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結界師への転生  作者: 片岡直太郎
第十五章 黒龍編
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第四百四十七話 道草

「……全く問題ありませんね」


落ち着いた声で微笑みを浮かべているのは、アガルタ王リノスの妻の一人であるメイリアスだった。彼女は机の紙にカリカリと何かを書きこんでいる。その彼女の前に立っているのは、誰あろう、ヴィエイユだった。


彼女はリノスとの会談を終えた後、メイの診察を望んだ。以前罹患したルロワンスの状態を確認したいというのが理由だった。リノスは苦笑いを浮かべながら、好きにするがいいといって、家来の一人にメイの許に案内するように命令したのだった。


メイはヴィエイユに会うなり、お元気そうで何よりですと言って、満面の笑みを浮かべながら彼女の手を握った。その手は温かく、とても軟らかかった。


……知的レベルは最高レベル。臆病、ではなく謙虚。覚悟したときの行動力は抜群。


ヴィエイユは笑顔でメイと会話を交わしながら、そんなことを考えていた。これは、彼女の悪癖にして最高の武器であり、この卓越した人物観察能力のおかげで、今の彼女があると言ってよかった。


一糸まとわぬ裸の状態で、彼女はじっとメイの横顔を観察する。ペンを動かすその顔は情愛に満ちている。世間で「聖女」や「大賢者」と呼ばれるだけあって、体中から知性が溢れ、同時に、何とも言えぬ優しさがにじみ出ている。この女性は、何度も命の危機に晒される……と言った、人には言えない苦労を重ね、乗り越えてきた。毒薬を作り、多くの人を死に追いやった罪で犯罪奴隷にまで堕とされたのだ。そこから現在の地位を築いたのは一体何だったのか……。ヴィエイユは聡明な頭脳を駆使して思考する。


「あ、ごめんなさい。服を着ていただいて構いません」


気が付けば、メイの真っすぐな瞳が向けられていた。その目には、自分の体には全く興味を示していないことがよく見て取れる。磨きに磨き上げたこの体は、女性でさえも陶然とさせる自信があったのだが、彼女には全く通じていないようだ。


「ここ最近、私も年を取りました」


「ご冗談を」


ゆっくりと衣装を身に着けながら、ヴィエイユは呟く。メイはニコリと微笑みながら返答している。


「いいえ。1~2年前までは、私の体を見れば、女性でさえもうっとりとしたものですが、ここ最近はそういうこともなくなりました。肌が衰えているのでしょうね」


「そうでしょうか……。触診しましたが、お肌の状態はとてもいいと思います。適度に水分を含んでいると思います。きっと、日々、丁寧にお手入れをされているのでしょう。わかります」


……この方は、性的なことに興味がないのだろうか?


あまりにも的を射た答えに、思わずヴィエイユはそんなことを考えてしまう。いや、だが、この女性は、アガルタ王との間に娘をもうけている。それどころか、その腕、顔、首筋……。体の隅々にまで瑞々しさが溢れている。これは日々の生活が充実している証拠だ。ヴィエイユの経験上、こうした人物を篭絡することは難しい。心に付け入るスキがないからだ。


服を身に着けながらふと、この聖女は、夫とどのような夜を過ごしているのだろうかと想像する。


白衣に隠れているが、その体はとても豊満であることがよくわかる。この顔のタイプは、唯々諾々と夫の望むままになっていることは少ない。むしろ、自分から積極的に求めに行くこともあるはずだ。一方でメイリアスの持つ明晰な頭脳をもってすれば、夫の心を敏感に読み解くことは難しくないだろう。察するに彼女は、夫の欲望を敏感に捉えてその望みをかなえつつ、自分の欲望も上手に満たしているのだろう。ヴィエイユの脳裏に、この夫婦の姿態が鮮やかに描き出される。


