第三百四十六話 扇の要を討て
「動くな! 動いてはならん!」
前線ではラファイエンスの絶叫にも似た声が響き渡っていた。彼は迫り来る敵を突き崩しながら、周囲の兵士たちに向けて声を上げる。
「他の隊は動いても、我ら前備えのラファイエンス隊は、断じて動くなーっ!」
すでに周囲は乱戦の様子を呈していて、さらにそこに敵が突撃してきているために、彼には次から次へと刀や槍が繰り出されていた。まさに、退くのも進むのもままならない状況の中、彼は討ちかかる敵を自慢の槍で蹴散らしながら、さらに大声を張り上げる。
「何千、何万という蜂が、蜜を求めて飛んでも決して散らないのは、常に動かざる巣があるからだ! 動くな! 我らは動ぜずして戦えーっ! お前たちならば、出来るはずだーっ!」
老将軍の声に、兵士たちの、おおーっ! という大声が響き渡る。彼はそれを聞いて満足そうな表情を浮かべる。しかし、次の瞬間、彼の表情は厳しいものとなり、その視線を河原の方向に向けた。
そこでは、真っ赤な鎧を着た男が、暴れ狂っていた。長い戦歴を誇るラファイエンスをして、このような男は、未だかつて見たことがなかった。
「悪魔、とは、このような者を言うのであろうか……」
その戦いぶりを見て、彼は思わずそんな言葉を漏らす。
実際、赤い鎧の男――ルミネは、ラファイエンスが手塩にかけて育てた兵士たちの攻撃を、その固い鎧で受け止めながら長い槍で攻撃を繰り出していた。今のところ兵士たちは、彼を川から上がったところで食い止め、その力任せの攻撃を見事に躱してはいるが、この状況ではジリ貧になることが目に見えていた。
それどころか、左翼に展開していた部隊の一部が、川を渡って自陣に向かっている。ただでさえ、正面の敵を食い止めるのが精いっぱいの状況下で、さらに大軍が迫っているのだ。ラファイエンスは、思わず顔をしかめる。
「グォォォォ!」
そのとき、まるで牛の鳴き声に似た声が戦場に響き渡る。見ると、ミーダイ国からやってきたオワラ衆たちが、ルミネの周囲を取り囲んでいるのが目に入った。彼らはルミネの周りをクルクルと回りながら、右手の人差し指と中指を立て、何かの呪文をブツブツと呟いている。程なくして、ルミネは片膝をついて、その巨体の動きを止めた。
「推参!」
イッカクの言葉と同時に、オワラ衆が散り、周囲の敵を倒し始めていく。彼らは短い剣を持ち、それで敵の急所を一突きにして、効率よく仕留めていくのだ。その様子は実に見事で、ラファイエンスは一瞬、戦いを忘れた。
「し……将軍!」
隣の部下の声で、彼は我に返る。
「あの赤い化け物は、オワラ衆に任せるほかあるまい! それよりも……あの左翼だな」
彼は迫り来る敵を斬り伏せながら、必死で戦況を分析する。打開策を考えるが、効果的な策は何も浮かんでこない。
「これは、死ぬな」
誰に言うともなく彼は呟く。今のところ、斬りかかってくる兵士は、問題なく対処できている。これまで何人もの敵を倒してきているが、まだまだ体は動く。だが、これがあと、数時間も続くとなると話は別だ。
そのとき、左翼側から地鳴りのような音が聞こえてきた。思わずその方向に視線を向けると、ヴィエイユの軍勢の大半が、タナ側に向けて突撃を開始する光景が目に入った。
「ほう、あのお嬢ちゃん、わかっているじゃないか。単に戦見物に来ただけではないようだな。それとも、我らが軍神殿のお導きかな?」
彼は左翼の方向に視線を向け、ニヤリと笑みを浮かべたまま、ぬうん! という唸り声と共に槍を突き出す。その瞬間、ぐはっ! という声と共に、一人の騎士が宙を舞う。彼の槍は、騎士の喉笛を正確に突いていたのだ。だがその槍は、柄の真ん中あたりでポッキリと折れていた。彼は舌打ちをしながら、腰に差している剣を素早く引き抜いた。
「たとえこのラファイエンスが討ち死にしたとしても、うろたえるな! 後しばらく持ちこたえれば、必ずサンダンジ軍が到着する! 今少しの辛抱だ! 動くでないぞ!」
