第五百五十五話 唇を噛む
白で統一された建物が立ち並ぶ教都・アフロディーテ。その中心にある教皇神殿の一室で、ヴィエイユが唇を噛んでいた。
教皇の執務室。豪華で広いその部屋には、彼女以外誰もいない。そのため、人前では決して見せることのない狼狽した感情を露わにすることができていた。
よりにもよって、アガルタの国内で暗殺が行われていた。あの国に関しては、教皇である自分の許可がない限りは、一切の活動を行うことを禁じていた。にもかかわらず、コトは行われた。そしてそれは事後報告という形で、ヴィエイユの許にもたらされていたのだった。
彼女はじっと報告書を眺める。一字一字を噛みしめるようにして読み込んでいく。これを作成した者たちの、自らの行為を正当化しようとする心の動きが、文間から手に取るようにわかる。篭絡したと思っていた女性がその家族によって遠ざけられ、アガルタに送られてしまった。まさに、策士策に溺れるとはこのことだ。
そこまで考えて彼女は、苦笑いを浮かべる。私も、人のことは言えないな……と、少し自虐的な気持ちになる。
相手を篭絡して心を奪い、己が意のままに操る……。これまでヴィエイユが世界中で駆使してきた手法だ。これは、彼女が優れた観察能力を駆使して観察し、研究を重ねてきたこともあって、いわゆる、「人の心の動き」をいくつかのパターンに分類し、それぞれの対処方法を確立することができていた。それらを彼女は、布教する際の手法の一つとして取り入れていた。これは大きな効力を発揮する反面、大きなトラブルを引き起こす一因ともなっていた。
特に、自分の容姿に自信を持つ者は、相手を篭絡してしまうと、その関係を維持しようとして、相手だけに意識を集中してしまう傾向にあった。
人の心は、周囲の環境によって作られる……。ヴィエイユが多くの修羅場を乗り越えて導き出したこの説……。それを丹念に伝えても、どうしても油断が生じてしまい、相手の周囲を観察することが疎かになる。今回のマタカとセルロイトの事柄は、まさに、周囲の観察を怠った結果であると言えた。
ヴィエイユにとっての最大の誤算は、親衛隊の副隊長であるジレットが動いたということだ。彼の風貌はさておき、その腕に関しては、部下の中では全幅の信頼を置いている男だ。その彼がわざわざ出向いて、セルロイトを暗殺したのだという。ジレットならば、上手くやり果せるだろう。だが、実行したのはアガルタの国内での話だ。いかに汚れ仕事を専門に行ってきた彼をもってしても、あの王の眼を掻い潜ることができるという確信が、ヴィエイユにはなかった。
「とはいえ、このままですむ、とは思えないわね……」
ヴィエイユは思わず呟く。彼女の心の中には、何とも言えぬ不安感が湧き上がっていた。
正直、あのアガルタ王には勝てる気がしない。出会った当初は、何ということのない、単なる優男だと思っていた。だが、あのお方に近づけば近づくほど、その存在は遠くになっていくように感じる。事実、ヴィエイユは常にあの王に出し抜かれ続けていて、彼女自身、あの王に対しての有効な策が導き出せないでいた。今のクリミアーナ教国の方針としては、アガルタとはできるだけ事を構えず、ひたすら情報収集に専念すると、つい最近、部下たちに指示したところだった。
今、ヴィエイユ率いる新・クリミアーナ教国は西側に空いた大穴をどうやって埋めるかに躍起になっていた。ラッカー率いるサブクリナー王国が、すでにコントロール不能の状態に陥っているのだ。
言うまでもなく、国王であるラッカーは、アガルタから迎えたサイリュースの虜となっていた。この種族は容姿端麗にして、男性を篭絡する手練手管に優れていると言われている。その噂に違わず、まるで獣のようなラッカーを篭絡し続けている。
