第五百四十一話 ヴィエイユ、焦る
「サイリュース?」
思わず頓狂な声を上げてしまった。ヴィエイユは、自分を落ち着かせるために、小さく咳払いをして、手元の報告書にもう一度、視線を落とした。
およそひと月前、ラッカーの許にサイリュースが迎えられた。その後、彼は昼となく夜となくこのサイリュースを愛撫しているのだという。
「何ということ……」
ヴィエイユは思わず天を仰いだ。サイリュースと言えば、アガルタが手厚く保護している種族だ。実際、アガルタ王の許には、サイリュースの族長の娘が嫁いでいる。しかも、その種族は男性を虜にする手練手管を身に付けていると言われている。そのサイリュースに、あろうことか、ラッカーが篭絡されたのだ。ヴィエイユにとってはまさに、お株を奪われた形だった。
「ひと月……」
ヴィエイユは、目を閉じたまま誰に言うともなく呟く。そんな彼女を、数名の枢機卿が不安そうな表情で見守っている。
まさか、そんな女性がいるとは……ヴィエイユ自身、予想もしていないことだった。
ラッカーが皇后をはじめ、数ある側室から避けられていることは、かなり前から把握していた。サブクリナー王国の教徒は、国王の居城深くにも入り込んでいて、ラッカーの動きは逐一報告されていた。むろんこれは、サブクリナー王国に限ったことではなく、クリミアーナ教を信仰する国はもちろん、それ以外の国においても教徒が王の傍近くに入り込み、情報収集にあたっているのだ。
彼を取り巻く女性たちは、できるだけ彼と肌を合わせないように、色々と苦心していた。たとえ、彼に召されたとしても、なるべく早くその時間が終わるように願っていた。そのため、ラッカーは常に一抹の寂しさを心に抱えていたのだ。
権力で女性の体を自由にすることはできても、その心まで自由にはできていない。そこがラッカーに付け込む隙であり、ヴィエイユはそれを上手に利用して、彼の心を掴んできたのだった。
しかし、サイリュースはそんな彼を受け入れ続けている。ラッカーの心の隙を埋めているのだ。しかも、その女性は、ヴィエイユ自身に酷似した容姿をしているのだという。唯々諾々としてラッカーに従う、自分に似た女性……。ラッカーの心がこちらに戻っては来ないのは、火を見るよりも明らかだった。
このサブクリナー王国は、後宮のすべてを取り仕切る総取締役を務める女性が敬虔な教徒だった、彼女は、一変したラッカーの閨房での生活を詳細に報告してきていた。
まるで、獣のような姿態がそこには書かれてあった。タガが外れたかのように、ラッカーはサイリュースの体を何時間にもわたって愛撫し続けていた。特に、尻への執着は常軌を逸していた。その様子は、ヴィエイユをして、一気に読み進めることができずに、数回、報告書から視線を外したほどだ。ラッカーには、その異常性だけでなく、巨大な体から発せられる体臭や大汗といった難点もある。それらに何時間もまみれながら攻められるというのは、ヴィエイユにしてみれば、身の毛もよだつ行為だったが、彼の許に仕えているサイリュースは、ひと月間もその状況に耐え続けているのだ。これは、ラッカーの体質や体臭を問題としていないと考えるのに十分だった。
ラッカーのサブクリナー王国は、教都・アフロディーテの西側に位置していて、教都の要となっている。ここがアガルタに靡いたとなると、ヴィエイユにとっては、喉元に刃を突き付けられたも同然となるのだ。
「今の、サブクリナー王国の状況は?」
「ハッ。宰相であるエンパス様が滞りなく進めておいでです」
「エンパス様、あとは……サブクリナー王国軍の参謀長であるリオネット様、プラボム教育総監に対して、教皇親書を発行します。早急に届けてください」
「きょ、教皇親書を、臣下の者に発行されるのですか!?」
「何か問題でも?」
「畏れながら……教皇親書は、国を代表する者、すなわち、国王や皇帝に発行されてまいりました。臣下の者に発行された前例は、ございませんが……」
