第四百四十五話 ワーロフ帝国軍
一夜にして目の前の景色が変わっていた。その現状を理解するのに、しばらくの時間を要していた。
「……」
唖然とした表情を浮かべているのは、ヒーデータ帝国北方方面軍軍団長である、フレイラップ元帥だ。彼は口をあんぐりと開けたまま、両目を激しく動かし続けていた。
「申し上げます」
「……」
伝令の声に全く反応することなく、ただ、その場に立ち尽くす元帥。その様子を幕僚たちは不安そうに眺めている。
「申し上げます」
「……聞こえている。何だ」
伝令の兵士は、片膝をついて控えながら、心の中で舌打ちをしていた。
……元帥ともあろうお方が、兵士たちの前で呆けた面を見せるなど、あってはならないことだろう。
そんな失望とも侮蔑ともつかぬ思いを押し殺しながら、彼は早口でまくし立てる。
「ワーロフ陣営より、軍議を開きたいとの申し出が参りました」
「……すぐに行くと伝えよ」
「ハッ」
伝令が下がっていくが、元帥は茫然とした表情を崩すことなく、目の前の光景を眺め続けていた。
◆ ◆ ◆
一方のワーロフ帝国の陣では、幕僚たちが集まって軍議を重ねていた。
「わかりました。皆がそう言うのであれば、しばらくは静観することといたしましょう」
にこやかな笑みを浮かべているのは、一人の女性だった。副総司令官のシーワだ。彼女は類まれなる統率力でワーロフ帝国軍を再編し、帝国軍を世界でも稀に見る軍隊に育て上げたと言われている。
大抵、司令官の任に当たる者は、士官学校などを卒業した専門的な教育を受けた者が任官する。そのため、その任に当たる者は自ずと、貴族や軍事を担当する家の者が就くことになる。だが、ワーロフ帝国においては、そうした身分制度を徹底的に否定し、完全能力主義を導入していた。その中心となったのが、総司令官である、ゲシカナ将軍だった。彼は若い頃から、軍における身分制度撤廃を唱え、能力主義を導入することに全力を傾けた。その努力は功を奏し、ワーロフ帝国軍ではあらゆる階層に立身出世の道が開かれることになった。能力さえあれば、出世できるという希望は帝国国民の向上心を高め、国内に活力を生み出すに至ったのだ。シーワ副総司令官は、ゲシカナ将軍のまさに右腕として、その非凡な能力を発揮し、厚い信頼を得ていた。
居並ぶ幕僚たちは、厳しい選抜試験を潜り抜けてきた言わば、エリートばかりだった。彼らの軍議は大変に活発だ。ワイワイと意見を述べ合い、それをまとめながら作戦を立てていく。だが、一見すると、活発な議論が重ねられているようにも見えるこの軍議は、よく見ると、発言しているのは、幕僚たちの半数程度であり、残りの幕僚たちは口をつぐんだままだ。
「では、皆さ~ん。しばらくお休みくださぁ~い。フレイラップ元帥がお見えになりましたら、またお呼びしますねぇ」
甘ったるい声で幕僚たちに声をかけているのは、これも女性だ。小柄で、クリクリとした愛らしい目をしている顔立ちをしているこの女性は、司令官の一人である、ギギだ。彼女は副総司令官のシーワの妹であり、姉に勝るとも劣らない指揮能力を持っていた。彼女は両手を胸の前で合わせながら、幕僚たちに愛想のよい笑みを振りまいている。
「では、皆の者。しばらく休憩とする」
ゲシカナ将軍の声で、幕僚たちが頭を下げる。それを満足げに眺めた将軍は悠々とその場を後にした。その後ろを、シーワ副総司令官とギギが追っていく。
三人の姿が消えると、重苦しい沈黙が訪れる。誰一人として、その場を去ろうとする司令官はいなかった。
「のんびりと休憩などしていて、よいものか」
重々しく一人の司令官が口を開く。まるで相撲取りのような体躯を持ち、巨漢と言う表現がまさに適当なこの男は、帝国軍の先鋒を務めるチャンだった。彼は幕僚たちを見廻しながら、まるで問いかけるようにして口を開く。
