第五百三十七話 あきらめきれぬとあきらめた
「……この度の格段のお働き、心より感謝申し上げますわ」
「ハッ、ありがたき幸せでございます」
「この度のラッカー様のお働きに、私は、目を奪われておりました。あなた様にずっと見とれておりました」
「……はっ」
「私は、強いお方が大好きなのです。ラッカー様のような強いお方が……。どうぞこれからも、微力な私をお助け下さいませ」
「ハハッ。教皇聖下の御為ならば、いかなる犠牲も厭うものではございません。何なりとお申し付けください」
「心強いですわ、ラッカー様……」
「ハッ……」
ふと、目が覚めた。白い壁、白い天井……。一瞬、アフロディーテの屋敷かと錯覚したが、壁や天井にシミを発見して、ここがアフロディーテでないことを思い出す。ラッカーは、大きなため息をついて、大儀そうに体を起こす。
ぼんやりと部屋を見廻す。そうだ、私は囚われの身となったのだ……。そんなことを考えながら、昨日の出来事を思い返す。
……アガルタ王の前に出ると、突然体が動かなくなった。それまで実行に移すべく、練っていた策が全く役に立たなかった。
「これから、どうすればよいのか……」
ベッドに体を起こした状態のままで、彼は呟く。まさかこんな状態で生きながらえるとは、思ってもみなかった。
ラッカーは、この戦いを起こしたときから、心に期するものがあった。この戦いで華々しく死のうと考えていたのだ。
ヴィエイユ様のことは、どうしても諦められない。だが、彼女の心がアガルタ王に向いていることは事実だ。そして、どれだけ待とうとも、その心が自分に向けられることはないということも、わかってはいる。だが、それでも、どうしても、彼女のことをあきらめることができなかった。
むろん彼とて、これまで何度もあきらめようと努力を重ねてきた。武芸に精を出してみたり、国内の政治に心を砕いてみたり……。挙句は、他の女性に目を向けることで、彼女を忘れようと試みてきた。だが、それらは全くと言っていいほど、効果を見せなかった。彼は、ヴィエイユ様のことついては、すでに、あきらめることをあきらめた心境に至っていた。
ヴィエイユ様のことを思うと、今でも心が張り裂けそうになる……。そんな苦しみを抱えたまま、このまま時を過ごしていくのは、彼にとって耐えられないことだった。この先も、ヴィエイユ様とは顔を合わせるだろう。病気や何かと理由を付けて会わないようにすることもできなくはないが、それはそれで、また、別の苦しみを生む。会えば会ったで、あの天使のような笑顔を手に入れたい、傍に置いておきたいという思いに苛まれるし、会わなければ会わないで、今、彼女はどうしているだろうかという不安とともに、アガルタ王と逢瀬を重ねているのではという妄想に苛まれる……。すでに彼は、精神的に相当追い詰められた状態にあった。
強いお方が好き……。確かにヴィエイユ様はそう言われた。その言葉通り、今、彼女の心は世界最強の王と一部で言われているアガルタ王に向けられている。この自分など、かの王の足元にも及ばないと思われている。
しかし、ラッカー自身は、一対一の肉弾戦に持ち込めれば、勝機は十分にあると思っていた。アガルタ王は、これまでの戦いの歴史を見れば、兵の運用と魔力には十分に長けた男であることは間違いなかった。だが、あの華奢な体を見るにつけ、力勝負はどうも苦手なようだ。家来に調べさせた結果を見ても、アガルタ王自身が刀槍を取って自ら戦ったという記録は見られなかった。そこで彼は、至近距離に近づいて、不意打ちという形に勝機を見出していた。
