できるように扉の後ろで控えていたのだ。彼女のその気遣いが、素直にうれしかった。
だが、そんな感情は面に出さず、ヴィエイユは相変わらず無表情のままだ。そんな彼女に、ロン・エスロテルは小さな声で呟いた。
「アレの試作品が完成しました」
ヴィエイユの眼が大きく見開かれる。
「ついに、完成したのですか」
「はい。ただ、完成とは申しましても、実際に使用したわけではございません。我が国……とりわけ、アフロディーテで使用しますと、想定外のことが起こる可能性がございます」
「で、あれば、どこか安全なところで……。まさか?」
ヴィエイユの言葉に、ロン・エスロテルは大きく頷く。
「かの国はまさに、打ってつけではございませんか」
「なるほど。そういうことですか」
二人は顔を見合わせながら、ゆっくりと頷き合った。すでに、ヴィエイユの頭の中には、これから先にとるべき戦略が次々と浮かんできていた。
……上手くいけば、アガルタに勝利できるかもしれない。
軍勢を派遣するでもなく、策を弄するわけでもなく、これが上手くいきさえすれば、アガルタはクリミアーナなしでは国として維持することができなくなるのだ。即ちこれは、アガルタを支配下に置いたも同然となる。と、なれば、自ずとクリミアーナ教国は、この世界の頂点に君臨することになる。
ロン・エスロテルを下がらせたヴィエイユは、再び目を閉じて椅子に体を預けた。久しぶりに湧き上がってくる希望という感情……。彼女はこの心地いい感覚に、しばらく浸っていたいと強く願った。自然、その表情は緩み、彼女は無意識のうちに笑みを浮かべるのだった……。