大声を上げる彼に、さらに数人の騎士たちが襲いかかる。だが、彼は見事な剣さばきで騎士たちを斬り伏せる。その一方で、彼の疲労は、確実にその体に蓄積されていった。
この老将軍の奮闘ぶりは、右翼を守るラマロン軍からもよく見えていた。彼らは圧倒的に少ない軍勢で、その倍近くはあろう敵の大軍を受け止めている。その様子は、ラマロン軍を大いに鼓舞していた。
「あんな爺さんが、あれだけ働くのだ! 若い我らが出来ぬことはない! かかれ! 敵を倒すのだ!」
そう言って彼らは、目の前のタナ軍に襲いかかるのだった。
この様子は、タナ軍の本陣からもよく見えていた。国王のヴィルは眉間に皺を寄せたまま、目だけを激しく動かし、戦場全体の動きを把握しようと努める。
「……攻め切れておらぬな」
彼の呟きに反応する者はいない。周囲にいる全員が、恭しく頭を下げていた。彼は苛立っていた。ここまで自分の思い描いた作戦が上手くいかなかったことは、経験上なかったことだった。彼もまた、焦る自分との戦いを強いられていたのだ。
彼が焦る理由は三つあった。一つ目が、サンダンジ軍の動きであり、彼らがこの戦場に到着すると、退路を断たれることになる。現在の兵力をもってすれば、彼らを打ち破ることは造作もないことだが、サンダンジ軍が現れることで、一見するとタナ軍を包囲する格好となり、それが敵の士気を上げ、味方の士気が下がることを、彼は避けたいと考えていた。
そして二つ目が、右翼に展開しているヴィエイユの動きだった。彼にはこの動きがいまいち理解ができなかった。彼女が動いたおかげで、クリミアーナ軍の戦線は伸び切っている。おそらくそこを突けば、易々と突破できるであろうし、そこから敵の本陣をつくことは可能なはずだ。だが彼は、直感的にその策は失敗する、それどころか、タナ軍に甚大な損害を与えると感じていた。それがなぜそうなるのかは、今の彼にはわからない。むしろ、敵の大将であるリノスが何を考えているのか、何をしようとしているのかが、彼には分りかねていた。
そして最後は、自身の右腕とも頼むオクタの不在だった。彼さえいれば、作戦の幅は広がり、最悪の場合、一瞬で軍勢を丸ごと自国に戻すことができるのだ。だが彼は忽然と姿を消してしまった。プリルの石を爆発させて作り出した、「魔法封じ」の作戦は、まだまだその効果は有効だが、もし、オクタが戻らなかった場合、アガルタ軍が魔法を用いての攻撃に移ることを、彼は特に恐れていたのだ。
ヴィルは注意深く戦場を見渡していく。そして、彼の視線は、ある一点に注がれる。ヴィルはゆっくりと椅子から立ち上がり、手に持っていた指揮棒をスッと上げる。
「あの者の首を獲れ。あれが、アガルタ軍の要じゃ。全力で、あの者の首を獲るのじゃ。さすれば、アガルタ軍の堅陣は崩れる」
彼の指揮棒が差す場所には、未だ奮戦を続ける、名将・ラファイエンスの姿があった。
……一体、どのくらいの時間を、戦い続けているのだろうか。実際は、そう長い時間ではない気がするが、ラファイエンスは全身に疲れを感じていた。すでに彼の右手に持っている剣は、刀身がボロボロになっていて、最早、突くことでしか敵を倒すことはできなくなっている。だが、彼は鬼の形相を浮かべながら、周囲の兵士の鞍を拳で叩きながら激励し、迫り来る敵を倒していた。そんな中、彼の目に、対岸のタナ軍がさらに突撃をしてくる姿が目に入った。
「し、将軍! も、もはや、これ以上は!!」
部下の絶叫にも似た叫び声が聞こえる。だが彼は、あらん限りの声を振り絞って、兵士たちに声をかける。
「動くなぁぁぁぁ!!」
そのとき、北東の方角に、兵士たちの歓声が上がった。思わず視線を移すと、川の対岸に軍勢が続々と集まっているのが目に入った。ラファイエンスは直感的に、それがサンダンジ軍であることを感じ取っていた。彼は剣を掲げて、大声で叫ぶ。
「見よ! あれはサンダンジ軍! 我らは勝ったぞ! 我らの勝利だ!」
その瞬間、ラファイエンスの体に、数本の矢が突き刺さった。そのうちの一本は、彼の首に深々と突き刺さっていた。彼は剣を振り上げた体勢のまま、ゆっくりと馬から落ちていった……。