たった一人でアガルタに降伏し、王の前に引き出される。そのときまでに、先に自ら丸腰となって、抵抗する意思のないことを明らかにしておく。そうなれば、敵はある程度の扱いをせねばならなくなる。罪人のごとく身動きができない程に縛り上げたり、周囲に抜剣した兵士たちを配置したりすることは、礼を失する。アガルタも、そのようなことで、国の評価を貶めることはしないはずだった。
丸腰となり、戦意を喪失している者を引見するときは、どうしても気が緩む。そこに、付け入るスキが生まれる。己が全力の力を込めて、アガルタ王を殴りつける。周囲の兵士も黙ってはいないだろうが、あの華奢な体だ。数発も全力の拳を叩き込めば、命を奪えるだろう。むろん、ラッカー自身もただでは済まないだろうが、兵士の武器を奪い取り、暴れるだけ暴れれば、アガルタ軍に少なからず被害を与える自信はある。そんな中で命を落としたとあれば、サブクリナー王国の名に傷が付くことはないだろう。運よく、馬でも奪って逃げおおすことができたならば、儲けものだ。そのときは、正々堂々とヴィエイユ様に愛を告げ、その体を抱きしめるのだ。ヴィエイユ様は、おそらく自分を殺すだろう。だが、あの体を抱きしめて死ぬのであれば、それはそれで本望だ。
だが、その夢も泡と消えてしまった。死ぬこともできずに、囚われの身となってしまった。アガルタ王は、自分の命を奪わないと言った。この先、国へ帰ったとしても、誹りは免れないだろう。それよりも、おそらくもう、二度とヴィエイユ様に会うことはないだろう。
会わなければ、忘れる……。家来たちが何度も言って聞かせてくれた言葉が頭の中をよぎる。確かに、会わなければ、ヴィエイユ様への思いは薄らいでいくだろう。この苦しみから解放されると思うと、少しホッとする反面、ヴィエイユ様なしの人生を、この先どう歩めばいいのか……。何の希望もなく、ただ、生きる屍のごとき日々を送らねばならないのかと考えると、彼はため息をつくほかなかった。
いつまでも寝ているわけにはいかない。ラッカーはベッドから離れ、部屋を出て、風呂場に向かう。
部屋には誰も居ない。元々ここは、ドルガの街を警備する隊長が詰めていた部屋だと聞かされていた。ベッドルームに風呂場、トイレなど、生活に必要な最低限の設備が整っている。とはいえ、その建物の中にいるのは、ラッカー一人だ。彼の人生の中で、家来が一人もいない生活など、初めてのことだった。
ある種の新鮮さを覚えながら、彼は風呂場で裸になり、水瓶から水を汲み、頭からかぶっていく。ふと見ると、部屋の隅に、体を拭くための布と、着替えが準備されていた。昨夜は……風呂にも入らずに寝たのだった。そんなことを思いながら、一心不乱に水をかぶる。そして、体を拭き、新しい服に身を包んで、部屋を後にした。
風呂場を出ると、大きなテーブルのあるダイニングが目に入る。そこには、いつの間にか、鎧姿の兵士が控えていた。その気配に全く気付かず、ラッカーは思わず驚きの表情を浮かべた。
「昨夜は、よく眠れましたか?」
小柄な、髭面の男が笑顔で話しかけてきた。確かこの男は、クノゲンと名乗る、アガルタ軍の総司令官だ。
「いきなりこの部屋に連れて来られて、戸惑いもあったでしょう。まあ、ゆっくりなさってください。朝食をお持ちしました」
兵士たちが、テーブルの上に食事を並べていく。
「食事は三度、こちらに持って参ります。着替えと汚れた洗濯物は、朝に回収と交換をいたしますので、ご協力のほどを」
まるで旧友に話しかけるかのような口ぶりだ。一国の王に対する対応ではない。だが、自分は囚われの身なのだ。文句を言う資格はない。
そんなことを思いながら、黙って椅子に座るラッカーに、クノゲンはさらに言葉を続けた。
「明日の午後、リノス様がこちらにお見えになるそうです。それまでは、ゆっくりとお寛ぎください」
アガルタ王が明日、自分の許にやって来る……。その意図が、ラッカーには全くわからなかった……。