サブクリナー王国は、いわゆる絶対君主制だ。国王が統治の全権能を有して、自由に権力を行使する。そのため、クリミアーナ教国としては、国王さえ押さえておけば、その国はもはや、教国の自由になったも同然だったのだ。
だが、今回ばかりはそれが仇となった。国王であるラッカーが操ることができないという状況は、一つの属国を失ったと同じ意味となる。
サブクリナー王国から教都アフロディーテまで、船で僅か一日の距離だ。遮るもののない一本道……。もし、ラッカーが寝返り、彼が率いる精鋭三万がこのアフロディーテを目指したとなると、このヴィエイユが心血をかけて作り上げた都は、一日も持ちこたえることができずに灰燼に帰すことになるのだ。
ヴィエイユとしても、そのようなことにならぬように、方々に手を打っていた。王国内の政治と軍を治める者たちに直接的、間接的に指示を与え、心が離れぬように取り組んでいた。だが、肝心のラッカー自身が首を縦に振らない。ヴィエイユの数度にわたるアフロディーテへの出頭要請も、国内の状況が混乱しているという理由で、その命令を拒否するありさまだった。
確かに、現在のサブクリナー王国は、ルワザン島のレイス火山の大噴火の影響を受けて、作物に甚大な影響を受けている。おいそれと国王自らがアフロディーテに伺候している状況ではないだろう。だが、以前のラッカーであれば、どんな状況であっても、要請があればすぐにアフロディーテまで飛んで来る男だった。その彼が、ヴィエイユの要請を断るのだ。彼女はもちろん、クリミアーナ教国の幹部が衝撃を受けたことは、言うまでもなかった。
ラッカーは相変わらずリジアと閨房で過ごし続けていた。だが、午前と午後の数時間は政務を執り、驚異的な情報処理能力で、決済を行っていた。どうやら彼は、時間を決めて政務を執ろうとしているらしく、そのために、優先順位を決めて決済を行っているようだった。そのせいもあって、サブクリナー王国は特に大きな乱れもなく、何とか現在の体制を維持し続けているのだった。
ちなみに、後宮の総取締役からの報告によれば、ラッカーはリジアと閨を共にする前に、必ず湯浴みをしていた。彼は自分の体だけでなく、リジアの小柄な体を、まるで宝物を磨くようにして洗うのだと言う。あの、樋熊のような毛むくじゃらの手が、体中をはい回るのだ。ヴィエイユにとっては身の毛もよだつことだが、とはいえ、それをすることで、彼のキツイ体臭は幾分か緩和される。それを勧めているのは、リジアであることは火を見るよりも明らかだった。ラッカーは徐々に、体だけでなく心までも、このサイリュースに操られつつあるのだ。
アフロディーテの西側の防衛が急務となった中、注目されたのが、フォーアル大公国だった。この国は長い間鎖国の状態にあり、クリミアーナ教国との関係も長い間、必要最小限にとどめられていた。教国にとってみれば、小さい島の、何の力もない小国であり、取り立てて注目もされなかった国だったが、この国は、サブクリナーとアフロディーテのちょうど中間に位置していた。もし、ラッカーが教都に向けて軍を発したとき、砦となるのは、この国しかなかった。クリミアーナ教国は、このフォーアル大公国を盾として使おうと考えたのだ。
とはいえ、サブクリナーの精鋭を相手にすれば、この小国は半日、もって一日しか持ちこたえられないだろう。だが、それだけの時間があれば、周辺国からの援軍は間に合うのだ。今の教国にとって、それが残された唯一の防衛手段と言えた。
幸いにして、フォーアル大公国に付け入るスキはあった。ヴィエイユ自らが手を下すほどのことでもなかったために、今回は部下たちに任せたのだが、それが裏目に出た形となった。
「さて、どうするべきか……。このままにしておくわけには、いかないわね……」
ゆっくりと椅子に体を預けて、目を閉じる。そのとき、不意にヴィエイユの頭をかすめるものがあった。それは、彼女の祖父である前教皇、ジュヴァンセル・セインの面影だった……。




