第五百四十二話 大公と大公妃
砂漠の中を、一台の馬車が走っていた。その中には、一組の老夫婦が無言のまま座っていた。
夫の肌は浅黒く、顔に刻まれた深い皺は、それまでの人生の苦労がありありと現れていた。一方の妻はいわゆる犬獣人で、夫と同様、その顔には深い皺が刻まれているが、目に讃えられた優しい光は、この女性が慈愛に満ちた人であることを示していた。
炎天下の中、馬車は速度を落とすことなく進んでいく。やがて、その行く先には大きな街並みが見えてきた。
「あなた……」
女性が思わず呟く。男は無言で徐々に迫ってくる街並みを眺めていたが、やがて、絞り出すように口を開いた。
「三十五年、ぶりか……」
その声には、万感の思いと戸惑いが入り混じった、複雑な思いが込められていた。
馬車に乗っているのは、サンダンジ王国の国王、ニケの長男であるシンと、その妻のジャニスだった。シンにとっては、三十五年前、新・クリミアーナ教国の教都、アフロディーテにおいて、父・ニケの前でジャニスと結婚し、王太子の位を降りると宣言してから、初めての帰国だった。
アガルタ王リノスとその妻、メイリアスの説得もむなしく、ニケは頑として二人の結婚を許さなかった。そのうえ、ニケはシンに使者を遣わし、親子関係の断絶を宣言して、王族の身分を剥奪するとともに、国外追放を言い渡したのだった。もはやお前とは親でもなければ子でもない。この先は自由に生きて野垂れ死ぬがいい。ニケは使者を介して、そんな言葉を伝えたのだった。
ニケの態度は一貫して強硬だった。シンを着の身着のままで放り出しただけでなく、一切の援助を行わなかった。ニケからしてみれば、この息子のために、多くの国民が命を落としたのだ。その魂に報いることなく、王太子としての責任を全うすることもなく、自分の好きな道を選んだ息子の振る舞いは、サンダンジを預かる王として、到底許せるものではなかった。
むろん、サンダンジ国内では、シンに対して同情する者も多くいた。彼らは、国外に追放されたシンに、せめて「大公」の称号を与えてはどうかとニケに提案した。また、王太子の位を降りたとはいえ、シンはニケ王の血のつながった息子だ。そんな彼が貧苦の末に野垂れ死んだとあっては、サンダンジ王国の名に傷が付く。せめて、日々の生活に困らぬように恩給を支給してはどうかと提案する者も多かった。
しかし、ニケは頑として首を縦に振らなかった。その理由は、ニケ王の妻である、王妃オブワーの強い意向も働いていた。彼女は、シンに「大公」の称号を与えれば、自ずとその妻であるジャニスは「大公妃」となる。それだけは、何としても認められぬといって譲らなかったのだ。
王妃にしてみれば、妻のジャニスは、憎しみの対象以外の何物でもなかった。手塩にかけて育てたかわいい息子を寝取った女……。それが、どこぞの国の王族であるならば話はわかる。だが、ジャニスは単なる平民の娘だ。そんな氏素性もわからない女に、この国の王族の一員として迎え入れるなど、到底受け入れられぬ。それこそ、サンダンジ王国の恥となると、ニケの前で繰り返し息巻いたのだ。そんなこともあって、結局シンは、何の支援もないまま国を追われたのだった。
だが、当のシン本人はそのことについて、全く意に介することはなかった。むしろ、ジャニスと共に医療の道に進むことを喜んだのだった。当初は、罪悪感に苛まれたジャニスも、リノスや、妻のメイリアスたちから説得されて、シンと夫婦になる道を選んだ。その後、この二人は、アガルタ大学の研究室で、医療の腕を磨いた。
二人は、あるときを境に、世界中の無医地区を訪れ、そこで医療活動を行うようになった。短くても半年、長いときは数年にわたって滞在し、多くの人々の命を救うとともに、医療に従事できる人材の育成にも努めたのだった。
二人の活動は称賛を受けたが、その内実は、決して楽なものではなく、苦労の連続だった。基本的に彼らは患者から金をとることはなく、その活動は貴族など裕福な家から得る報酬や、寄付などによって賄われていた。そのため、活動当初は常に資金不足に見舞われ、そのために、救える命が救えなかったこともしばしばだった。
また、常に病人と接する生活は、折に触れて二人を病の床に押しやった。伝染病などに罹患することも多く、危篤状態になったことも一度や二度ではなかった。だが、そんなときは決まって、アガルタから救いの手が差し伸べられた。彼らは常に、アガルタ王リノスが見守っていて、その活動は、サダキチたちフェアリードラゴンが逐一報告していたのだった。