「前例にこだわっていては、何もできなくなります」
「しょ、承知いたしました」
動揺しながら頭を下げる枢機卿を一瞥したヴィエイユは、すぐさま紙とペンを取り出し、カリカリと何かを書き始めた。そして、ひときわ大きな金印を取り出して、ゆっくりと押印したのだった。そこには、こんな文言が書かれていた。
『ラッカー様のご様子が優れないと聞き、心を痛めております。この上は、遠くアフロディーテの地で、ラッカー様が一日も早く回復されることを主神様にお祈り申し上げます。その間、王を助け、国を導いている貴君の働きに、大きく心を打たれております。貴君はサブクリナー王国の柱石です。主神様のご加護がありますよう、私よりも偏に、お祈り申し上げます』
……この親書がどれほどの効果を発揮するのかはわからないが、ひとまず、政治と軍の高官を抑えたことで、あの国に楔を打つことはできるだろう。
枢機卿らを下がらせたヴィエイユは、執務室で一人、目を閉じたまま天を仰いだ。
ここ最近、物事が思い通りに進んでいない……。メイリアスの抱き込み、シンの心離れ、そして、ラッカーの心変わり……。事が思い通りに進まないだけならまだいい。だが、状況はヴィエイユにどんどん不利な方向に進んでいっているのだ。
まるで、真綿で首を締められるような感覚……。この先、アガルタはどんな手を打ってくるのか、皆目見当もつかない。何と言っても、あの王には全くと言っていいほど野心がない。それだけに、ヴィエイユは対処に困るのだ。彼女は、人の欲や隙に付け込むことで、その地位や勢力を拡大してきたからだ。
領地、金、女性……。およそ、世界の王たちの持つ欲望はこの三つに分類される。だが、アガルタ王は、そのどれにも興味を示さない。それは言うまでもなく、それらの欲が全て満たされているからだ。旧ジュカ王国の広大な領土をそっくり継承し、さらにそれを発展させている。その上、周辺国とは強固な同盟関係を築いているために、直接侵略される危険性は少ない。さらには、五人の美女が傍に侍り、性に関する欲望も十分に満たされているようだ。
そのアガルタを支配下に治めることができれば、この世界を制覇したのも同然となる。アガルタ王の心を奪えるのであれば、この体を差し出すことは問題ではない……。これまで、何度も繰り返してきたことだが、全く成功の糸口すら見えない。
正直、ラッカーが篭絡されてしまったのは、大きな誤算だった。彼がこのままクリミアーナ教国と距離を取り、最悪の場合、クリミアーナを裏切るとなると、それは大きな脅威となる。
……ラッカーを傍近くに置いておくべきだったか。ヴィエイユは一瞬、そんなことを考える。手を握りながら、甘い言葉をささやいておけば、こんな状況にはならなかったのではないかと考えてはみるものの、それをしては、自分自身の身を危険にさらすことは、報告書を見るまでもなく想像がつく話だった。
……止まってはいけない。止まっていては、状況が好転することはない。不利な状況に置かれたのであれば、とにかく動くのだ。動けば、突破口が見えてくる。
ヴィエイユの脳裏に突然、そんな言葉がよぎった。これは、祖父である、ジュヴァンセル・セインがいつかの時に口にしていた言葉だった。
……まさか、こんなときに、あのおじいさまの言葉を思い出すなんて。
ヴィエイユは一人、苦笑する。あれだけ憎んだ祖父が、まさかここに来て知恵を貸してくるとは……。何とも皮肉な話だと思いながら、彼女はゆっくりと目を開ける。すると、壁に掛けてある巨大な世界地図が目に入った。
……さしあたって、動くとすれば、どこの国かしら?
ヴィエイユの聡明な頭脳が、ゆっくりと次なる対象を探し始めた……。
横恋慕編、ここで一旦終了です。間話二話を挟みまして、七月より新章に入る予定です。今のところ、ヴィエイユをまだ描きたいという欲求がありますので、次章も彼女が登場する予定です。どうぞ、お楽しみに!




