第五百三十九話 仕官先
一瞬、ラッカーの呼吸が止まった。思わず、ヴィエイユ様と声を上げそうになったが、すんでのところで自重する。こんなところに、ヴィエイユ様がおいでのわけはないのだ。そう思い直して、彼は再び背筋を伸ばす。
「これは……アガルタ王の姫君であられたか……」
「姫……? いや、俺に、こんな大きな娘はおりません。妻のソレイユの里の者です」
「この者は、リジアと申しまして、サイリュースの里におりましたものでございます。この度、そろそろ里の外に出して、研鑽を積ませることとなりました。つきましては、よい主人にお仕えさせたく色々と思案しているところなのです」
ソレイユが、艶めかしい視線をリジアとラッカーと交互に向けながら、口を開く。その様子を見ながらラッカーは、ごくりと唾を飲み込む。
「では、誰ぞに仕えたいと……」
「はい……」
ラッカーの言葉に、リジアが毅然とした態度で答える。そんな彼女を横目で見ながらリノスは、髪の色と衣裳を変えるだけで、こうもヴィエイユに似るものかと、心の中で感心する。一体、どこで学んだのか、返事をするとき、少し小首を傾けるヴィエイユの癖まで、そっくりと身に付けていたのだ。
目の前のラッカーは、平静を装ってはいるが、折に触れて目が泳いでいる。動揺しているのが、丸わかりだ。そんな中、扉がノックされ、クノゲンたち数名の兵士が入室してきた。手には何やら、お膳のようなものを持っている。
「何もおもてなしはできませんが、よければ、お召し上がりください。私のむさくるしい給仕は、どうぞご勘弁を」
そう言って彼は、お膳をテーブルの上に並べていく。そこには、見たこともないような料理が並んでいく。そして、彼の傍には、美しい白磁の壺と、盃が置かれた。
「さ、リジア。ラッカー様にお酌を。これは、我がサイリュースの里で作ります酒でございます。どうぞ、ご賞味くださいませ」
ソレイユに促されてリジアは立ち上がり、ラッカーの傍に寄る。だが、彼は顔を強張らせながら、まるで喘ぐようにして、言葉を絞り出す。
「いっ、いや、我は……酒など……」
「ご遠慮には及びません。ラッカー様は、お酒には大変造詣が深いお方と聞いております。我がサイリュースが作りますお酒……。是非、そのご感想をお聞かせ下されば、嬉しく存じますわ」
「あ……ああ……」
まるで夢遊病者のように、呆然とした面持ちで、彼は盃を手に取る。リジアはゆっくりとその盃に酒を注ぐ。ラッカーは、呆けたようにリジアを眺めながら、手に持つ盃を口元に運んだ。
……体の芯が、カッと熱くなった。その直後に、鼻腔に何とも言えぬ芳香を感じる。強い、だが、美味い酒だ。ちょっとした甘みを感じる。……好みの酒だ。これならば、いくらでも飲めそうだ。
空いた盃に、リジアはさらに酒を注ぐ。ラッカーはリジアに視線を向けたまま、ゆっくりとそれを飲み干す。するとまた、リジアは盃に酒を注ぐ。それを再びラッカーは口元に運ぶ。
「リジア、そんなに飲ませてしまっては、ラッカー様がお倒れになってしまうわ」
「これは、失礼いたしました」
「いっ、いや……美味い酒だ……。我は……このくらいでは酔うことはない。心配なされるな……」
「でもラッカー様、顔に赤みが差しておりますわ」
「こっ、これは……酒ではなく、その……」
「まあ、リジアの美しさに、照れておいでですの?」
「いっ、いや、そんなことは……」
「ウフフ。正直な御方……」
ソレイユとラッカーのやり取りを見ていたリジアが、くすくすと笑う。
「おかしい……」
その笑顔に、ラッカーは記憶があった。これは、ヴィエイユ様が、アガルタ王と話をしているときにだけに見せる笑顔だった。二人で何かボソボソと話をしているときに、不意に漏らすその笑顔……。その、天使のような笑みに、ラッカーは何度癒されたことだろうか。あの笑顔を手に入れたい……。日夜思い描いたあの笑顔が、目の前にあるのだ。彼の鼓動は高鳴った。
「もっ、もし、よければ、我がサブクリナー王国で仕えてみなさらんか?」
