第五百二十六話 妄執
ヴィエイユの許には、日々、膨大な情報が世界中から集められる。それらの情報を取捨選択し、分析していくのが彼女の最も重要な仕事であった。クリミアーナ教国の歴代教皇は、人間離れした情報処理能力を以ってその仕事にあたり、それができなくなると、その座を他者に譲り渡すことが暗黙の了解となっていた。そのため、その座に固執する者の中には、麻薬に近い薬を常用することでその処理能力を維持する一方、そうした薬によって命を縮めた者や、己の処理能力の低下を最後まで認めなかったために、命を奪われた者もいた。幸い、ヴィエイユはまだ若く、歴代教皇の中でも最高の頭脳を有していたため、今のところ、彼女の座が脅かされる心配は皆無と言えた。
とりわけ、この都では、信徒全てがヴィエイユの目となり耳となって、訪れた国々の情報収集を行っていた。その精度は高く、どの国の使者が、どこで、何を買ったかというところまで調べ上げられていたのだ。その彼女の許に、アフロディーテで交わされた、とある市民の会話が届けられた。
明らかに一般市民の話す内容ではない会話……。彼女はこれがアガルタ王リノスたちの会話であると瞬時に見抜いたが、その内容は自身を愕然とさせるものだった。
……シン様、やはり、王太子の位をお捨てになるのね。
ヴィエイユの脳裏に、自分の傍を離れようとしなかった、彼のことが鮮やかに思い出される。自分の体に触れたいが、父やアガルタ王の目もあってそれができず、必死でその欲望を押さえていた姿……。ヴィエイユの髪の香りを嗅ぎながら、興奮を隠しきれなかったあの、何とも言えない表情……。その光景が次から次へと思い出される。
正直、ヴィエイユには、シンの心を虜にする絶対の自信があった。確かに、会うのは久しぶりで、自分への思いが冷めている可能性はあった。だが、ヴィエイユは、自分の今の姿を見ればすぐにその恋の炎を燃え上がらせることができると考えていた。しかし、彼の心の中にはすでにヴィエイユの存在はないらしい。報告によれば、父であるニケに王太子の位を退くことを宣言し、この犬獣人の女性と共に医師として生きていく許しを乞うている。
……あんなお方の、どこがいいのかしら。
はっきり言って、目立つタイプの女性ではない。ヴィエイユの聡明な頭脳をもってしても、その顔をはっきりと思い出すことはできないでいた。言ってみれば、それだけ印象に残らない地味な女性だったのだ。
数万の信徒の羨望を一身に集める自分ではなく、シンがそんな目立たない、地味な女性を選んだことに、ヴィエイユはある種の怒りを感じていた。
ヴィエイユは、あの犬獣人の女性の魅力を分析してみるが、答えは出ない。彼女は、枢機卿の一人を呼び出し、この女性について調べるように命令を下した。
……これで、サンダンジに大きな穴が開いたことになる。
彼女の思惑では、シンを王位に就け、その彼を操りながら、周辺国はもとより、アガルタの情報を得ようと考えていたのだ。当然、シンの心の内を知っているリノスたちは、彼に重要な情報を与えるとは思えないが、それでも、国と国同士のつながりはある。それを利用すれば、ある程度の情報は得られるものだ。だが、今のヴィエイユには、シンという眼を失ったことによって、アガルタとその同盟国の情報を得ることが難しくなったのだった。
ヴィエイユは一旦思考を止めて天を仰ぐ。処理しなければならない情報は、これだけではないのだ。彼女は素早く頭の中を切り替えて、目の前にある書類に目を通し始めた。
その犬獣人の女性についての情報は、すぐに集まった。名前をジャニスといい、アガルタ大学の研究室で働いている。丁寧で着実な仕事ぶりが評価されており、メイリアス王妃からの信頼も厚い……とあった。
……どちらかと言えば奔放なシン様。もしかして、自分と真逆の女性に惹かれたのかしら?
そんなことを考えている間に、ヴィエイユは次の手を打つべく、思考を開始していた。
「……ラッカー様を呼んでください」
ヴィエイユの突然の声に、傍に控えていた女性は、恭しく一礼する。
◆ ◆ ◆
「お召しにより、参上しました」
鼻を大きく膨らませて、ラッカーはヴィエイユの前に現れた。ヴィエイユの姿を見て欲情していることを、彼女は瞬時に見抜いていた。
そんな彼を心の中で侮蔑しながらも、表情には一切出さずに、淡々と口を開く。
「明日の慰労会ですが、会場の外を警備してください」
「会場の外……でございますか?」
「会場の外です。部外者が入り込まぬように、お願いします」
「畏れながら教皇聖下」
ラッカーが姿勢を正して、真剣な表情をヴィエイユに向けている。そんな彼にヴィエイユはにこやかな表情を向ける。
「今、ここアフロディーテでは、我らに仇なす者たちが集まっております。その者たちをまとめて討ち果たす好機かと存じます」
「その必要はありません」
「教皇聖下!」
「少し、お考え下さいラッカー様。もし、ここで騒ぎを起こすと、我らは世界中を敵に回すことになります」
「その点はご安心ください。クリミアーナ教国に歯向かう者は、私が全て討伐してご覧に入れます」
「必要ありません」
「教皇聖下……」
「戦わねばならぬときが参りましたら、その節はお願いいたします」
「……」
「以上です。どうぞ、お下がりください」
ラッカーはヴィエイユを見据えたまま微動だにしない。彼女はそんな彼に、忙しいのだから早く去ってくれと促すように、首を少し傾ける。
「教皇聖下、一つ、お尋ねしたいことがございます」
「……何でしょう?」
「教皇聖下に仇なす者……。我らクリミアーナ教国の脅威となる者を、私が葬り去りましたら……私を、教皇聖下のお傍に置いていただけますでしょうか?」
「……どういう意味でしょうか?」
「あの仇敵を……アガルタ王をこの世から葬り去れば……」
「フフフ。あなた様では、不可能です」
「それは百も承知でございます。それ故、申し上げております。私が、アガルタ王の首を挙げたそのときは……」
「私は、ここアフロディーテにおいて乱暴狼藉は厳禁すると申しました。それに、アガルタ王様と事を構えるつもりはありません」
「それは重々承知しております。ここアフロディーテで騒動を起こす気は毛頭ございません。それに、アガルタと事を構えるときは、わが国だけで行います」
……このお方、本気で言っているのかしら?
ヴィエイユは心の中で唸った。ラッカーがいかに勇猛な男でも、彼の持つ軍勢では、アガルタと事を構えて勝てる見込みは万に一つもないのだ。それがわからぬ男ではなかったはずだ……。そんなことを思いながら、ラッカーの顔を眺めると、彼の目には不気味な光が宿っていた。
……このお方とは、しばらく顔を合わさぬほうがいいわね。
ヴィエイユは決断する。目の前の男は、完全に恋に支配されてしまっている。こういう場合は一度、会わないという冷却期間を置くことが、最も効果的な方法であることを彼女は知っていた。
……ここまでになってしまうと、私の命令を聞くどころか、暴走してしまうわね。私もまだまだね。もう少し、効果的にコントロールしていかないと。
そんなことを考えながら、ヴィエイユはゆっくりと息を吐きだす。その様子を見たラッカーは、ヴィエイユから目を離すことなく、腰だけを折って一礼した。その瞳には相変わらず不気味な光を宿していた。
ラッカーが立ち去ると、ヴィエイユは目を閉じて何かを考え始めた。その脳裏には、リノスの妻であるメイリアスの顔が浮かんでいた……。
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