……いけないいけない。そんなことを考えては、ね。


そう自分に言い聞かせながら、心の中で苦笑いを浮かべる。心を落ち着かせるために、息を大きく吸い込む。


「もう少し、楽しまれたらよいかと思います」


不意にメイがそんなことを言い出す。さすがのヴィエイユをして、その言葉の意味がわかりかねた。


「何となく、ですが、ヴィエイユさんは少し頑張りすぎている気がします。たまにでいいですから、仕事や色々な雑務を一切忘れて何かを楽しむ時間を作られてはどうでしょうか? 何でも構いません。美味しいものを食べる、いい景色を観る、気の合う友人と楽しくおしゃべりをする……。そんなことで構いません」


メイの言葉に、ヴィエイユは戦慄する。ここ最近見る、淫らな夢の原因がわかったような気がしたからだ。まさかこの女性は、自分の心の中をすべてを見透かしているのではないか……。一瞬そんな不安を覚えたが、ヴィエイユは素早く頭の中を切り替える。


「そうですね。ご助言、感謝申し上げます」


にこやかに頭を下げて、ヴィエイユはその場を辞した。


◆ ◆ ◆


アガルタ大学の職員に案内されながら、ヴィエイユは静かに廊下を歩いていた。思ったような結果は得られなかったが、これは想定内だ。できれば、アガルタ王の情報を得たかったというのが正直なところだ。だが、リノスとメイの夫婦仲は順調であるらしいことがわかった。これまでで得ていた情報では、リノスの最愛の妻はリコレットということになっていたが、どうやらそれは一概には言えないようだ。妻の役割には色々とあるが、メイはどちらかと言えば、夫に癒しを与える役割を担っているのだろう。こういう女性は男性に好かれるし、アガルタ王もその例に漏れないだろう。


……メイリアスというカード。最悪の場合に、使える。


長い廊下を歩きながら、そんなことを考える。だが、その切り札は諸刃の刃だ。使い方を間違えると、その身を破滅させる可能性が高い。かつてクリミアーナ教国が犯した、あのときのように……。


慌てない慌てない。まだ、時間はある。ゆっくり綻びを探せばいい。


リノスの篭絡を悲願とするヴィエイユ。その目的が世界の王になるためであるのか、彼の愛を受けたいという欲望であるのか……。彼女自身も、今は明確に意識をしていなかった。それがわかるのは、まだ先のことだった。


突然、ヴィエイユの頭に閃くものがあった。彼女は少し胸をときめかせながら、前を歩いている大学の女性職員に声をかける。


「あの、恐れ入ります。一つ、ご案内いただきたいところがあるのですが」


怪訝な表情を浮かべて振り返る職員に、ヴィエイユは満面の笑みで口を開いた……。


◆ ◆ ◆


「すごい……上手だ……君は、本当に初めて?」


「初めてだって言っているじゃない」


「その割には……」


「さあ、次はあなたの番よ」


「任せてくれ。全く痛くないようにしてみせる」


「……ツ! いっ……痛い! ちょっと……抜いて……」


「嘘だ。痛くはないだろう?」


「痛い……わよ……血が出ている。一旦抜いて」


「……すまない」


ヴィエイユの目の前には、二人の男女の姿があった。女性は眉間に皺を寄せながら不機嫌さを露わにしている。一方の男性は、さも、申し訳なさそうな表情を浮かべながら白い、布のようなものを女性に渡そうとしているが、思いっきり拒否されている。


「さあ、もう一回よ」


「でも、血が……」


「大丈夫。もう一回……」


「ううう……」


困ったような表情を浮かべているのは、サンダンジ国の皇太子であるシンだった。彼の手には注射器が握られている。


「あの……何をされているのですか?」


ガラス一枚を隔てたところから、ヴィエイユはその光景を見ていた。二人の男女が互いの腕に注射を打ち合う姿は、彼女の理解を超えるものだった。


「練習です。医者になるためには、注射の技術は必須です。我がアガルタ大学では、患者に痛みを与えずに注射をする技術を徹底的に習得させています」


「回復魔法をかければ事は済むのではないですか?」


ヴィエイユの言葉に、女性職員は一切表情を変えずにゆっくりと首を振る。その様子に彼女は少し圧倒されながらも、再びガラス越しに見えるシンたちに視線を向けた。


オドオドと自信なさげに、女性と共に注射の練習をするシン。その様子を見て、ヴィエイユはクスリと笑みを漏らすのだった……。

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