思わず口に出してしまった。ラッカーはしまったと思いながら、リジアから視線を逸らせる。自分は今、囚われの身なのだ。そんな男に、そのようなことを言う資格など、ない。
「ありがとうございます。しかし……」
ソレイユが口ごもる。確かに尤もだ。戦に敗れた者のところへなど、大事な同胞を向かわせることなどありえない。だが、どうしてアガルタ王夫婦は、自分にこのリジアを目通りさせたのだろうか。そんな疑問を持ち始めたそのとき、ソレイユがさらに言葉を続けた。
「リジアにつきましては、クリミアーナ教国からもお誘いを受けておりまして……」
「なっ、ああ。教皇聖下の許でお仕えするのであれば、それが一番であろう」
「それが、ヴィエイユ様ではなく、ライアガート枢機卿という御方なのです」
「なっ!? ライアガート!?」
「はい。何でも、ヴィエイユ様の傍近くにお仕えされる方と聞いております。先だって開催された学会では、要人警備の責任者に任じられたお方と伺っております。このお方から、リジアを仕えさせないか……。留学という形で、ライアガート様のお住まいで寝起きしながら、アフロディーテで色々と学んではどうかと、熱心にお誘いを受けているのです」
「ヤツになど、やらぬ!」
気が付けば、ラッカーはリジアの手を握っていた。思わず手を離して俯く。そんな様子を、ソレイユは笑顔で見守っている。
「実は、本日、お邪魔しましたのは、ライアガート様のことをお尋ねしたかったのです。リジアは私にとりましても、妹のような者でございます。できますれば、この子を大切にしていただける御方の許に行かせたく思いますので……」
ラッカーは必死で呼吸を整えながら、ライアガートという男が、いかに卑屈で、女々しく、教皇であるヴィエイユ様の権威をかさに着た小心者であるかを説明した。そして、ラッカーが治めるサブクリナー王国が、いかにリジアにとって有益であるかを話し、もし、サブクリナーに来るのであれば、王たる自分が責任をもって世話をしようとまで言ってのけた。すでに、ラッカーの脳裏からはヴィエイユの存在は消えていた。喋るうちに、ラッカーは自分の説明に酔ってしまい、男とはいかにあるべきか、と持論を展開する始末だった。そんな彼を、ソレイユとリジアは優しい眼差しで眺め続けている。
「じょ、条件を承ろうではないか!」
「え?」
いきなりの話で、驚いて目を丸くする二人を見ながら、ラッカーはリノスに視線を向ける。
「今、我は囚われの身である。我を解放し、国に帰還せしめるための条件を承りたい」
「条件……ですか?」
「領土か、金か」
「いや、俺はどちらも興味がないです」
「まさか……我の首、と言われるのか?」
「いえいえ、そんなことは全く考えていません。いや、好きな時にお引き取りいただいて結構です。確かに、ヒヤマはあなた方によって占領されましたが、俺たちの損失は実質ゼロです。別に何か償いをしてもらおうとは思っていません。すでにあなたは、数名の部下を失い、こう言っては何だが……ヴィエイユとの関係も距離ができるでしょう。それだけのペナルティーが科されているのですから、特に俺から何か求めるものはありません。それよりも、あなたの帰りをひたすら待つ家来がいると聞いています。クノゲン!」
リノスから声が上がると、すぐさま扉がノックされ、クノゲンが入室してきた。
「クノゲン、ラッカー王の家来たちは、どこにいる?」
「はい。総司令官のサネナ殿が数名のご家来と共に、ヒヤマの港の沖でずっと待機しています」
「早く、あなたを慕うご家来の許に帰ってあげてください。いや、あなたをここにとどめおいたのは、このリジアをどこに仕えさせようかという相談に乗ってもらいたかったのです。つまらないことで、時間を取らせましたが、まあ、このリジアは、あなたに仕えさせるのがよさそうですね。どうぞ、大事にしてあげてください。敢えて言えば、俺の要求がこれだと思ってください」
そう言って、リノスは立ち上がる。
「あなたの帰国を待って、リジアをそちらに向かわせます。今後ともどうぞ、よしなにお願いします」
その言葉にラッカーは、目を丸くしたまま、ゆっくりと頷いた。




