第三百九十三話 誠心誠意
「ヘイズの影響?」
マトカルが指摘したのは、ミークには未だヘイズから受けた教育が影響しているのではということだった。何せ、数百年間もの間、ヤツと共にいたのだ。その影響はちょっとやそっとでは変えられない。その上、それだけ長い間一緒に暮らしていると、日々の生活が習慣化されてしまっている可能性が高い。いきなり習慣を変えられてしまうと、戸惑いのあまり、以前の習慣に戻ろうとする意識が働くのも無理からぬことだと言う。そのために、彼女を変えようとするのは、相当の時間がかかるだろうということだった。
「リノス様は、あのミークというエルフに、ヘイズに止めを刺させたのだろう?」
「ああ、そうだ」
「おそらくミークは、ヘイズの死を受け入れていない。そのために、頭の中はヘイズのことでいっぱいになっている。これは戦闘の中でよく起こることがあるのだが、敵の大将や司令官を討ち取ったとき、その部下たちは頑なに降伏を拒否することがある。いかに言葉を尽くそうとも、彼らが降伏することはない。結果的に皆殺しにする以外にないのだが、一つだけ、頑なな彼らを説き伏せる方法がある」
「何だい、それは?」
「大将の首を、彼らの前に晒すのだ。そうすれば、イヤでも彼らはその死を受け入れざるを得なくなる」
俺は腕を組んで天を仰ぐ。マトカルの言うことも一理あるのかもしれない。だが、ヘイズの死体は、おひいさまたちの手によって徹底的に焼き尽くされ、骨すら残っていないのだ。
「拠り所だった……のかしら」
不意に口を開いたのはリコだった。彼女も目をじっと閉じたまま俯いている。こんな姿を見せるのは、あまり記憶にないことだ。
「きっと、ヘイズの言うことを聞かねば殺されることがわかって、あのエルフの姫は、ヘイズの望む通りの女性を演じたのかもしれませんわね。ただ……その期間があまりにも長すぎたために、演じていた性格がそのまま彼女にとって替わられてしまったのかもしれませんわね。そう考えますと……可哀想な女性ですわね……」
そこまで言うとリコは、大きなため息をついて、皆を見廻した。
「明日、もう一度私が、あの姫と話をしてみますわ」
その言葉には、リコの覚悟にも似た感情が感じ取れた。そうしたこともあって、彼女の意見に反対する者は、誰もいなかった。
◆ ◆ ◆
「まあ」
俺とリコが寝室に入ってくると、ルアラがいた。傍らのベッドにはイデアが静かに寝息を立てていた。
「イデア君がどうしてもリコ姉さまと一緒に寝ると言って聞かないものですから……」
聞けば、彼はリコを恋しがってかなりグズったのだそうだ。そろそろ3歳になろうとしているが、彼にはまだまだ母親が恋しいようだ。
リコはルアラに丁寧にお礼を言って、自分の部屋に下がらせた。彼女はイデアの顔を愛おしそうに撫でながら、小さな声で呟いた。
「いつまでも甘えん坊で……困りますわ。エリルのときは、ここまで甘えん坊ではありませんでしたのに……」
「いいや、男の子というのは、そんなものだよ」
「そうでしょうか」
「そうだよ。思いっきり甘えさせてやるといい。きっと強い子に育つ」
そんなことを言いながら俺は、前世のばあちゃんのことを思い出していた。男の子は甘えさせてやりなさい……というのは、ばあちゃんがよく、お袋に言っていた言葉だった。その言葉に間違いはないと信じているし、俺は自分の息子にそれを実践しようと思っているのだ。
リコはしばらくイデアの寝顔を見つめていたが、やがて俺の方を振り返り、小さな声で呟いた。
「私やリノスがこの子に愛情をかければ、それだけ優しい男性になるのでしょうか」
「ああ、そう思う。俺はエルザ様やファルコ師匠、エリルお嬢様……メイドのお姉さんたちから沢山の愛情を受けた。そして、かなり甘えさせてももらった。今俺があるのは、それがあったからだ」
「あの、エルフの姫も、ヘイズに愛情をかけてもらっていれば……」
「そのことだが、どうする気だ? 大丈夫か?」