そうしたこともあって彼らは、世界各国で優秀な医師を育てることに成功した。そして、二人が夫婦になってちょうど三十五年が経ったとき、不意にサンダンジ王国から招待を受けたのだった。
それは、シンにとっては祖母に当たる、ゲム王太后生誕百周年記念式典を開催するにあたり、現在のサンダンジ国王であるエベスが、二人を招待したのだった。
すでに父であるニケは隠居しており、ジャニスを激しく嫌ったオブワー王妃は数年前この世を去っていた。エベスは、わざわざ二人に勅使を派遣して、礼を尽くして式典へ招待した。当初は返事を渋っていたシンだが、アガルタ王リノスと王妃メイリアスに説得される形で、サンダンジ王国に向かうことにしたのだった。
サンダンジ王国は、シンが国を出たときと、何も変わってはいなかった。まるで、時間が止まったかのような感覚に陥ったほどだ。彼が子供の頃に過ごした宮殿もそのままで、彼は懐かしさのあまり、しばしの間、動くことができなかった。
「先生、お懐かしゅうございます」
宮殿に入り、謁見の間に通された直後、壮年の男に声をかけられた。二人は最初、この男が誰だかわからなかったが、彼の首筋に刻まれた傷を見て、ようやく思い出した。何と彼は、十数年前に二人が手術をして助けた男だったのだ。そのときはまだ、少年の面影が残る青年だったのだが、それが今や一人前の立派な男に成長していたのだった。
聞けばこの男は、二人が治療を終えてしばらく、世界中を放浪しながら医療の腕を磨いたのだという。そして数年前、ここサンダンジ王国に流れ着き、すでに死期の迫ったシンの母であるオブワーの治療に当たった。それ以降、彼はこの王国で王族付きの医師として活動していて、どうやら、二人の帰国も、この男の口添えが発端となったようだった。
その後、シンたち夫婦は、現王であるエベスに謁見し、丁寧なもてなしを受けた。そして、王族たちとあいさつを交わした。その中には、懐かしい顔も多くあり、彼らは皆、シンとの再会を喜んだ。
不意に、人々の会話が止んだ。気が付くと、白髪の老人が、両脇を抱えられながら、たどたどしい足取りでこちらに向かって来るのが見えた。
「父上……」
誰に言うともなくシンが呟く。その老人は父のニケだった。顔色は悪く、その顔には死相が現れていた。彼の余命が幾ばくも無いことは、火を見るより明らかだった。
ニケは用意された椅子に、大儀そうに腰を下ろした。その直後、シンは無意識に父の手を取り、脈を取った。妻のジャニスも、ニケの前に畏まり、その表情をじっと観察している。
「……アガルタ王は、メイリアス王妃は、息災か」
「私どもも、久しくお目通りしておりませんが……ご息災かと思われます」
「……年を取ったな」
「……お互いさまでございます」
「……我をどう診る?」
「長くもって、三月かと」
「……言うではないか。我の命は、あと、ひと月とは持つまい」
「……」
ニケはシンとジャニスの顔を交互に見比べていたが、やがて、フッと笑みを漏らすと、弱々しい声で口を開いた。
「よくぞ、戻ってきた。最後に、そなたらに会えて、我は、満足だ」
「父上……」
「エベス、ようやった。褒めてとらす」
ニケの言葉に、エベス王は無言で頭を下げた。再びシンに視線を向けたニケは、ニコリと笑みを浮かべた。
「これで、よかったのかもしれぬな。何もかも、これで、な……」
シンとジャニスは、じっとニケに視線を向け続けた。
その後、シンには正式に「大公」の称号が与えられ、妻のジャニスには、「大公妃」の称号が与えられた。そして二人には、サンダンジ国王より直々に恩給を出すことが伝えられた。二人はそればかりはと固辞したが、父・ニケの懇願によって、ようやく首を縦に振ったのだった。
ニケはそれからふた月後にこの世を去った。父の死を見届けたシンは、再びサンダンジ王国を出て、無医師地域での活動に戻った。彼にはサンダンジ王国から手厚い支援が行われ、二人の活動はさらに多くの人の命を救うこととなった。
それからさらに十年後、シンとジャニス夫婦は、旅先でこの世を去った。満開の桜が咲き誇るその木の下で、二人は手を取り合いながら、まるで眠るようにして亡くなっていた。そのあまりの美しいさまに、人々は二人をその木の下に埋葬し、その死を悼んだ。
二人が眠る桜は、その後も、見事な花を咲かせ続けたのだった……。
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