「ドルガの様子は皆も見ただろう。空堀と思っていたところに、水を張られてしまった。落とすことはさらに難しくなった。我々が手をこまねいているうちに、敵は着々と準備を整えつつある。我らがこのまま何もしないでいることは、敵にさらに準備を整える機会を与えているにすぎぬ」
彼は、隣に控える幕僚に視線を向ける。
「オイ、ワーカ。お前はどう思うのだ?」
先程からずっと腕組をしていた男に、チャンは語りかける。
「そりゃ、私だって何とかしたいですよ。でも、司令官殿は俺の意見など聞きはしませんやね。やって無駄なことは、やらないでおくのが一番でさぁ」
「あんな女狐の言うことを聞いておっては、我らは犬死するぞ」
「まあ、そうしないように、何とか知恵を絞るしか手はありませんやね」
「手立てはあるのか?」
「ないことはありませんが、バレると厄介なんですよね……」
「取りあえず、お前の作戦を聞こうか。オイお前たち、絶対に上にバラすなよ」
チャンの言葉に、幕僚たちは大きく頷いた。
◆ ◆ ◆
「……さあ、ヒーデータはどう出るかな?」
「帝都に十万の援軍要請をしたようですし、きっと、今以上の大軍を送り込んでくるでしょう」
「そうか。攻撃は、ヒーデータの援軍が到着してから、だな」
「ええ。我らが血を流すのは最小限に留めませんと」
総司令官室の中で会話を交わしているのは、ゲシカナ将軍とシーワ副総司令官だった。椅子に座りながら口を開いている将軍の前にシーワは立ち尽くしている。その彼女の体には、ゲシカ将軍の手がまるで這い廻るように触れられている。その手を払いのけようともせず、シーワは言葉を続ける。
「ただ、我々が全く血を流さないと言うのも、外聞が悪いですわ。ある程度の犠牲は必要ですね」
「まあ、そうだろうな。それについては……任せる」
そう言って将軍は彼女を抱き寄せ、荒々しく鎧を脱がせていく。その様子をシーワは冷たい目で眺め続けていた。
既に将軍は男性としての役割は担えない状態だった。とはいえ、欲望はある。彼は女性の肌を見て、そこに手を触れることで、その欲望を抑えている。それを十分に承知している彼女は、心の中で嘯いていた。
……ただ、触らせるだけで私の思い通りに動いてくれるのなら、いくらでも触らせてあげる。
彼女は優しく将軍の頭を抱きしめた……。
◆ ◆ ◆
「はぁ~い、どうぞぉ~」
甘ったるい声が部屋の中から聞こえる。それを受けて、一人の男が素早く部屋に入ってきた。
「遅~い。何をしていたんですかぁ~」
ギギの声に、男は体を震わせる。司令官の一人であり、補給を担当するトーイッツだった。彼は見目麗しい顔立ちを真っ赤に染め、恥ずかしそうに俯いている。そんな彼の前に、ギギは仁王立ちをするようにして、立ち尽くす。
「で、他の方の動きわぁ?」
「ええと……。チャン司令官が、一刻の猶予もならぬと」
「それでぇ?」
「ワーカ司令官が、作戦を立てられまして……」
「へ~え。詳しく教えてくださぁい」
彼はオドオドとしながら、先程聞いた話を語って聞かせる。ギギの眉間にシワが刻まれていく。
「相変わらず、あの二人は的外れなことを考えますねぇ。ま、いいでしょ。あの二人については、私が何とかしましょう」
ギギの声に、トーイッツはひたすら俯きながら、体を震わせている。そんな彼の様子を見たギギはクスリと笑みを浮かべる。
カシャン……カシャン……プチ……プチ……フワサ……。
トーイッツの耳に、そんな音が断続的に聞こえてくる。しばらくすると音は聞こえなくなり、静寂が訪れる。
「さあ、どうぞぉ」
ギギの声が突然響き渡る。それと同時に、彼女の右手がトーイッツのあごの下に添えられた。彼女は彼の顎をクイッと上げる。そこには、一糸まとわぬ裸になったギギの姿があった。
「ご褒美です」
「でっ……でも……」
「休憩時間は、たっぷりありますからぁ」
その言葉を聞いた彼は、まるでロボットのようにたどたどしい動きで、ギギの体を抱きしめたのだった……。