「ええ、何とも言えませんが、もう一度、心を開いて話をしてみるつもりですわ」
「そうか。くれぐれも、無理だけはしないでくれ」
「わかりましたわ」
そう言ってリコは俺に抱きついて来た。
「実を言うと、明日のことが気になって、今夜は、眠れそうにないのですわ」
「うん? 俺の腕枕では、眠れなくなったのか?」
「そうではありませんけれども……」
「じゃあ、リコが熟睡できるように、俺も頑張るよ」
リコはまるで少女のような表情を浮かべながら、俺の胸に顔をうずめた。その彼女の髪の毛を、体を、俺は愛おしげに、ゆっくりと撫でていった……。
◆ ◆ ◆
次の日、リコは俺を伴って、ミークの部屋に向かった。部屋に入った直後、ミークはリコに憎しみの表情を浮かべたが、俺の姿を見つけると、まるで獣のように襲いかかってきた。だが、俺には結界が張ってある。彼女は俺の結界に爪を立てながら言葉を絞り出した。
「男……男……そなた、妾を抱け。妾を抱くのじゃ……。そなたは確か、妾を気持ちよくさせてくれた男ではないか。もう一度、もう一度、妾を気持ちよくするのじゃ。気持ちよくするのじゃ」
「……お前を気持ちよくしたのは、いつだったかな?」
「早くするのじゃ! 早くするのじゃ!」
「俺の質問に答えたら、気持ちよくしてやる」
「ううう……。あのときじゃ。あのとき……ヘイズの部屋で……妾の頭に手を載せて……気持ちよく……ああ……」
「そのヘイズはどうなった?」
「ヘイズ……ヘイズ……」
「思い出してみろ」
「……首を絞めて……死んだ」
「誰が殺したんだ?」
「それは……それは……それは……」
「誰だ?」
「……!! 妾!?」
「馬乗りになって、ヘイズの首を全力で締めていた」
「なっ、あれは違う! あれは……あれは……そうじゃ! お前じゃ! お前が妾に命じたのじゃ! お前がヘイズを殺したのじゃ!」
「よーく思い出せ。ヘイズの首に縄をかけたのは誰だ? 誰がその縄を引っ張った?」
「ううう……うわぁぁぁぁぁぁ!! ヘイズぅ! ヘイズぅ!」
ミークが頭を抱えながら、髪を振り乱す。その背中をリコがギュッと抱きしめる。
「……キャッ!」
だが、ミークは叫びながらリコの腕を振りほどき、彼女は床に投げ出された。だがそれでも起き上がって再びミークを抱きしめるリコ。抱きしめては振りほどかれ、再び抱きしめるというのを繰り返すこと数回。ミークの体力が尽きたのか、彼女はガックリと膝をついて四つん這いに突っ伏してしまった。
そんな彼女の背中をやさしくさすりながら、リコは息を切らせながら声をかけていく。
「もう……ヘイズは……死んだのですわ。もう……怖いものはないのですわ。もう……自分を押し殺すことはないのですわ。あなたの……お父上様や……お母上様の許に……帰れるのです。覚えているでしょ? あなたを愛してくれた、心から愛してくれた、お父上様やお母上様……乳母もいたかしら? あなたの家来たち……そこに、帰るのです。帰ってもいいのですよ……」
「ううう……うわああああ……」
「怖かったですわね。怖かったですわね。でも、偉かった。あなたは偉かったですわ。自分の命を守るために、ヘイズの望む通りの女性を演じたのですわ。そして、見事にヘイズを騙しきったのですわ。悲しい夜もあったでしょ。それこそ、気も狂わんばかりに苦しい夜もあったでしょう。でも、ヘイズは死にました。もう、あんな怖い思いをすることはないのです。ないのですよ……」
「うっ……うっ……うっ……うわあああああ~~。父上ぇ……父上様ぁ……」
そう言ってミークはさめざめと泣き始めた。リコは彼女の体を、泣き止むまで抱きしめ続けた。
「帰りましょう、ミークさん。あなたの大好きなお父上様の許に、帰りましょう」
どのくらいの時間を抱きしめ続けていただろうか。ようやく落ち着いてきたミークに、リコはやさしく声をかけた。その声に、ミークは無言のまま、ゆっくりと頷いた……。